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第26話


 次に目を開けたとき、彼女は暗闇のただ中に立っていた。自分を抱えていたはずのヴァリスの姿はなく、肩口にあった傷も消えている。

 一瞬自分の状況が分からずに混乱し、きょろきょろと辺りを見回して、ルゥルゥはぎょっとした。

「よぉ、お嬢ちゃん、お目覚めか?」

 ヴァリス――否、ヴァリスの姿をしたアスタロトが、ごろりとその場にねそべっていた。彼の瞳は血のように赤く染まっていて、ヴァリスなら絶対に浮かべない冷笑を口元にたたえている。

「な……にを、しているのですか?」

「いや、解放感っつーのはいいもんだなと思ってよ。もうすぐこの体を自由に動かせるとなったらはしゃぎもするだろ。こいつを呪ってから二十三年、ずっとこのときを待ってたからな」

 信じられないことを言われて、ルゥルゥはびしりと硬直した。

「自由に、って……」

「こいつは絶望しただろう? 己の命を救うために、よりにもよってお前の体を差し出されて……耐えられなかったんだろうなぁ……罪悪感と責任感でかろうじて保ってた糸が切れちまった。今こいつが考えていることといえば、お前を殺すかもしれないこの国を滅ぼすことくらいだろうよ」

 目を見張ったルゥルゥを見て、彼はいやらしく唇の端を吊り上げた。ねそべっていた体を起こして立ち上がる。

「こいつの心は、限りなく俺に近づいてるからな、既に主導権が入れ替わりつつある。もう少しすれば、この体で呪いを振り撒くこともできるようになるだろう……ああ、安心しろ、もちろん俺は優しいからな、こいつの願いも叶えてやるよ。数百年ぶりの、テュシアの王の帰還だ。盛大な血祭りで飾ってやる」

 ルゥルゥは絶句した。とんでもないことが今、ヴァリスの体の中で起こっている。

「ここは……ここはどこなのですか。ヴァリス様はどこに?」

「ここか? あー、まあ、現実じゃない空間の果て、みたいなもんだと思っとけ。この場所のことを説明したって、人間には毛ほども理解できねえからな。ああそれと、あいつは俺の中で眠ってる」

 上機嫌で、悪魔はとんと自分の胸の辺りを指で突いた。くつくつと笑いながら、だらしのない足取りでこちらへ近づいてくる。

 そして不意に、何故か虚空へ視線を向けた。

「――ああ、始まった」

「え?」

「お前も見ろよ、特等席だ。こいつを絶望させてくれたついでに、暇つぶしに付き合え」

 言ったと同時、ぱっと視界が明るくなった。咄嗟に光へ視線を向けた先で、ルゥルゥは再び言葉を失う。

 そこには、幼いヴァリスがいた。おそらく六、七歳ほどの年だろうか? 今よりも随分と小さく、それでもはっきりとした面影がある。

 思わず手を伸ばしかけて気づく。彼の姿は、まるで壁に映し出された映像のように平面的だった。

「教えてやるよ、呪い渡りの巫女。あいつが背負ってきたもの、見てきた景色を」

 ぐい、と手を引かれる。抵抗する間もなく、ルゥルゥはあっという間に光の方へと投げ飛ばされた。悲鳴すら上げられないままだった。

「良い夢見せてくれよ。ここはちっとばかし退屈なんでな」





「どうして、こんなことするの」

 切れ切れの声が聞こえてきて、ルゥルゥはハッとした。気づけば、目の前に幼いヴァリスがいる。先ほど見えていたものと違い、今度の彼は立体的だった。おそらく、手を伸ばせば触れるだろう。

 だが、重要なのはそこではない。

 彼は、傷だらけだった。殴られたのか、顔を大きく腫らしていて、腫れ上がった片目は見えているかも怪しかった。異様な瞳は健在だったが、それを差し引いてもなお、痛々しさを拭えない。

 加えて腕と肩には刃でつけられたような傷があり、一番異常なのは足だった。足首が、おかしな方向にねじれて、どす黒く染まっている。立てないのか、その場に座りこんだ彼は、のろのろと顔を上げた。

「なんで……おれ、何かした?」

「何を馬鹿なことを。見なさい、この部屋のありさまを!」

 侍従か、あるいは教育係だろうか? 彼の目の前に立っている男が、嫌悪に顔をしかめる。

 辺りを見回せば、なるほど、部屋は酷い様子だった。棚はことごとくなぎ倒され、椅子は砕かれ、ありとあらゆる壁に爪痕のような傷が残っている。カーテンは右上から左下まで無理やり引きちぎられており、傍にあったベッドは中心から真っ二つに折れていた。

