ハッ、と目をしばたく。
気づけば、既にそこには誰もいなかった。真っ白な空間に、今のヴァリスと同じ年に見える、赤い目の男が立っている。
男――アスタロトは、皮肉げに笑った。
「なんだ、お前。過去の
その顔で笑うのは本当にやめてほしい、とルゥルゥは思った。努めて表情を冷たく保つ。
「私の楔はヴァリス様であって、あなたではありませんからね。それに……あのときあなたが助けてほしかったのは、あなた自身ではなかったでしょう?」
「はははは! そりゃそうだ。あいつのことを救えないなら、その場でお前を引き裂いてたかもな」
冗談でもなさそうなのが怖いところである。アスタロトはにんまりと笑って、一言問いかけた。
「で、どうだった?」
「……どう、とは?」
彼は自分の胸に……否、ヴァリスの胸に手を当てた。
「この男はさぞ苦しんで、辛い目に遭ったんだろうな。俺みたいな悪魔なんかに憑かれちまったせいで、人生めちゃくちゃだ。まあ、お前が見てきた通り、こいつは呪いのせいというより、周りの人間のせいで壊れたところが大きいと思うけどな?」
「……」
「元凶は俺だから、俺を憎んで、俺を倒して、呪いを解けば全部が上手くいく……そう思ったか? だがこれは正当な恨みだし、当然の帰結だ。そうだろ? こいつの先祖がやったこと、犯した罪、それら全部が巡り巡ってこいつに行き着いてる。すげえよなあ、
黙り込むルゥルゥの前に、男が一歩、二歩と近づく。
「俺がいなくたって、こいつはどうせろくな人生歩んでなかったに決まってる。何せ、一番醜いのは人間だからな。あの兄貴を見ろよ、イカれてるだろ。呪いなんかなかったところで、こいつが幸せになれたとは思えねえ」
「私に何を言わせたいのですか?」
「あ?」
「人間が一番醜いと、あなたたち悪魔のほうがよっぽど清らかだと、そう言ってやれば気は済みますか? あなたの気持ちは晴れますか? それとも……私が何か気休めを言えば、彼女が帰ってくるのですか?」
アスタロトは悪魔だ。ヴァリスにした所業を思うと、悪魔の中でもいっそう悪魔らしいと言えるかもしれない。
だが、彼にも愛する人がいた。彼の中で、愛する人を殺された怒りが、ずっとくすぶり続けている。愛する人を殺した人間が憎くて、呪って、呪って、呪い続けてここまで来てしまった。最大の不幸はヴァリスを見つけてしまったことだ。もしかしたら、彼はそれを幸運だと思っているのかもしれないが。
でも、アスタロトは全てを履き違えている。違うのだ。誰に何を言われたって、人間が醜いのだと証明したって、心は晴れない。だって、彼が許されたい人間は、もうこの世にはいないのだから。
花のように笑う少女は、もうどこにもいないのだから。
アスタロトから表情が抜け落ちる。ぞっとするような絶対零度の視線に、このまま殺されるのではないかと背筋が震えた。だが、ルゥルゥは何も感じていないかのように、平然とした顔つきで彼を見つめた。
落ち着け、耐えろ。まだ、自分にはやるべきことがある。
彼を――ヴァリスを救うのだ。こんなことで、彼の体を、心を、塗り替えられていいはずがない。ヴァリス・テュシアという人間は、人生を蹂躙され続け、挙句に最後の最後まで消費されて、使い潰されようとしている。ルゥルゥの楔たる人間がだ。そんなことが、許せるはずもない。
「感想を言えと言うのなら言いましょう。人間が醜いだとか、ヴァリス様の先祖が何をしただとか、全部全部、くだらないとしか言いようがありません。それが、私とヴァリス様になんの関係が? 呪いも、鎮石も、先祖代々続く因縁も、誰かを殺された恨みもその報復も、どこか私たちに関係のないところでやってください。そんなもののために、ヴァリス様の心が削られているのかと思うと我慢なりません。私の楔たる者の心に土足で踏み入らないで。虫唾が走ります」
「は、そんなもの、ね」
