反論しようとしたら、いつの間にか、先輩の顔がすぐ目の前にあって驚く。しゃがんで視線の高さを合わせ、腫れた頬にハンカチを当ててくれているのだ。
先輩にそこまでさせて申し訳ないが、ちょうど良いチャンスだ。私はハンカチを持った先輩の手の上に自分のそれを重ね、しっかりと頬に押しつけた。
「み、三澄さん……!?」
「ところで、話は変わりますが、先輩は、なぜここに?」
強引に話をそらすと、亜樹先輩は顔をこわばらせた。身を引いて離れようとしたのを、手に力を入れることで阻害する。
「今日は、巡回はお休みでしたよね?」
「そっ……、それは、明日で最後だから、下見っていうか……、じゃなくて! ちちち、近いから! は、離してくれないかな!?」
「――バスケ部の説得は、あなたが行ったんですね」
確信を持って図星を突く。先輩の顔が、さあっと青ざめた。ほんの一瞬、視線を自分の制服に走らせる。
――私のものとは違う、濃い緑色の制服に。
「こっ、……これは……」
「私が間抜けでした。考えれば……、いえ、考えるまでもなく、わかることだったのに」
最初から違和感はあったのだ。
なぜ、現地集合なのか。向かう先が同じなら、学校から一緒に行けばいいではないか。
その謎が解けたのは、先ほどの会議の後だ。
各部の真意を確認するため、私は心当たりの部を回った。もちろん、空手部もだ。今日は巡回のない日だから、特に理由がなければ、亜樹先輩も部活をしているはずだった。
それなのに、道場に姿が見当たらない。だから、そこの部長に先輩の所在を聞いてみたのだ。
彼は言った。そういう名前の知り合いは確かにいる。だがそれは、
常盤高校は、群青高校の隣にある高校だ。巡回場所は、その通学路になっているはず。
だから、現地集合だったのだ。常盤高校からは、群青高校を経由するより直接向かった方が近いから。
それに、会長にしても、その方が都合が良かったのだろう。他校の生徒を校内に入れるには許可を取る必要があるし、なにより亜樹先輩は、派手ではないが人目を惹く。
「――ごめん! 本当にごめん! 明日にはちゃんと話そうと思ってたんだ」
私が手を離すと、亜樹先輩は立ち上がって頭を下げた。
「なんというか、俺も、最初はこんな本格的に騙すつもりじゃなくて。ちょっとしたきっかけを作ってもらうだけのつもりで……!」
「? よくわかりませんが、先輩は頼まれただけでしょう。会長はフェミニストですから、一応女である私の護衛役として、腕の立つ人が必要だった。だから、あなたに押しつけた。そういうことではないのですか?」
「あ、いや、それは……」
先輩は困ったように口ごもった。会長から口止めされているのかもしれないが、散々騙されたのだ。追及の手を緩めるつもりはない。
「同じように、ただ兄弟だからという理由で、葉琉先輩の説得も任されたんでしょう? 幼なじみだからってそこまでするんですか? なにか、弱みでも握られているのでは――」
「……いや、三澄さん、違うんだ。――これは、交換条件だったんだよ」
散々悩んでいた様子の先輩が、突如、強い口調で話を遮った。
「え?」
「もともと、俺が一城に頼んだんだ。君に会う方法がないかって。その機会をつくってもらう代わりに、葉琉の説得を頼まれた。……あいつ、昔から、俺の言うことなら割ときくから……」
私は呆然とする。
先輩が私に会いたかった? ――意味が分からない。
「私に……、何か用があったんですか? でも、特に面識は……」
「……うん。全然、覚えてなかったよね。少しは、期待してたんだけど」
先輩が、ハンカチを握った手を目の前まで持ち上げた。街灯の光をあてると、青い花の模様が見てとれた。……とても、見覚えがある。
「実は、三澄さんとは俺、
「…………」
そう、だっただろうか。
昨年の文化祭は問題がやたら発生し、私も役員の仕事に不慣れだったため、嵐のように過ぎ去ったことしか覚えていない。
だからたぶん、次々起こるトラブルをさばくのに必死で、ただ、手前にいた人を気に懸けただけではないだろうか。それが亜樹先輩ではなく、葉琉先輩だったらきっと、葉琉先輩にハンカチを差し出していた。
そう言うと、亜樹先輩はほほえんだ。
「そうなのかもね。でも、君は最初に目が合った俺を迷わず心配してくれた。結構さ、俺とあいつを見比べてから、葉琉を選ぶ人が多いんだ。だから、嬉しかったんだよね。それなのに、君はすぐにいなくなっちゃったから、ハンカチも借りたままだったし、ちゃんとお礼を言うこともできなくて。葉琉に聞いても、人が多すぎて覚えていないの一点張り。それでもどうしても諦めきれなくて、この間、たまたま会った一城にダメ元で聞いてみたんだ。そうしたら、すぐに君の名前を教えてくれた。でも、もう一度会ってお礼を言いたいって言ったら、三澄さんはそういうの嫌がるよって」
花柄のハンカチを手に取った。
無くしたと思ったときは残念だったが、そういういきさつで人の手に渡っていたのなら、戻ってこなくても惜しくはない。
会長の言う通りだ。確かに私なら、そのまま持っていても構わない、と、会うのを拒否するだろう。そんなところまで見透かされているのかと思うと面白くなくて、心の中で舌打ちをする。
しかも、さっきの会長の言葉。あれも嘘だったのだ。……いや、嘘というよりは、全てを語っていなかったということか。
「それで、わざわざこんな猿芝居を……」