 部屋全体が、暴風雨にでもさらされたようなありさまだ。

「全てあなたがおやりになったことですよ、殿下」

「おれ、が?」

「また覚えていないなどと宣うおつもりで? 全く、腹立たしくてなりませんね。無垢な羊のような顔をして、悪魔はこんなときでも白々しくて嫌になる。部屋を壊しているときのあなたがどんな様子だったのか、事細かに教えてさしあげましょうか」

 男は、汚らわしいものでも見るような目で、齢十にも満たない少年を罵倒し続けた。

「近衛兵が来なければどうなっていたことか……全く、いつまでそこに這いつくばっているつもりですか? 足の一本や二本ごとき、我が王の心労に比べたらなんということもないでしょう。ああ……我が王はどうして聡明な王太子殿下ではなく、よりにもよってこんな獣に私を仕えさせたのか……」

「おれ……おれは……ちがう、そんなつもりじゃ……」

「黙りなさい、悪魔の子が」

 ヴァリスの肩がびくんと跳ねる。気づけば、男はその手に火かき棒を携えていた。見れば、灰が散らばった暖炉の残骸が、男の背後にある。

「なに……なにするつもり……」

「何、ですって? なんだって構わないでしょう。どうせあなたは、自分が暴れ回っていたときのことも、殴られたときのことも、さっぱり覚えていないんですからね」

 男は冷笑を浮かべて一歩を踏み出す。

「自分がやった悪行を覚えていないなど、やはりあなたは神たる王の子ではないのでしょう。きっと、生まれる前から魂が汚れてしまっていたに違いない。それならば、浄化しなければ」

「や、やめて……なに……来ないで……」

「口答えをするな! この悪魔が!」

 目の前で火かき棒が振り上げられる。その光景に、咄嗟にルゥルゥは飛び出していた。

「やめなさい!」

 小さな少年の頭を抱き、咄嗟に腕を振り上げた。がつん! と骨が硬いものに当たる音がして、腕に痺れるような激痛が走る。

「い、っ……!」

「な、だ、誰です、あなたは! 一体どこから……」

「っ、黙りなさい、愚か者が!」

 ルゥルゥは何も考えずに叫んでいた。目の前が真っ赤に染まるような怒りだった。まさか、これがアルクトスの言っていた「指導」だとでもいうのか? 信じられなかった。だって、今、この男は。

 この男は、おのが仕えるべき主に――ヴァリス・テュシアに何をした?

「我が楔たる者になんの権利があって、そのような蛮行を働いているつもりです! 恥を知りなさい!」

「な……」

「この人が悪魔憑きであるという事実のみで、自分の罪が許されているとお思いですか! あなたがしていることはただの暴力でしょう、痴れ者が!」

「なんだと……!」

 怒りで視界を赤く染めながらも、思考の片隅ではなんとなく分かっていた。これは過去だ。とうに過ぎ去ったいつかの映像を、焼き直しのように見せられているだけなのだと。

 だから、自分がしていることに意味は無い。きっとヴァリスには、このときに付けられた傷がひとつ残らず残っているのだろう。本当は彼を庇う人間などいなかったし、この「教育」はきっと、彼にとっての日常だった。

 それでも。

 目の前の光景が、本質的には何一つ変えられなかった過去だとしても――黙って見ているなんてことは、ルゥルゥにはもうできなかったのだ。

 もぞり、と、ルゥルゥの腕の中で少年が身じろいだ。咄嗟に少し力を弱めると、彼女の腕の隙間から、傷だらけの少年が顔を出す。

「ヴァリスさ……」

 咄嗟に名前を呼ぼうとして、彼女は言葉を詰まらせた。彼の瞳は、虹彩が琥珀ではなく、血のような赤に染まっていた。

 少年がルゥルゥを見て、唇の端を吊り上げて笑う。まるで子供とは思えない嘲りの顔だ。

「こんなことしたってなんにもならねえのによくやるぜ。まあ、期待してたのは俺だがな」

「あなた……」

 ここにいるのはアスタロトだと、なんの理由もなく直感する。彼は顔を白黒させる男など目に入らない様子で、どこか虚空を眺めるような目で言った。

「まあ、お前はそういう奴なんだろうよ。最初から分かってたことだ……惜しいなあ。お前があのとき傍にいたら、こんなことにはなってなかったかもな」

「それは、どういう……」

 困惑するルゥルゥをちらりと見上げて、幼いヴァリスの姿をした悪魔はぱちりと指を鳴らした。

 瞬間、景色がぐにゃりと曲がり、変化する。

 気づいたときには、火かき棒を持つ男も、幼いヴァリスもいなかった。夜の静けさが満ちた部屋の隅に、一人の青年がうずくまっている。

「……誰だ」

 おぞましいほど低く、物悲しい響きだった。真っ暗闇の中で、今よりも少しだけ幼い年のヴァリスが、手負いの獣のような目でこちらを見ている。明かり一つない部屋なのに、どうしてか彼の姿だけがくっきりと浮き上がって見える。

 ルゥルゥは咄嗟に部屋を見回し、ぴんときた。ここは、ヴァリスが破壊衝動を鎮めるために閉じこもっていた部屋だ。よく見れば、さっきの部屋ほどではないが、そこらじゅうの床や壁が傷だらけである。

 無意識に一歩踏み出したルゥルゥは、先ほど男に打ちすえられた腕が全く痛くないことに気づく。驚いてぐるりと肩を回してみたが、何も違和感がない。

 本当に、ここはどうなっているのだろう?

