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第18話

「――はあ。まだ続くんだ……」


 その溜息は嘆息か、それとも、安堵ゆえか。

 理由はわからないまま、花音は鏡の中の自分を見上げた。


 廊下や教室が花音の学校と大差がない内装の中で、女子トイレだけは違っていた。広くて清潔感があり、無駄に長居したくなるような快適な空間になっている。

 さすがにトイレの中に暗号はなさそうだ。けれど、もはやどこにあってもおかしくないくらい、花音の父親が残した暗号は続いている。


(本当に、いつまで続くんだろう)


 律と一緒に校内を巡るのは、不謹慎かもしれないが楽しい。だがそれと同じくらい、心苦しい。

 こんなに長い間彼を束縛しなければならないほど、父親が渡したかったものは価値があるのだろうか。


「もう、この辺で……、やめてもいいのかもしれない」


 迷いがありありとあらわれている自分の顔を見ながら、つぶやいてみる。律に対する申し訳なさの他に、徐々にふくれあがっていく別の感情がある。

 暗号を解くたび、見たこともないきれいなものを目の当たりにして感動する一方、心の内には澱のようなものが溜まっていく。

 自分の中の感情が、だんだん二つに分かれていく。


 この迷いを、律もうっすらと感じ取っているようだ。彼に気を遣われているのが息苦しくなり、花音はトイレに逃げてきたのだった。

 もう一度溜息をついて、ドアを開ける。花音は下を向いていたので気づくのが遅れた。最初に目に入ったのは数組の内履き。


「見つけたわよ」

「……へ?」


 顔を上げるも時すでに遅し。花音は数人の女子生徒達にとり囲まれていた。


 見知らぬ人ばかり、と思ったが、正面の少女には見覚えがある。音楽家の演奏を聴いた後、教室前の廊下で律にからんできた生徒のはずだ。

 とすると、こうなった状況は推して知るべし、ということだろう。


「あんた、律くんのなんなの?」


 開口一番、敵意むき出しの言葉が飛んできた。


「なんか今日、ずっと一緒にうろうろしてない? 何組の誰よ? 律くんとどういう関係なの?」

「うちらの誰もあんたのこと知らないんだけど。名前、名乗りなさいよ」


 口々に詰問きつもんされ、花音は対応に困る。はっきりと答えられるのは名前だけだ。けれど、それだけでは彼女たちは納得しないだろう。


「ちょっと、黙ってないでなんとか言ったら!?」

「無視してんじゃないわよ!」

「ああ、ごめんなさい!」


 花音は慌てて返事をした。とにかく何か答えなければ、さらに彼女たちをいらだたせてしまう。


「えっと、あたしは天宮あまみや花音っていって……、律……くんとは、別になんの関係もないんだけど、事情があって、今日だけ案内してもらってて……」

「は? 意味わかんないんだけど」


 花音のしどろもどろな説明では、やはり理解してもらえなかった。わかってはいるのだが、これが事実なのだから、他に説明のしようもない。正面にいるポニーテールの生徒が目をつり上げて詰め寄ってくる。


「関係ないなら、なんで律くんが一緒なのよ!」

「だ、だからそれは、偶然会って……、ほ、ほら、律くんてやさしいでしょ? あたしもなんだかわからないけど、自分からやってくれるって……」

「……律くんが、自分から?」


 真ん中の子が、怪訝けげんな顔をして周囲の人たちと視線を交わす。


「あんた、何言ってんの?」

「え?」

「律くんは誰とも関わんないわよ。複雑な家庭環境ってやつで、人間が嫌いなんだから。あんたが無理矢理つきあわせてるだけでしょ。無神経な女ね!」


 どん、と胸を突き飛ばされて、花音の中に小さく火種が灯った。


「……あたしは、ほんとのことしか言ってないよ。律は優しいから、あたしが困ってたのを見過ごせなかったんだと思う。あなたたちこそ、言ってることが無神経なんじゃない?」

「なっ……、なによ、えらそうに!」

「ね、ねえ、瑠璃るり!」


 隣の子が慌ててカッとなった女子生徒を肘でつついた。「こいつ、誰も知らないなんて、やっぱりおかしいよ。先生んとこ連れて行かない?」


(えっ!?)


 花音は内心ひやりとした。それは一番避けたかった事態だ。


「ちょ……、ちょっと待って! 先生に言うのはやめて! もう少しだけでいいから、ね!?」


 花音が焦ってそう頼むのを、瑠璃と呼ばれた子は鼻で笑った。


「ふうん。あんた、やっぱり部外者なんだ。ああそうだ、律くんがあんたを引き込んだことにしてやろうかな。そうすれば、律くんも少しは懲りるよね」

「えっ……」


 花音は血の気が引くのを感じた。

 瑠璃の意図がわからない。

 標的は自分だけじゃないのか。

 けれど、律に濡れ衣を着せるなんてことは絶対にできない。職員室へ向かおうとする瑠璃に追いすがる。


「だ、だめだよ! なんで!? そんな、律に迷惑がかかるようなこと、どうして――!」

「何言ってんのよ。全部あんたのせいじゃない。ちょ……、離しなさいよ!」


 花音の手を払いのけようとして、瑠璃が勢いよく腕を振った。とっさに花音が手を離したため、バランスを崩した瑠璃が壁にぶつかる。「きゃあっ」と声をあげ、その場にうずくまった。


「ご、ごめん! 大丈夫!?」

「痛っ……、触んないで!」

「ちょっと、瑠璃に何するのよ!」


 完全に女子生徒達は頭に血が上ってしまった。もう収拾が付かない。

 壁に飾られた絵画の額縁にぶつけたのか、瑠璃の手の甲に血がにじんでいる。花音は彼女に近づこうとしたが、周囲がそれを許さなかった。


 ちらほらと通りすがる生徒達は、皆もめごとに関わるまいと、騒ぎになっている集団を避けるように歩いて行く。その中で、逆に近づいてくる人影があった。


「……なんの騒ぎ?」


 女子生徒達の数人がぎょっとした顔をした。その視線を追うと、そこには、帰りが遅くて探しに来たのだろう、律の姿があった。


「り、律くん……!」


 律は、中心にいる花音の姿を認めると、大体の事情を察したようだった。次に瑠璃に目をとめ、集団の中をまっすぐ彼女目指して進んでくる。

 小さく震えて身を引こうとした瑠璃の腕をつかむと、そのまま立ち上がらせる。


「り……、律?」


 花音は、おそるおそる声をかける。律の表情は変わらないように見える。けれど、怒りの気配が漂ってくる。

 律は花音の呼びかけには答えなかったが、かばうようにその前に立った。


「保健室に行く。他の人は、帰って」

「え、で、でも……」


 反論しようとした生徒を振り向き、律がねめつけるようにして言った。


「いいから、帰って。これ以上は、本気で許さないから」

「……っ」


 押し殺したような低い声に、花音を含め、全員がびくりとした。内に秘められた怒りはおそらく、花音が失言したときのそれとは比べものにはならない。

 自分に対するものではないのに、花音の心臓がきゅっと縮みあがる。一瞬だけ見た女子生徒達の顔は色を失っていて、きっと自分も同じ顔をしている、と思った。


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