「……え?」
「は? おい、鎮石が……なんだって?」
「だから、彼女だ。ルゥルゥ・クレイディ。彼女が鎮石だ」
二人はぽかんと口を開けた。何を……言っているのだろう?
動揺のまま声も出せない二人に向かって、彼は平坦な声で続ける。
「原初の悪魔の話を知っているか? 今世に存在する悪魔は全員、暴虐の限りを尽くした王、すなわち原初の悪魔より生まれたものだ。彼らは例外なく原初の悪魔の性質を引きつぐ。原初の悪魔を封印したのは鎮石のみで、故に全ての悪魔憑きには鎮石が有効だとされているが……これは一部が間違っていてな。悪魔を封じる万能な石などない。あるのは、悪魔と唯一心を通わせた人間のために、悪魔は己を律するものだという事実だけだ」
「そ……」
そんな話は、聞いたことがない。
「嘘だと思うか? だが、アスタロトにも鎮石たる人間はいた。カクールゴスと共に、大地を浄化するためにテュシアへやってきた娘だ」
ルゥルゥは無意識に額を押さえた。この先を、聞いてはいけないような気がする。
「どういう感情だったのかは知らない。私はアスタロトではないからな。だが、確かに彼らは心を通わせた。彼女の前で、アスタロトは決して悪魔としての力を振るわなかったという」
「……じゃあ、なんで悪魔は封印なんかされてんだ。その娘がいれば平和だったってことだろが」
「そんな簡単な話ではない。何せ人間は死ぬからな。娘が死んでしまえば、再び悪魔がテュシアを支配するだろう……だから、娘は人柱になったのだ。テュシアの土地にアスタロトと共に封じられることで、彼を縛りつける鎖となった」
「……は?」
がつんと殴られたような感覚が、ルゥルゥの中を駆け巡った。
「娘の亡骸がテュシアの下にある限り、アスタロトはこの土地から出られない。それが鎮石の正体だ。悪魔と心を通わせた人間は、悪魔を閉じこめる檻になれる」
脳みそをぐらりと揺らされた気がした。思わずふらついた体を、どうにか両足でふんばって耐える。
「それは……おかしいだろ。俺たちはさっき、そのカクールゴスとやらを魂呼ばいで呼び出したんだぞ。あいつ、そんなことは一言も……」
「鎮石について尋ねたのか? 死者は嘘をつけないが、真実を隠すくらいはできるぞ」
彼らの声が、妙に遠い。頭をガンガンと何かに内側から叩かれている気がする。
体から力が抜けて、両足で立つことすらおぼつかない。周りの音が、急に水底から響くようなぼわぼわとしたものに変わっていく。
肩が、重くて、痛い。
なんだろうこの痛みは、とぼんやり思って左肩に目をやり、ルゥルゥは硬直した。
肩から、刃が生えていた。
「……え?」
目の前の光景を理解できないまま、ずっ、と刃が躊躇なく抜かれていく。待って、という声はなんの制止にもならなかった。あっさりと刃が引き抜かれ、血が勢いよく吹き出す。
「ッ、ルゥルゥ!?」
ぐらりと倒れた彼女をヴァリスが受け止める。
「い……」
痛い。それ以上に熱い。体中の熱が一気に肩に集まったかのようだった。肩が燃えているんじゃないかとすら思う。
がちがちと歯を震わせて、ルゥルゥはヴァリスの胸元に縋る。痛いし、熱いのに、体は寒いような気がする。刺された左肩から先の腕はだらりと垂れ下がり、既に力は入りそうになかった。
そのままずるりと座りこんだ二人は、思いもよらない下手人を見た。
「ナ……ギ、さん……?」
顔と唇を死人のような青に染めて、震える手で刀を持つ男がいた。ヴァリスが目を吊り上げて叫ぶ。
「な……に、やってんだ、ナギ、てめえ!」
「分かりません、私じゃない!」
「はぁ!? てめえが手に持ってんのはなんだよ!」
「私じゃありません! 俺の体に巣食う呪いが……トウビョウが……言うことを聞かないんです! こんなっ……こんなこと、今までなかった! 俺の、宿主の呼びかけにすら答えなかった呪いなのに!」
「ああ、手間をかけたな、ナギ。お前の呪いはよく私に馴染む。助かった」
ぱちり、とアルクトスが指を鳴らした瞬間、刀ががらんと床に落ちた。ナギは雷に打たれたような顔で彼を見る。
「殿下……? まさか、殿下が……」
「なんだ、私は呪いが得意だというのはお前も知っているだろう。お前の中にいるトウビョウは気性が荒いからな。私が直々に操るほかなかった。うっかりすると心臓を刺してしまう」
言って、アルクトスはちらりとルゥルゥを見た。肩口の傷を見て、満足そうに頷く。