「おい、誰だって聞いてんだよ。お前、どうやって入った」

 はっと視線を戻す。

 ヴァリスはぐったりとした顔で、両膝を抱えていた。おそらくは暴れ回ったあとなのだろう。彼の手足も傷だらけだった。

「ええと、私ですか? 私は……ううん、なんていうか……一応、公的にはヴァリス様の婚約者なんですが」

「は?」

 心底意味が分からないという目で、彼は言った。

「俺の婚約者なら、昨日の夜に俺が腕の骨折ったから、実家に帰っただろうが。阿呆あほ抜かすな」

「え?」

 静かに仰天したルゥルゥを見るヴァリスの目は、泥のように濁っている。混乱の末に、これって笑っていいところだろうか? と馬鹿なことを考えた。いや、そんなわけがない。

 というか、なんだって? 婚約者の骨を折った? 何故?

 何も答えられないでいると、ヴァリスは煩わしそうに嘆息した。

「夜中に……あの女、俺の寝室に入ってきたんだよ。ご丁寧に部屋の鍵壊してな。俺の子が産みたかったんだとかなんとか言ってたか……いつもだったら怒鳴って追い返すくらいで済んでた。でも今は……ちょうど、俺が定期的に『こう』なる時期で……」

 見知らぬ女であるはずのルゥルゥに対して、彼は懇々と、懺悔するように言葉を繋げる。抱えた膝に額をつけて、濁った琥珀すら見えなくなった。

「気づいたときには、もう折ってた」

「……」

「兄貴は俺が嫌いだから、多分、またすぐに婚約者が宛てがわれるだろうが……昨日の今日は早すぎるだろ。嫌がらせか?」

 自嘲気味に笑って、彼はゆっくりと顔を上げる。

「それとも、兄貴にとっては、俺が生きていることが嫌がらせなのか?」

 違う、と言いかけて口を噤んだ。何を言ったとて、彼を傷つける結果にしかならない。

 たとえアルクトスが、鎮石たる人間を探すためにヴァリスに婚約者を与えていたと知っても、彼は何も喜びはしないだろう。地獄の場所が変わるだけだ。

 だから、ルゥルゥは自分のあげられるものを、精一杯、渡すしかなかった。

「私、あなたの傍にいますよ」

「あ?」

「あなたはきっと、何も覚えてはいないのでしょうけれど……私は、あなたの婚約者として、あなたに出会うために生きてきたのだと思います。あなたの呪いを鎮めて、あなたの隣で、あなたの手を離さず生きていくために、私は呪い渡りになったのだと思います」

 ヴァリスは眉をひそめる。

「何言ってんだ、お前?」

「分からなくても構いませんけれど、おそらくこの後、私はあなたの婚約者として王宮に召し上げられるかと思いますよ。ヴァリス様、今おいくつですか?」

「は? ……二十だが」

「それでは三年後ですね」

 きっぱり言い切ると、きょとんとした顔をされた。

「三年後に私が、あなたの婚約者になりに行きます。それまで待っててください、ヴァリス様。……あれ? こんなこと言わなくても待っていてくれた事実って、よく考えたらすごいことなのでは?」

「なんだよお前……マジで意味わかんねえな……」

 いっそう疲れた顔で、彼は背後の壁によりかかった。

「じゃあ、なんだよ、お前、俺のことが好きなのか?」

「もちろんです。会ったときから好きでした」

「は……? どこを好きになったんだよ」

 言われて少しだけ頬を紅潮させる。二度目だとしても恥ずかしい。

「あなたの瞳が、すごく綺麗だったので、つい」

「は?」

「あ、やはり少し軽薄でしょうか? 一目惚れって、貴族社会ではあまり一般的ではないのだと聞きますし……」

 ぽかんと口を開けていたヴァリスは、その瞬間に少しだけ、泣くのに失敗したような顔で笑った。

「意味わかんねえ。お前、本気か?」

 ツボに入ったのかひとしきり笑って、ふっとこちらを見つめてくる。

「なあ、お前、名前は?」

「私ですか? 私は――」

 瞬間、視界がばつんと暗転した。

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