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第10話

 律が向かったのは、「生物準備室」と表示された教室だった。それほど広くない室内には長テーブルが等間隔に配置されていて、その上には、小学校でよく見た透明なケースが数十個並べられている。


「ここは一応、僕が管理してるんだ。だからほとんど人も来ない」


 それが本当なら、隠れ場所には最適だろう。どうせ昼休みになるまで音楽室には入れない。

 律は、飼育ケースの間を行き来し、それぞれの様子を観察したり、世話をしたりし始めた。花音はテーブルとテーブルの間をぶつからないように気をつけて進んでいき、周囲より影になっている一つに近寄ってみた。

 中からはカサコソとはかなげな音が聞こえる。気のせいか、小さな生き物の息づかいも。


「あ。花音はちょっと……、こっちの方がいいかも」

「え?」


 律はためらいがちに花音がいるのと反対方向のケースを袖で指し示す。


「虫が好きならいいけど、そうじゃないなら、こっちの方が一般的だから……」

「あ。そ、そうなんだ……」


 決して虫が得意なわけでない花音は、素直に忠告に従った。律に勧められたケースの中をのぞき込むと、小さな虫たちがか細い足を一生懸命動かしているのが見えた。順繰りに一つ一つのぞいていく。


 カブトムシ。クワガタ。カマキリ。テントウムシ……。


「ふむふむ。この辺りはわかる」


 ……黒くて足の長い虫。毛がもさもさしてクモみたいな(以下略)……。


「うん! この辺りでやめよっかな!」

「……僕は初心者だから、育てやすい身近な虫しかまだいないけど……」


 身近でもキモチワルイものはキモチワルイ。花音は後ずさりして、遠巻きに眺めることにした。

 サイズの合わない白衣の袖口をまくり、かいがいしく虫たちの世話をする律の目は、真剣そのものだ。


「律は、虫が好きなんだね」


 クリップボードに何かを書き込んでいる律を見ながら、感心してつぶやく。彼は、花音を一瞥すると、


「――昆虫は、わかりやすいから」


手をとめずに、返事をした。


「わかりやすい?」

「……進化するのも、行動原理も、生き残ることが目的だから。単純で、わかりやすい」


 何と比べて、とは律は言わなかった。

 花音も深くは聞かなかったが、先ほどの女子生徒達の言葉が腑に落ちた。彼女たちが嫌っていた律の趣味とは、このことだったのだろう。


「……そういえば、カエルって、虫じゃないよね?」


 律のセリフを思い出して言うと、彼はワンテンポ遅れて顔を上げた。


「仕方ないでしょ。それしか思いつかなかったんだから」


 憮然とした言い方がちょっとすねているように見えて、花音はつい笑ってしまった。


「あははは――と、ごめんごめん。でも、そっか。なんで白衣なのかずっと疑問だったんだ。謎が解けたよ」

「いや。解剖はしないから。これはただ、制服は汚すと代えがないからで」

「……え?」

撥水はっすい加工してあって、安いの、これしかサイズがなかったから……」


 意外に庶民的な理由だった。律に勝手に親近感を抱いていると、彼はきまりが悪くなったのか、突然、花音の腕を引っ張った。


「え、なに? なに!?」


 生物準備室には廊下に面するドアと別に、勝手口のようなものが設えてあった。三和土たたきにはなぜか律のものらしき外靴とサンダルが置いてあり、律はサンダルを履いてついて来るよう花音を促す。


 外に出ると、そこは塀に囲まれた中庭になっていて、星屑のような白い小花が咲き乱れる花畑が広がっていた。

 咲き誇る花の上を、たくさんの薄水色の蝶がふわふわと舞っている。

 それは美しい光景だった。


「うわあ、このチョウチョきれい! すごい! なんかステンドガラスみたい!」

「アサギマダラって言うんだ。長距離の渡りをする珍しい蝶。花音はこっちで待ってた方がいいでしょ」


 切り取られたような青い空と、白い花々、そしてゆらめく浅黄色のコントラスト。絵画のような情景に、いつまでも見ていたい気分にさせられた。


 日当たりのいい場所に置かれたベンチに座っていると、遠くから生徒達の喧騒が聞こえてくる。ゆっくりと過ぎていく時間を、他校でこうしてすごしているというのは不思議でたまらない。


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