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第30話



 結局あの後、ルゥルゥたちは夜を徹して解呪に励むことになった。

 どうやらヴァリスが悪魔に乗っ取られていたのは、ほんの五分程度だったらしい。だが、その時間で王宮のほとんどの人間に呪いの症状が出ていた。あのままだと、おそらく半日と経たずに、テュシアは死の国になっていただろう。本当に、あの悪魔は国を滅ぼすつもりだったらしい。

「つっても、俺も同調してたから、気持ちは分からねえでもねえけどな」

 ぐったりとベッドに横たわりながら、ヴァリスが言う。その隣で同じく屍のように寝そべるルゥルゥは、わずかに苦笑して口を開いた。

「そうですか? 私は、あの人とヴァリス様が同じだとは思えませんけれど」

 ヴァリスは国を滅ぼしたかったのではなく、ルゥルゥを守ってくれただけだ。結果的に、そうするしかないと思って、あの行動に出ただけなのだ。

 彼はその黒と琥珀の瞳でじっとルゥルゥを見つめる。

「同じだろ。あいつも俺も、好きな女一人守れなかった」

 ルゥルゥはぱちぱち、と瞬く。

「もしかして、ヴァリス様もあの悪魔の記憶を見たのですか?」

「見たっつーか、もう俺とあいつは裏と表みたいなもんだから……基本的にうっすら何考えてるかは分かるんだよ。記憶もな。今なら、あいつの呪いがどういうものなのかも分かるし」

「と、いうと?」

「破壊衝動はあいつの怒り、吸血衝動はあいつの未練だ。もう取り返しがつかないから全部壊したい……取り返しがつかなくなる前にせめて好きな女と一つになっておけば良かった……そういうことだろ。まあ、単純に俺を孤立させるためでもあったんだろうが……」