「……ごめん」
純真そうな顔が申し訳なさそうにゆがんだ。
そこまで謝られると、さすがに反応に困ってしまう。会長は騙す気満々だっただろうが、先輩には本当にそのつもりはなかったのだろう。
しかし、彼はさらに頭を下げた。
「あのときは、心配してくれてありがとう。本当は、何かお礼もしたかったんだけど、三澄さん、何がいいのかわからなくて」
「……ああ……」
ここ数日間の先輩の言動を思い出した。
雑貨屋での変な質問や、スイーツにやたらこだわった理由。あの不審な行動の原因はこれだったのか。
「私は、生徒会の仕事をしただけです。それだけでお礼なんていただくわけにはいきません」
にべもない返答に、先輩は苦笑を浮かべる。私は続けた。
「むしろ、我々生徒会の事情に巻き込んでしまって、申し訳ありませんでした」
改めて考えてみれば、亜樹先輩は、ただハンカチを返すためだけに、他校の巡回業務に付き合わされ、バスケ部の説得を強要され、あげくに万引き騒ぎに巻き込まれたことになる。お人好しすぎて今後が心配になってしまう。
いつものようにポーカーフェイスを貫いているつもりだったが、そんな内心が伝わってしまったのか、先輩は、決まりが悪そうな面持ちで頬を掻いた。それから、意を決したように口を開く。
「……えーと、この際だから全部言っちゃうけど、三澄さん、俺のこと誤解してると思うんだ。部活のこともだけど、別に俺、バスケに挫折したから空手部に入部したわけじゃないよ。もともと空手に興味があって、最初から空手部に入ったんだ」
「そう……なんですか?」
負け惜しみかと思ったが、先輩の顔にごまかすような形跡は見られない。
「うん。それに、葉琉が空手部に入らないよう、画策もした。同じ部に入ると比較されるし、後から始めておいてあっという間に抜いていくのがまたむかつくからさ。一応、俺が数分だけでも兄だからか、あいつ、昔から俺のマネばっかりしたがるんだ。だから、先にバスケに興味を持つように誘導してから、こっそり空手部に入部した。バスケも割と好きだったし、あいつも絶対に興味を持つだろうって思ってたから」
「え……」
(――この人って……)
街灯を背に私を見下ろすその顔には、濃い影が落ちていて、目だけがやけに光って見えた。
会ってから数日。短い間だが、それなりに観察してきたつもりだった。だが、突然、別人のように見えた。
目の前に立つ亜樹先輩の姿を、上から下まで見つめ直す。
人気者の双子の弟にコンプレックスを持っていて、受け身で卑屈な、ただ流されているだけの、そんな人ではなかったのか。
――そうだ。
私は先輩のことも、ちゃんと見ていなかったのだ。
「それが本当なら……。先輩は、意外としたたかなんですね……」
先輩が、目を細めて唇の端を上げる。
「……軽蔑、する?」
「まさか」
軽蔑なんてするはずがない。自分に都合のいいように周囲を動かそうとすることなんて、誰でもやっていることだ。
亜樹先輩は、ハンカチをぬらし直して、手渡してくれた。私がそれを頬に当てる間に、またばつの悪そうな顔に戻ってしまう。
やっぱり、いい人なのだろう。私は心の中でクスリと笑う。
騙していたことになのか、私のケガになのかわからないが、引け目を感じているというのなら、せっかくだし利用させてもらおう。
今回のことは散々だったが、私だって、転んでもただで起きるつもりはない。
「そんなに罪悪感を抱いておいでなら……、先輩の弱みを一つ教えて下さい」
「――えっ?」
先輩はきょとんとしている。私はもう一度、はっきりくっきり、声に力を込めて言った。
「謝罪は結構ですと言っても、先輩は納得しないのでしょう? なら、私の願いを一つ聞いていただいて、それで今回のことをチャラにするのが一番平和な方法ではないでしょうか。……と、いうわけで、何か一つネタをください。今後、先輩を脅すときに有効活用させていただきますから」
「は……はあ!?」
先輩は目を白黒させた。まあ、当然の反応だろう。
「な……、何を言ってるかわかってるの、三澄さん!?」
「当然です。判っているからこそ、正々堂々とお聞きしているんです。こそこそ弱点を探るのは失礼ですし、なんだか卑怯じゃないですか」
「お、脅すこと自体が卑怯だからね!?」
「そうですね。だからせめて、卑怯さを減らしておこうと思いまして。――いきすぎない卑怯さと正直さを
私はにっこりと笑って宣言した。
私達はやっぱり似ている。卑屈で、ゆがんでいて、それでも自分なりに前に進んでいこうと、もがいているところが。
先輩は虚を突かれたような顔をして、それから、口元に手を当てて視線をさまよわせた。心底悩んでいるようで、青白い光の下で見るその横顔は険しい。
辛抱強く返事を待っていると、ようやく、心を決めた瞳がこちらを向いて――ほどけた。
その顔を見たとき、ふいに、会長の言葉が頭をよぎった。
――鈴城先輩は、心を許した相手にはめっぽう弱い人なんだ。
あれは、どちらの先輩のことだったのだろうか。
葉琉先輩か、亜樹先輩か。
それとも……。
改めて先輩を見つめる。
逆光に照らされ、闇に浮かび上がる端正な顔。その中で、うるんだ目が光をたたえ、視線はまっすぐ私に向いている。
「君が、俺の弱点を知る必要があるのかは疑問だけど――」
彼は少しだけ首をかしげ、観念したかのようにほほえんだ。
「――俺の弱点は、君だよ。君のことが、好きなんだ」