それはすなわち、彼が狙ってルゥルゥを傷つけたことの証左だった。
「は……? 何、兄貴……なん……」
言葉の回らないヴァリスを、いっそ慈しむような瞳で見つめて、彼は再びルゥルゥに視線を戻す。
「それはそれとして、クレイディ伯爵令嬢、頼みがあるんだが……後ろで殺気立っている貴殿の護衛を止めてくれるか。このままでは殺されそうだ」
「何言ってんだ、お前。主人を殺されかけて、黙って見過ごす護衛がいるとでも思ってんのか?」
暗がりから現れたアイシャは、両手にダガーを備えてアルクトスの後ろに立っていた。すぐにでも彼の首を掻っ切ることができる位置だ。
「黙って聞いてりゃ鎮石だ人柱だのと、頭湧いてる奴しかいねえのか、この国は」
「アイシャ……ダメです……殺しては……」
「お嬢、黙ってろ、アンタは喋るな。おいそこのクソガキ王子、お嬢の肩押さえとけ」
「やってる……! クソ! 兄貴、なんでこんなことした!」
それはルゥルゥも気になっていた。肩から吹き出す血の量は尋常ではない。なにもしなければ、ルゥルゥは間もなく死ぬだろう。
「私を……建国の際のように、人柱にするおつもりですか……悪魔と共に、この地に埋めて……そんなことで、ほんとうに……悪魔憑きの呪いが、解けるとでも……」
だが、切れ切れに呟いた言葉に、アルクトスは首を傾げる。
「何か勘違いをしているようだが……そんな意味のないことはしない。貴殿を殺さぬよう、これでもずいぶんと気を使ったのだから」
「なら、何故……」
「知れたこと」
喉の奥で笑って、王の次に高貴な人間は言った。
「ヴァリス、彼女の血と肉を食らいなさい」
「……は?」
「ルゥルゥ・クレイディは鎮石だ。いや、正確には、鎮石としての形を得た人間だ。お前と心を通わせ、悪魔との対話を成した、唯一の存在。私はずっと、お前にそういう人間が現れるのを待っていた。鎮石たる資格を持つ人間を待っていたんだ」
一歩、彼がこちらへ踏み出す。自分を抱きしめるヴァリスの腕が、小刻みに震えている。
「鎮石ならば悪魔の力を封じ込められる。鎮石が悪魔の近くにあればあるほど、その抑制力は強く、絶対のものとなる。……悪魔の力は強い。このままでは、お前は遠からず自我を失い、悪魔の傀儡と成り果てるだろう。故に……彼女を食らえ。体内に鎮石があれば、悪魔も確実に抑えこめるだろう。彼女が何かの拍子に死んだとしても、お前の体内の鎮石は残る」
「何、言ってんだ、兄貴……」
「まずは血を飲め。足りないならば指を、それでも足りなければ腕だ。もちろん、彼女はお前の婚約者だからな、死なせるつもりはない。幸い、ここでなら最高の治療が受けられる。両手両足がなくなったとしても、彼女を生かすことはできるだろう」
ヴァリスの目が恐怖に染まる。ルゥルゥの肩を必死に抱いて、喘ぐように叫ぶ。
「そんなことができるわけあるか!」
予想外だったのか、アルクトスはわずかに目を見張った。
「何故だ? このままではお前は、ずっと苦しいまま、最後には悪魔のものとなってしまうのに」
「本気で言ってんのか!? 確実に呪いが収まるかも分かんねえ方法のために、こいつの指だの腕だのを食えって!?」
「……甘美だっただろう、その娘の味は?」
心底不思議だという顔で、いっそ無邪気に彼は言った。ヴァリスが、心の臓を掴まれたように硬直する。
「当たり前だ。ルゥルゥ・クレイディは鎮石たる人間となった。他のどんな人間よりも美味に決まっている。何せ、お前に食らわれるための生き物となったのだから」
「俺、に……」
「そうだ。これが済めば、お前が悪魔に体を乗っ取られて、全てを呪い、この世界の敵になる可能性も消える。悪魔憑きは総じて、弱って死ぬか、全てを呪って国を滅ぼす運命を辿るものだ。アスタロトも、お前の体を好き勝手に動かせる日を待っている。私はそのような未来のために、お前を生かしたのではない」
アルクトスは微笑んだ。すっかり人を超越したような笑みだった。
「言っただろう。お前は生きているだけでいいと。ヴァリス・テュシア、お前は生きるべきだ。実の母に愛され、私の母にも愛されたお前が、このまま緩やかに死んでいいはずがない」
ああ、とルゥルゥはかすかに目を伏せた。
駄目だ。この人は、何も分かっていない。
アルクトスの言動には一切の嘘が見えなかった。本気で、本当に、自らの弟を生かそうとした結果がこれなのだろう。
でも、ダメなのだ。そうではないのだ。どうして分からないのだろう?