 空中に手を掲げて、明かりに透かしながら言う。

「呪いには感情が出る、ってお前は言っただろ、ルゥルゥ。その通りだってことだ」

「なるほど……」

 正直、あの慟哭は今でも耳の奥にこびりついている。ヴァリスにかけられた呪いは、あの叫びと嘆きでできているのだろう。

「そういえば、あの悪魔は今、どうしているのですか? というか、ヴァリス様の体が今どうなっているのかも、きちんと診させてもらいたいんですが……」

「あいつなら眠ってる」

 即答だった。ルゥルゥは思わず固まる。

「正確には気絶が近いか? お前、俺があいつに乗っ取られてたとき、あいつに何かしただろ。強烈な記憶だったのか、俺も何も覚えてねえけど。何したんだ」

「え? ええと……」

 ルゥルゥは考え込んだ。自分は何をしただろうか? なにぶん、あのときは必死だったから……

 しかしそのとき、唐突に閃くものがあった。

「あ、血を飲ませました。私の」

「……何?」

「ほら、起きたとき私の舌、ずたずただったでしょう? あれ、自分でやったんです。もう塞がりかけてますけど……」

 口元や口の中というのは意外と修復が早いので、ルゥルゥの舌も、もう既に血は止まっている。今はもう、赤黒い歯型がいくつか見える程度だ。

 だが彼はその目を大きく見開き、がばりと身を起こした。徹夜で王宮を駆けずり回った疲れなど微塵も感じさせない、機敏すぎる動きである。

 咄嗟に身を固くしたルゥルゥの肩を勢いよく掴み、すさまじい形相で睨みつけてくる。

「何してんだお前、馬鹿か?」

 あまりにも直接的な罵倒に、ルゥルゥはむっとする。

「馬鹿ってなんですか。私も必死だったのですよ」

「だからって自分で……おい待て、舌噛んで血を飲ませたって、お前それどうやって飲ませた」

「え? あー……」

 ルゥルゥはそろーっと視線を外そうとしたが、鬼のような顔をしたヴァリスは逃がしてくれない。彼の唇の端が嫌な形に吊り上がる。

「へえ? お前、俺を楔だのなんだのと宣ってたくせに、堂々と浮気か」

「いえその……体はヴァリス様でしたし……」

 どう考えても苦しい言い訳だ。飲ませる方法なら他にもあっただろうと言われてしまえば、ルゥルゥには反論するすべがない。

 それでも、咄嗟に冷静な判断ができる状況じゃなかったのだ。

 だらだらと背中に冷や汗をかくルゥルゥをじいいいいい、と見つめ、ヴァリスは諦めたように息を吐いた。

「はあ……まあ、いい。ともかく、十中八九それだろ。お前の血、強烈だからな」

「そう……なのですか?」

「あー、なんて言ったらいい? あれだ、麻薬……みてえなもんか」

「えっ」

 間の抜けた声が出た。彼はぼうっと空中を見つめながら、何かを思い出すように呟く。

「最初にお前の血を飲んだとき、強制的にあいつと入れ替わっただろ。あれ、そんなにあることじゃねえんだよ。ナギ以外の人間の血も飲んだことあるが、あいつと入れ替わったことはなかった。もしかしたらあの悪魔は、血を飲んだら自然と入れ替わるもんだと思ってんのかもしれねえが、基本的には耐えられるんだよ」

「耐えているのですか!?」

 ルゥルゥは素っ頓狂な声を上げた。まさか根性で何とかしているとは思わなかった。

 いや、確かに理屈は通る。呪いが働いているのは吸血衝動だけで、悪魔たるアスタロトと入れ替わっているのは副産物みたいなものだ。血を飲むことで魂に揺らぎが生じて、その隙を突いて悪魔が出てくる……とでも言えばいいのか。

 ならば確かに、理論上は……耐えられる……のか……?

 そもそも魂の底に悪魔が住んでいる状況そのものが異常なので、普通に全く分からない。魂の揺らぎって気合いで抑えこめるものだろうか……?

 だが、彼は平然と言った。

「酒に酔いすぎると意識なくす奴もいるが、強すぎていくら飲んでも平気な奴もいるだろ」

「そういう認識でいいんですか……?」

「ちなみに俺は、飲みまくって強制的に酒に強くなったタイプだ。二十年以上この体質と付き合ってりゃ強くもなる」

 なるほど、共感は全くできないが、一理ある。

 すると、不意にヴァリスは諦めたように首を横に振った。

「だがルゥルゥの血はダメだ、酔う。今まで水飲んでたと思ったら急に強い酒を頭からぶっかけられた感じだ」

「褒めてます? 貶してます?」

「褒めてる。味は普通にめちゃくちゃ美味いし、多分あと何度か飲めば慣れるだろ。最初は氷か何かで薄めたほうがいいかもしれねえが」

 本当に思いっきり酒の飲み方である。

 微妙な顔をしていると、彼はするりとルゥルゥの頬を指の背で撫でた。

「まあ、そういうわけで、あいつは今、強烈な酒を死ぬほど飲まされて気絶してるみたいなもんだ。しばらくは出てこねえだろ。そもそもお前がそばにいる以上、呪いも悪魔自身も抑え込まれてるはずだしな」

「確かに……呪いの気配はしません、けど」

 彼の頬にひたりと手を当てる。じっと意識を集中させても、薄い気配しか感じない。ルゥルゥは、肌と肌で触れ合えば、相手が呪われているかどうかくらいは分かる。

 いつも感じていた、血管の奥がざわつくような感覚が、随分と弱まっている。

 これで、良かったのだろうか。

「……見つかると思いますか?」

 脈絡のない言葉の意味を、ヴァリスはなんの苦労もなく受け取る。

「悪魔が執着してる娘か? 見つからねえ確率のほうが低いだろ。建国から五百年経ってるんだぞ。一度も生まれ変わってないってほうが無理がある」

 ルゥルゥも頷いた。人は、死んでその存在が忘れ去られると、この世界ではないどこかに行くのだという。そこで魂を濾過されて、まっさらなまま別の体に入るのだ。

 かの娘は、そもそも存在すら、建国の記録に残されていない。名前すら分からないあの娘は、普通に考えればもう魂が巡っているはずだ。

「まあ、見つけたら、分かるんじゃねえのか。流石のあいつも、好きな女の魂の形を見間違えたりはしねえだろ……」

 くあ、と大きく欠伸をする。そろそろ日が昇る時間だ、無理もない。ルゥルゥも少しまぶたが重い。

「生まれ変わった彼女を見つけたら……悪魔も流石に、飛び起きてくるかもしれませんね」

「そうかもな、最悪だ。主導権争いになるとどうしても分が悪りぃ……」

「大丈夫です。入れ替わってしまったときは何をしてでも血を飲ませて酔わせて、強制的に戻しますから」

 にこ! とルゥルゥは微笑む。とりあえず自分の血が悪魔にも有効で良かった。器一杯分くらい流し込めば気絶するだろうか?

