あっという間に出てきた食事をいそいそとテーブルに運ぶ。学生向けのため、量は多めで金額は安い。それなのにデザートまでしっかり付いていて、さらには
「すごい……、サラダとか付け合わせまで全部おいしい……! 律、いいなあ。毎日こういうの食べてるの?」
感動で顔がとろけそうになりながら律に尋ねる。
「生徒達で混むからあんまり来ない。たまに、時間外で来るときもあるけど」
やはり時間外利用の常連のようだ。和食派なのか、ご飯をもそもそと食べている律を眺めていた花音は、ふと律の背後の壁が気になった。
「…………。何だろ、それ」
「え?」
律が後ろの壁を見る。ちょうど彼の肩がくる位置に、黒いペンで何か絵が書かれている。
一筆書きで書いたような絵だった。まず二等辺三角形を書き、その頂点から底辺へ向けて直線を伸ばして突き抜ける。その図の向かって左側には、シンプルな虫の絵が描いてある。
「いたずら書きかな? 律、知ってた?」
「や……気づかなかった」
清潔感のある白壁は新品かと見まがうくらいにきれいで汚れ一つ見当たらない。その中でただ一点、この落書きだけが浮いて見える。食堂の隅とはいえ、美観を台無しにしているのは間違いない。ひどいことをする人がいるものだ。
「ああそれ! 気にしないで!」
二人で壁を見つめていると、先ほどのアルバイトが慌てたようにやってきた。気さくな性格のようで、何も聞いていないのに一人でしゃべり出した。
「それ、いつの間にか書かれていたんだよ! 全く、誰だか知らないけど、食堂に虫なんてたちが悪いよな!? まあ、別れ傘だからいいのかもしんないけど。……いや、よくないんだけど……」
困った顔をして頭をかいている青年に花音は同情した。虫の絵をよく見ると、頭とお尻に長い触覚がある。花音は見たことがない虫だ。
「でもなんでこんなこと……。あ、ねえ、律。虫の専門家だよね? これって何の虫かな?」
律は少し眉を下げた。
「僕も、全部知ってるわけじゃ……。さっきだって、図書館の本で調べたいことがあって――」
そこで何かに気づいたように箸を止めた。
「別れ傘って、何?」
「あ? お前ら、知らない? 相合い傘っていう、恋愛成就を願って書くのと逆で、縁を絶つっていう意味の――。ほら、傘の間に線が入ってるだろ?」
確かに、三角形を二つに分断するように、まっすぐ線が入っている。花音はスマートフォンを取り出して調べてみる。
傘の上にハートマークが描かれたもの、傘の間に線が入ったり入らなかったりするものもあり、どうやらいろんなバージョンがあるらしい。画面に「正しい相合い傘の描き方」を表示してつぶやいた。
「ふうん。こんなのがあるんだ。ね、律も見てみなよ! 面白いよ」
「僕、ケータイ持ってないから」
なんでもないことのように言われて、花音とバイトの青年は目を丸くした。
「ええ!? ほんとに!? 持ってないの!?」
「おお! すげえ、天然記念物なみだなおい!」
「……」
律はじろりとにらんだだけで、すぐに食事を再開した。しかし、花音はさらに食い下がる。
「え、じゃあ、どうやって連絡取り合うの!? 友達とか、家とかさ!」
「別に、とりたい人いないから」
律のあっさりした答えは、それ以上の追求をためらわせる効果があった。青年が居心地悪そうに視線をさまよわせ、花音はがっかりしてスマホの画面に視線を落とす。
今日ここを離れてからも、律とは繋がっていられると思っていた。連絡先を交換する機会をうかがっていたのに、その手段がなかったとは。
「……花音?」
突然静かになった花音に、律が声をかけた。花音は焦って話を戻す。
「あ、あーっと、絵の話だったね! えっと、これが別れ傘っていうと、虫と縁を切りたいってことかな? でも、なんかこれ、矢印にも見えるよね。や、矢印にしては変かー、あはは!」
「……矢印?」
少し傾いた傘の先を見つめた律は、いきなりご飯を食べるスピードを上げた。
「え? 律? 急がなくていいよ? あたしがご飯食べるの速いだけで――」
「――ごちそうさま。花音、行くよ」
「えっ? ええ、えーっ?」
早送りのような動きで食器を棚に戻すと、呆気にとられる青年を尻目に、花音はひっぱられるようにして食堂を後にした。