「え」
思わず瞬いたのと同時に、視界の中が一変していた。
もはや部屋の中ですらない。目の前にはだだっ広い荒野が開けている。吹きすさぶ風は生ぬるく、そして、
「何……」
思わず鼻を押さえて周りを見回し、ルゥルゥはぎょっとする。
そこは一面血の海だった。人の形をしたものも、異形の姿をしたものも平等に、あらゆる屍が積み上がっている。血と肉が泥にまみれて散らばり、腐臭すら漂っているようだ。まるで地獄の果てだった。
「……何故」
低い声が響く。はっとして振り返った先、最も多くの屍が転がる中心で、一人の男が座りこんでいた。土埃にまみれながらも眩く光る金の髪と、血を煮つめたような深紅の瞳。白目の部分が黒く染まっていて、ルゥルゥは思わず息を呑んだ。
「何故、こんなことをした、カクールゴス……!」
血肉を芯から凍らせるような、深い怨嗟の声だった。
カクールゴス、とルゥルゥは呟く。見れば、男の前には一人の青年が立っていた。その姿には面影がある。魂呼ばいで呼び出した「彼」の面影が。
「こいつはお前の娘だろう!!」
異形の男は一人の少女を抱えていた。彼女の口元からは、黒々とした泥のような血が零れている。閉じられた瞳からも同じように血の涙が流れていて、ルゥルゥは直感した。
呪われている。
ごぽ、と溺れたような音を出して、少女はさらに血の塊を吐いた。男がハッとした顔で彼女をのぞき込む。
「やめろ、なあ、おい、息をしろ……!」
悲痛な声に、娘がうっすらと目を開ける。震える手で、彼の頬に手を添えた。
「あ、はは、ご、めんな、さい……わたし、たぶん、死んじゃ、う、かも……」
「何言ってやがる……!」
「せっかく、やくそく、してく、れた……のに……とうさん、を、せっとく、できなかっ……」
少女の目が虚ろになっていく。命が流れ出ていく音がする。
「おい、おいっ……! クソ、カクールゴス! てめえ、俺を殺すためなら、自分の娘も殺すのか!」
「そうだ」
驚くほどに感情のない声で、カクールゴスは男を見た。
「私の娘がいるならば無益な殺しはしない、人間のためにこの土地を開け渡す……そんな言葉を誰が信じる? 娘が死んだらその約定はどうなる? お前たち悪魔の本質は醜悪だ。娘が生きている間は彼女を蹂躙し、死ねば娘の代わりに贄を求めるだろう。お前がいるかぎり、人間は悪魔の奴隷になりさがる」
「てめえ……! 約定を結ばせたのはてめえら人間だろうが! 挙句にこいつを殺してなんになる!」
「娘はお前を封じるための楔となる。聞いたぞ、お前たち悪魔の力を抑える唯一のものは、心を通わせた人間への愛だと……馬鹿なことだ。悪魔ですら、情をかけた人間には逆らえない」
悪魔。約定。心を通わせた人間。全ての話に覚えがあった。嫌な予感が膨らんでいく。
アルクトスの言葉が、警鐘のように頭の中で鳴り響いた。
『悪魔と心を通わせた人間は、悪魔を閉じこめる檻になれる』
ああ、それなら、あの少女は。
「お前は我が娘を愛した。だが、それで人から受け入れられるなどと、思ったわけではあるまいな? それがどれだけ純粋な心だとしても、悪魔と人は違う。お前は娘を愛したその手で、多くの者を殺すだろう」
「は、はは、ははははははは! ――だから、こいつを殺すのか? 俺を封じるためだけに?」
辺り一体が氷河に包まれたような声で、男は告げた。
「人から受け入れられる? なんだそりゃ、なんで受け入れられなくちゃならない? 俺たちはな、誰が相手だろうと、獣も人間も魔物も天使も平等に、力ある者に
「黙れ、我が国に居座る悪魔、アスタロトよ。私の娘の命を犠牲に、ここにお前を封印する」
刹那、アスタロトと呼ばれた男を中心として、大地に光が走った。円を描き、線を描き、大地を蹂躙した光は陣を形作っていく。カクールゴスがすらりと剣を抜き、地面に突き立てた。