「そんなものですよ。あなただって、愛した人間であるあの方のこと以外、どうでもいいのでしょう? だから、ヴァリス様にこんなことができるのでしょう? 全部を棚に上げて、よくもまあ被害者ぶれるものですね。子供の駄々ですか?」
アスタロトの目が冷たく光り、だがすぐに皮肉げな色に戻った。
「は……まあ、そんなんもうどうでもいい。そろそろ俺とこいつが融合する。そうしたら、あとはもうこの国を滅ぼすだけだ。お前と話してる暇はねえ」
「ああ、そうですか。結局、あなたはただ自分の愚かさを露呈しただけだということですね」
「あ?」
「そうでしょう? 助けてほしかったのですよね? 私が、過去のヴァリス様を無理やりにでも助けたように、自分のことも、大切だったあの女性のことも、助けてほしかったのですよね? でもそんなこと言えないから、助けなかった私を詰って、助けなかった全てを呪って、不貞腐れているのでしょう?」
「なんだと……」
「助けられなかったのは自分のくせに……本当に恨みたいのは、何もできずに愛する人を死なせてしまった自分自身のくせに。そうやって、なにもかも他人のせいみたいな顔をしていれば、罪悪感が薄れて楽ですか?」
「……てめえ!」
気づいたときには視界がぐるりと回って、ルゥルゥは背中から地面に叩きつけられていた。肺から息が強制的に吐き出され、盛大に噎せた。胸元をアスタロトが掴んでいるせいで、首がぎりぎりと絞められていく。
「てめえ……俺がなんでお前を生かしてやってんのか分かってんのか?」
ルゥルゥはなるだけ酷薄に見えるように微笑んだ。
「げほっ……助けて、ほしかったからでしょう? あの女性を救ってくれやしないかと……誰かに、縋りたかったのですか? とうとう、自分であの方を助けることさえ放棄して、あまつさえ思い通りにならなかったら、こうして怒り狂う……ああ、子供の駄々のほうが、まだ……マシでしたね」
「死にたくなかったら口を閉じろ。自分の前にいるのが誰なのか、まだ分かってねえのか?」
にこりとルゥルゥは笑った。そんなちゃっちい脅しで黙るわけがないだろうがと思った。
「そうやって人を脅していないと、自分の心すら守れなくなってしまいましたか?」
唖然としたアスタロトを見てようやく、ルゥルゥは自分が怒っているのだと自覚した。
そうだ。ルゥルゥ・クレイディは怒っている。くだらない感情でヴァリスを蹂躙する悪魔にも、全ての元凶たるヴァリスの先祖にも、ヴァリスの心を一欠片も見てやらなかった、あらゆる人間たちにも。
ルゥルゥは怒っている。誰も彼に誠実であろうとしなかった。だから、こんなことになっているのだ。
アスタロトの顔がじわじわと怒りで朱に染まる。
「黙ってろって言ってんだよ、殺すぞ!」
「それだけ人に噛み付く気力があるなら! どうして、あの方を失った後に、人を呪うほうを選んでしまったのですか!」
まさかさらに反論されると思わなかったのか、彼は虚を衝かれた様子で固まる。ルゥルゥは一気に畳みかけた。
「何百年も恨み続けるほどに愛していたのなら、どうしてその時間を、心を、彼女を救うために費やさなかったのですか! 生まれ変わったあの方を探しもしなかったのですか! どこかに生まれ落ちていたかもしれない彼女のことなど、もうどうでもよかったと!?」
「そ……んな、わけが」
「なら順序がおかしいでしょうが! 我を忘れて人を呪った挙句、彼女を探す前に何を国滅ぼそうとしているんですか! 馬鹿ですか!? もし今このときに彼女が生まれ変わっていたら、その人ごと滅びるんですよ!?」
アスタロトはぽかんと口を開ける。おそらく考えもしていなかったのだろう。完全に固まっているし、すさまじい速度で思考を回しているのが分かる。
ルゥルゥはその瞬間を見逃さなかった。
素早く彼の後頭部を掴み、勢いよく自分の方へと引き寄せる。ぐらりと男が体制を崩したのと同時に、自分の舌の端を思いっきり噛みきった。ぶつっと音がして、口の中に血の味が広がる。