 楽しくなってきたルゥルゥを、ヴァリスは苦虫を噛み潰したような顔で見つめた。

「……嫌なことを思い出した」

「え?」

「おい、ルゥルゥ。お前は責任を取れる人間だよな?」

 きょとんとした。急に何だ?

 彼はのっそりと身を起こし、ずい、とルゥルゥに顔を近づける。

「お前がしでかしたことの責任は、お前が取るべきだよな?」

 にぃ、と口元を歪ませて笑う、その瞳が妙にぎらついている。なんだかよく分からないが猛烈に嫌な予感がした。

「ええと、あの、今から何をするつもりなのかだけ、先に聞いてもいいですか?」

「嫌だ」

 言うが早いか、彼は実に自然な動きでルゥルゥの手首を取った。王子が姫にするような、手の甲へのキスの前段階――ではない。これは有り体に言って拘束だ。

 ルゥルゥはベッドに寝転んだ状態で、片手をベッドに突いて、上半身だけを起こしている。そんな体勢でもう片方の手を掴まれたら、ほとんど何もできない。

 ヴァリスは笑った。少年のような笑みだった。

「上書きさせろ」 

 ヴァリスがルゥルゥの首の後ろを支え、そのままぐいと引き寄せる。体が斜めにかたむき、驚く間もなく、ルゥルゥの唇に何かが触れた。

 いや、それがなんなのかくらい、彼女だって分かっていた。

 驚いて半開きになった唇の間から、するりと舌が入りこんでくる。あのときと真逆だった。瞬く間に口の中が蹂躙されて、息すらうまくできなくなる。

「ん、んん゛!」

 ほぼ反射的に、声にならない声で抗議する。だが、彼は吐息だけで笑った。全く離す気がない人の笑い方だった。

 柔らかな舌が歯列をなぞり、塞がりかけた口内の傷に触れる。ぴりりと痛みが走って、ほんの少しだけ傷が開いたのが分かった。

 まずい、血が……!

 思わず胸をどんどんと拳で叩くが、ヴァリスは身じろぎすらしなかった。体幹が化け物である。どころか、彼は真剣な顔をしたかと思うと、するりと傷を舌で撫でてくる。いや、何故そんな自殺行為を!?

 衝撃で固まったルゥルゥの前で、呆気なく彼の唇が離される。唇を舐める仕草がやたら艶めいていて駄目だった。ぐらりと脳を揺さぶられる。

「ヴァ、ヴァリス様、血が」

「慣れてるっつったろ。舐めるくらいじゃ酔わねえよ」

 即答して、彼は再びルゥルゥの手を強く引く。だが、今度は彼も一緒にベッドに倒れこんだため、ルゥルゥは彼の胸に飛び込むような形になった。

「わっ……ぷ!」

「今度ふざけて浮気したら許さねえからな、覚えとけ」

 ふざけていないし、浮気でもないのだが……

 しかし、流石にここでそんな反論をするほど、ルゥルゥは馬鹿ではなかった。

 それに、髪を梳く彼の手が思った以上に優しいから、実はさほど怖くもない。まあ、彼が怖かったことなんて、ほとんどないのだが……

 くあ、と大きく欠伸をして、ヴァリスはルゥルゥの頭を抱えこむ。琥珀の瞳がゆるりと溶けていくのが見えた。

「ルゥルゥ……起きたら、兄貴のところに行くからな……」

「え?」

「一発殴る」

 一言きっぱりと言ったかと思うと、彼はえげつない早さで眠りに落ちた。ルゥルゥが返事をする間もない。なんなら「はい」の形に口を開いた瞬間にはもう眠っていた。

 穏やかな寝息が聞こえてくる。まだ色々と問題は積み上がっているような気はしたのだが、なんだか全部どうでもよくなってしまった。

 気が抜けたからか、不意に睡魔が襲ってくる。頭が鉛のように重い。

 そのとき、みぁう、と、愛する獣の鳴く声がした。

「ヨル……」

 腕も頭もしっかり固められ、わずかな身動きすら取れない中で、ルゥルゥはなんとか、愛する家族の名を呼んだ。

「昼まで私とヴァリス様が眠り続けていたら……いい感じに起こしてくださいね……」

 すさまじく適当な頼みを最後に、ルゥルゥはヴァリスの胸に頭を預けて、落ちていくように眠りについた。

 彼女をかき抱く手が、ほんの少しだけ、力を強めたような気がした。



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