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第14話

「はあ、はあ……。律って、意外とバイタリティあるよね……」


 度重なる方向転換で体力的にも精神的にも消耗した花音は、音楽室前でようやく足を止めた律の隣で荒い息をついた。


「うう。食べたばっかだからお腹苦しい……。ごめん。ちょっと休んでからでいい?」


 律に扉を開けてもらうと、花音は絨毯の敷かれた床に倒れ込んだ。音楽室は土足禁止だから、足は絨毯の外側に出しておく。

 横になったまま先ほどの光景を思い出す。眉間にしわを寄せたのが見えたわけではないだろうが、先に中に入っていた律が声を入り口まで戻ってきた。


「大丈夫? 具合悪くなった?」

「あっ……、大丈夫、ごめん! ちょっと考え事してただけ!」


 慌てて内履きを脱いで立ち上がる。


「? 考え事?」

「あ、や、たいしたことじゃない……。っていうか――」


 花音は笑ってごまかしかけたが、律が心配しているように見えて、仕方なく口を開いた。


「……ねえ、さっきのいたずら書きって、本当に暗号だと思う?」

「……うん。たぶん」

「そっか……」


 花音は小さく笑ってから付け足した。


「もしあれが……さ。あいつの仕業だとしたら、ちょっとシャレにならないなって思っただけ」


 真っ白な壁につけられたたった一つの汚点。こすって消える程度のものではなく、元通りにするには壁紙の張り替えが必要になるだろう。さらに、食事場所での虫の絵が気分の良いものでないことくらい、誰にだってわかるはずだ。

 実際、アルバイトの青年も困惑していた。父親のこういう、他人の迷惑を顧みないところが本当に嫌いだと、花音は再認識してしまう。


「……」


 気がつくと、律も難しい顔をして黙り込んでいる。思った以上に雰囲気が重くなってしまったので、慌てて笑い飛ばした。


「あはは。ごめん。こんなこと言われても困っちゃうよね。さ、次行こう、次!」


 花音は律の視線を逃れるように、黒板の方へ歩き出した。その背中に、律がぽつりと言った。


「花音が気に病むことじゃないよ」 

「……うん。ありがと」


 花音は小さく頷くと、気を取り直して律に尋ねる。


「えっと、それで、何だっけ? 音楽室の暗号の答え」

「たぶん、フランツ・リストのことだと思う。ピアノ演奏家の」


 聞き覚えがある名前なので音楽の授業で習ったのだろうが、名前以外の情報がさっぱり思い出せない。


「とりあえず、有名な人なら肖像画とかあるよね? それか楽譜……とか?」


 花音は壁にかかった肖像画、律は楽譜や楽器の置かれた棚の方と、手分けして調べていく。


「それにしても、なんだね。ほんとあたし、律がいなきゃ一つも暗号解ける気がしないや。あいつも、あたしがそんな頭がいいとでも思ってたのかな?」

「……別に、頭がいいわけじゃないよ」


 律は声のトーンをわずかに落とした。


「ただその話を、聞いたことがあったってだけ。ただそれが、たまたまなのか、そうでないのか――」

「え?」


 聞き返すと、律がまっすぐ花音を見つめて言った。


「あのさ、花音のお父さん、僕の知ってる人かもしれない」

「えっ――」


 壁掛けの絵を見ようと背伸びをしていた花音は、驚いてよろけそうになる。


「僕に、色々教えてくれた人。花畑で、蝶を見せてくれた人。だじゃれが好きで、北斗七星の別名を教えてくれて、それに――……」

「ま、待って待って、律!」


 慌てて律の言葉を遮る。


「それって、あれでしょ? 変な名前のアメリカ人! 言っておくけど、あたしの親はれっきとした日本人だったから! 律の言ってる人とは全然違うよ!」

「……や、でも、外見は日本人に見えたし――」

「外見だけでしょ!? もう、そんな偶然あるわけないじゃん! それに、もしそうだとして、律に暗号のヒント教えることになんの意味があるの?」

「それは……わからないけど」

「でしょう!?」


 花音は大きく息をついて、胸をなで下ろした。


「あー、びっくりした。うちの父親は、さっきも言ったけど、ほんとーにろくでなしだから! 自己中で、一方的で、思い込みが激しくて! 一緒にしちゃったら失礼だと思うよ」

「……そう、だね」


 花音の剣幕に気圧されたのか、律はそれ以上追求せず、暗号の答え探しに戻った。花音も興奮して熱くなった顔を手で仰ぎつつ、肖像画を一つ一つ眺めていく。

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