「はっ……ん!?」
そうして、ただでさえ近い距離を、ゼロにした。
触れ合った柔らかな唇の中に舌をねじ込み、血を送り込むために自分の舌をもう一度噛む。それはもう、やたらめったら噛んだ。ざくざくと舌が傷を増やしていく。なんだか相手の舌も噛んだような気がするが、そんなことには構っていられない。
ここまで来たら、あとはもう意地と執念だ。自分が敵に回した女が誰なのか、この悪魔のほうこそよく理解するといい。
「んん、っぐ、ん……!」
必死に身をよじる彼の後頭部を押さえつける。逃がさない。ヴァリスを返してもらうまで、ルゥルゥは諦めるつもりがない。
そうして数秒後、男の喉がこくりと動いたところで、ルゥルゥは口を離した。
「っは、てめえ、何を……!」
「何を? それは、あなたのほうがよくわかっているのでは?」
唇の端から赤い血を流して、ルゥルゥは不敵に笑った。
「血を飲む行為は、魂の揺らぎに繋がる……そうして、体の主導権が入れ替わるのです。呪い渡りなら幼子でも知っている、基礎の基礎です。いつもはヴァリス様のほうに主導権がありますから、あなたもヴァリス様も、『血を飲むと悪魔と入れ替わる』と思っているのかもしれませんが……本来それは、逆だってありえることなんですよ」
アスタロトがはっと目を見張る。口を押さえ、すぐにルゥルゥから離れようとする。だが、彼女はその手を間一髪で掴んだ。
「ヴァリス様!」
かんと脳天に響くような声で叫ぶ。
「ヴァリス様、戻ってきてください、ヴァリス様!」
「黙れ……!」
「いいえ黙りません! 私が鎮石そのものだとか、私を食えば呪いが解けるだとか、そんなどうでもいいことばかり聞かされて、いい加減怒っているんです! 誰も彼も、私の言葉も心も体も無視して行動するんですから!」
ぎゅんとまなじりを吊り上げ、ルゥルゥは声を張った。
「ヴァリス様もですよ! 私、あなたを置いていかないって言ったでしょう!」
「は……」
ルゥルゥはアスタロトの奥深くで眠っているヴァリスに向かって、盛大な叫びを送りこむ。
眠っているのなら叩き起こすまでだ。そういう権利が、婚約者にはあるのだから!
「そもそも、あなたは私の楔になったのですから、私から離れられると思ったら大間違いですよ! 私を食べたら悪魔の呪いが抑えられるなんて馬鹿みたいなこと、本当に信じているわけがありませんよね!? 百歩譲って本当だったとして、私は自分の体と心の一切合切、誰かのために損なわせたりなどしません! だって、あなたの心が死ぬでしょう!」
虚ろな目をしていたヴァリスのことを思い出す。屍のごとき心に泥を与えて、そうして長らえさせた命に、一体なんの意味がある?
伸ばした手で、彼の頬をぎゅっと挟んだ。
「私は、あなたとずっと一緒にいるって言ったでしょう! ヴァリス様だって、私が先に死なないように、守ってくれると言ったではないですか!」
「っ……!」
男が顔をしかめて頭を押さえる。不規則に瞬きを繰り返して、喘鳴のような呼吸が口からこぼれた。
「クソ、頭が……!」
ぢか、ぢか、と瞬きを繰り返す中で、鮮血の色をした虹彩が一瞬、鮮やかな琥珀に変わる。ルゥルゥは息を呑む。
ぎりと唇をかみしめ、もう一度彼の後頭部を引き寄せた。
「いい加減に……ヴァリス様を、返して、くださいってば!」
がづん! と額同士がぶつかる。なんだか人体から鳴ってはいけないような音が聞こえた気がするが、ルゥルゥ自身は全く気づかなかった。興奮で痛みなんか彼方に飛んでいたのだ。
「ぎっ……!」
ぐるりと彼の目が回り、瞳の中が真っ黒に染まる。
途端に何故か、目の前が白く弾けた。爆発したような光に飲み込まれて、何も見えなくなる。
「ヴァリス様!」
咄嗟に叫んで、彼の手首を強く掴む。もう片方の手で、彼の肩があった辺りにしがみついた。何かに触れた感覚が、確かにあった。