「天におわします我らが神よ。この日この時、我らを見守る母たる女神、光と夜明けをもたらす者よ! 我は希う。ここに来たれ、我が元へ来たれ、汝を嘲る魔の者へ、汝の力をしろしめすため! 汝の無垢なる御名をもって、大地へ力を刻まんがため!」
言い切って、彼はよく分からない言葉で何かを唱え始めた。おそらく……名前だろうか? 異様に長いこと以外、何も分からない。
だが、彼が言葉を紡ぐ度に光は強くなり、陣の中心にいるアスタロトの肌を焼いていく。一瞬で皮膚が禿げて、奥にある肉までもを焼き尽くした。
「ぐっ、ああ――!」
男は体を折り曲げ、必死に娘を抱え込む。
「だ、め、です、アスタロト、さま……」
「うるせえ、黙ってろ、呪いが巡るだろうが……!」
少女は困ったように眉根をよせて、彼の傷に障らないように、かすかに微笑んだ。
「のろいは、もう、どうしようもないし……それに、多分、わたし、は、やけない、から……」
「それも分かんねえだろうが! あいつはお前のことすら殺そうとする奴だぞ!」
あまりの剣幕に驚いたのか、少女は一瞬言葉を詰める。だがすぐに、花がほころぶように笑った。
「ふふ、そんなの、いい、のに……」
「あ?」
途切れ途切れの声で、それでも少女は笑っていた。幸せそうに――震える手で、男の頬を撫ぜながら。
「わたし、あなたが、いるなら……どこだ、って……」
かふ、という音がして、少女の声が途切れた。
「……? おい」
アスタロトが声を上げる。彼女の目は閉じられていて、もう、血も吐いていない。
喉の奥で、ひきつったような声が上がった。
「おい、やめろ、目を開けろ、おい!」
男は少女を抱きしめて、必死に言葉をかけ続ける。顔がもう、半分焼けていた。
「馬鹿がっ……!」
何かの名前は未だに唱え続けられている。カクールゴスは娘の死を見届けて、悼むように目を閉じた。
刹那、アスタロトの怒りが爆発した。
「てめえ……正気か? そのおツムには泥でも詰まってんのか!? てめえが殺したんだったら悔いてんじゃねえ!! イカレ野郎が!!」
怨嗟に瞳が燃えている。口から呪いがこぼれていく。
それでもカクールゴスは答えない。少女は命の灯火が消えたまま、その美しい
アスタロトは嘲りの表情を浮かべた。骨すら焼けようかという業火の中で、悪魔は嗤う。
「いいだろう、俺は大人しく封じられてやるよ。こいつの
男は自身の焼けただれた皮膚に爪を立て、あふれる血を握りこんだ。瞬間、それは腕ほどの長さの針に変化する。
「泥よ
黒いモヤのようなものが針を覆い、ひと回り大きな、抜き身の刀にも似た形に変化する。アスタロトはなんの予備動作もなく、それを投げた。
針は、すさまじい勢いでカクールゴスの胸へと突き刺さった。そのまま、血の塊がずぶずぶと中に入っていく。彼は咄嗟に顔をしかめ、胸の辺りを掴むが、何故か針は手をすり抜け、触れることさえできなかった。
「アッハハハハハ、無駄だ! そいつは俺の呪いだからな! 悪魔が己の血を使って編み上げた呪いだ、強固で甘美な味がするだろうよ……」
刹那、アスタロトの指がぼろりと崩れた。炭のようになった残骸が地面に散らばる。見れば、足も手も、かろうじて胴体にくっついているだけになっている。
アスタロトの顔から表情が消えた。
「ああ、なんだ、終わりか」
残ったわずかな腕で、どうにか少女を支える。そして、ひどく穏やかな顔で、彼女と額を合わせた。
「お前も運が悪りぃな、本当に……次に生まれ変わったら、こんなクソッタレな国は捨てとけよ……」
当然、娘は答えない。男の体はどんどんと焼けていき、跡形もなくなっていく。カクールゴスは一瞬だけ苦々しく表情を歪めたが、呪いを受けいれたように、静かに瞑目した。
もう、誰も何も言わなかった。光はより一層強くなり、ルゥルゥの視界も白く覆われていく。アスタロトが最後に何か言ったような気がしたが、何も、聞こえはしなかった。