「――はあ。まだ続くんだ……」
その溜息は嘆息か、それとも、安堵ゆえか。
理由はわからないまま、花音は鏡の中の自分を見上げた。
廊下や教室が花音の学校と大差がない内装の中で、女子トイレだけは違っていた。広くて清潔感があり、無駄に長居したくなるような快適な空間になっている。
さすがにトイレの中に暗号はなさそうだ。けれど、もはやどこにあってもおかしくないくらい、花音の父親が残した暗号は続いている。
(本当に、いつまで続くんだろう)
律と一緒に校内を巡るのは、不謹慎かもしれないが楽しい。だがそれと同じくらい、心苦しい。
こんなに長い間彼を束縛しなければならないほど、父親が渡したかったものは価値があるのだろうか。
「もう、この辺で……、やめてもいいのかもしれない」
迷いがありありとあらわれている自分の顔を見ながら、つぶやいてみる。律に対する申し訳なさの他に、徐々にふくれあがっていく別の感情がある。
暗号を解くたび、見たこともないきれいなものを目の当たりにして感動する一方、心の内には澱のようなものが溜まっていく。
自分の中の感情が、だんだん二つに分かれていく。
この迷いを、律もうっすらと感じ取っているようだ。彼に気を遣われているのが息苦しくなり、花音はトイレに逃げてきたのだった。
もう一度溜息をついて、ドアを開ける。花音は下を向いていたので気づくのが遅れた。最初に目に入ったのは数組の内履き。
「見つけたわよ」
「……へ?」
顔を上げるも時すでに遅し。花音は数人の女子生徒達にとり囲まれていた。
見知らぬ人ばかり、と思ったが、正面の少女には見覚えがある。音楽家の演奏を聴いた後、教室前の廊下で律にからんできた生徒のはずだ。
とすると、こうなった状況は推して知るべし、ということだろう。
「あんた、律くんのなんなの?」
開口一番、敵意むき出しの言葉が飛んできた。
「なんか今日、ずっと一緒にうろうろしてない? 何組の誰よ? 律くんとどういう関係なの?」
「うちらの誰もあんたのこと知らないんだけど。名前、名乗りなさいよ」
口々に
「ちょっと、黙ってないでなんとか言ったら!?」
「無視してんじゃないわよ!」
「ああ、ごめんなさい!」
花音は慌てて返事をした。とにかく何か答えなければ、さらに彼女たちをいらだたせてしまう。
「えっと、あたしは
「は? 意味わかんないんだけど」
花音のしどろもどろな説明では、やはり理解してもらえなかった。わかってはいるのだが、これが事実なのだから、他に説明のしようもない。正面にいるポニーテールの生徒が目をつり上げて詰め寄ってくる。
「関係ないなら、なんで律くんが一緒なのよ!」
「だ、だからそれは、偶然会って……、ほ、ほら、律くんてやさしいでしょ? あたしもなんだかわからないけど、自分からやってくれるって……」
「……律くんが、自分から?」
真ん中の子が、
「あんた、何言ってんの?」
「え?」
「律くんは誰とも関わんないわよ。複雑な家庭環境ってやつで、人間が嫌いなんだから。あんたが無理矢理つきあわせてるだけでしょ。無神経な女ね!」
どん、と胸を突き飛ばされて、花音の中に小さく火種が灯った。
「……あたしは、ほんとのことしか言ってないよ。律は優しいから、あたしが困ってたのを見過ごせなかったんだと思う。あなたたちこそ、言ってることが無神経なんじゃない?」
「なっ……、なによ、えらそうに!」
「ね、ねえ、
隣の子が慌ててカッとなった女子生徒を肘でつついた。「こいつ、誰も知らないなんて、やっぱりおかしいよ。先生んとこ連れて行かない?」
(えっ!?)
花音は内心ひやりとした。それは一番避けたかった事態だ。
「ちょ……、ちょっと待って! 先生に言うのはやめて! もう少しだけでいいから、ね!?」
花音が焦ってそう頼むのを、瑠璃と呼ばれた子は鼻で笑った。
「ふうん。あんた、やっぱり部外者なんだ。ああそうだ、律くんがあんたを引き込んだことにしてやろうかな。そうすれば、律くんも少しは懲りるよね」
「えっ……」
花音は血の気が引くのを感じた。
瑠璃の意図がわからない。
標的は自分だけじゃないのか。
けれど、律に濡れ衣を着せるなんてことは絶対にできない。職員室へ向かおうとする瑠璃に追いすがる。
「だ、だめだよ! なんで!? そんな、律に迷惑がかかるようなこと、どうして――!」
「何言ってんのよ。全部あんたのせいじゃない。ちょ……、離しなさいよ!」
花音の手を払いのけようとして、瑠璃が勢いよく腕を振った。とっさに花音が手を離したため、バランスを崩した瑠璃が壁にぶつかる。「きゃあっ」と声をあげ、その場にうずくまった。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
「痛っ……、触んないで!」
「ちょっと、瑠璃に何するのよ!」
完全に女子生徒達は頭に血が上ってしまった。もう収拾が付かない。
壁に飾られた絵画の額縁にぶつけたのか、瑠璃の手の甲に血がにじんでいる。花音は彼女に近づこうとしたが、周囲がそれを許さなかった。
ちらほらと通りすがる生徒達は、皆もめごとに関わるまいと、騒ぎになっている集団を避けるように歩いて行く。その中で、逆に近づいてくる人影があった。
「……なんの騒ぎ?」
女子生徒達の数人がぎょっとした顔をした。その視線を追うと、そこには、帰りが遅くて探しに来たのだろう、律の姿があった。
「り、律くん……!」
律は、中心にいる花音の姿を認めると、大体の事情を察したようだった。次に瑠璃に目をとめ、集団の中をまっすぐ彼女目指して進んでくる。
小さく震えて身を引こうとした瑠璃の腕をつかむと、そのまま立ち上がらせる。
「り……、律?」
花音は、おそるおそる声をかける。律の表情は変わらないように見える。けれど、怒りの気配が漂ってくる。
律は花音の呼びかけには答えなかったが、かばうようにその前に立った。
「保健室に行く。他の人は、帰って」
「え、で、でも……」
反論しようとした生徒を振り向き、律がねめつけるようにして言った。
「いいから、帰って。これ以上は、本気で許さないから」
「……っ」
押し殺したような低い声に、花音を含め、全員がびくりとした。内に秘められた怒りはおそらく、花音が失言したときのそれとは比べものにはならない。
自分に対するものではないのに、花音の心臓がきゅっと縮みあがる。一瞬だけ見た女子生徒達の顔は色を失っていて、きっと自分も同じ顔をしている、と思った。