不可思議すぎて、ルゥルゥも庇いようがなかった。彼は自分の弟がまさか、呪いを解くために、自分の命を長らえさせるために、ただの娘の腕一つも犠牲にできないなどとは、まるで考えもしていないのだ。
「最近の……呪いの騒動も、あなたの仕業なのでしょう、王太子殿下……」
辛うじて言葉を落とす。肩の痛みはどんどん増していて、傷口を押さえるヴァリスの袖口から肘までが、真っ赤に染まっていた。
「あれは、私とヴァリス様を、引き合わせるためのもの、だったのでしょう……」
思えば、呪われた彼らは最初、何故か執拗にルゥルゥを狙っていた。だが、ルゥルゥが一人のときは何もなかったのだ。彼女が襲われかけたとき、いつも隣にはヴァリスがいた。
彼が優しいことを、ルゥルゥはもう痛いくらいに知っている。暴言を吐いてきた初対面のときでさえ、呪に侵された者からの攻撃を庇って怪我を負ったくらいなのだ。
それをわかって、仕組まれたものだったとすれば? あれが全て、ヴァリスとルゥルゥの仲を取り持つために行われたことだとするなら。
「急に呪われた患者が増えたのは……あれはもしかして、ヴァリス様の監視、のつもりでしたか? 呪いによっては、呪った対象の目を通して、
「そうか、そこまで分かっていたのか。流石は呪い渡りの巫女だな」
アルクトスは眠ったままのヘクトルへ目をやった。
「彼には悪いことをした。呪いの元が私だと知って、無理やり呪詛返しを中断などしなければ、こんなことにはならなかったものを。早くに知らせておくべきだったな」
「……本当に、それだけの理由で、こんなことを?」
「何?」
「呪われた人、は……呪われる前には、戻れない、のですよ……未だに、後遺症で、苦しむ人も……あなたが、考えなしに呪いを、広げ、て、それ……で、どれだけの、人が……」
もうそろそろ舌が痺れてきた。傷口から、感覚の消失と共に寒さが広がっていく。
こんな会話に意味があるだろうか? だが、ルゥルゥはあがくしかない。目の前で震えている婚約者が、自分の楔たる彼が、絶望するような事態を防ぎたかった。自分の呪いを解くために、どれだけの犠牲が出てしまっているのか……そして、これからどれだけの犠牲を強要されるのか、そんなことを、彼に考えさせたくなかったのだ。
謝ってほしい、と、それだけを願った。一言、なるほど自分が間違っていたと、その言葉さえあれば――
アルクトスはわずかに目を伏せ、顎に手を当てて、考え込むようなそぶりを見せた。しばし押し黙り、そして、ふと目線をあげる。
「死者は、出していないはずだが」
そのとき、ふつり、と何かが切れる音が、聞こえた気がした。
「――もう、いい」
血と、痛みと、叫びをどろどろに煮詰めたような真っ黒な声が、その場に響いた。
奇妙なほど平坦な声だった。
「もう、お前は、喋るな。耳が腐る」
「ヴァリス?」
「……うんざりだ。この呪いも、悪魔も、お前も、俺の周りの人間も、罵倒も悲鳴も折檻も説教も、全部全部全部全部全部! ――全部、もう、どうでもいい」
「っ、お前! お嬢から離れろ!」
おそらく、ルゥルゥ以外でいち早く異常を察知したのはアイシャだった。制止をする暇もなく、彼女がダガーを投擲する。それは吸い込まれるようにヴァリスの肩口を狙ったが、彼を傷つけることはなかった。
煩わしそうに振った、腕の動きひとつ。刃の先が彼の手に触れるか触れないかのところで、ダガーが弾け飛んだからだ。
「は?」
アイシャが素っ頓狂な声を上げる。それはもう、見事な爆発四散だった。辛うじてダガーの柄だけが、ぼとりと床に落ちる。
いつの間にか、ヴァリスの手には黒いもやがまとわりついていた。人を呪う証の色。闇よりも濃いその黒を見て、ルゥルゥは何故か、直感的に、それが
彼の目から、泥と墨を混ぜ込んだような、どす黒い液体が流れている。
「お嬢!」
アイシャが悲鳴をあげる。瞬間、ヴァリスの背中から、黒い霧にも似た何かが滲み出た。それは二人の周りをぐるぐると回って、まるで宵の
「ヴァリス、さま……」
抱えられたまま、ルゥルゥはその頬に手を伸ばした。何かが手遅れなのだと分かってしまった。彼が彼でなくなっていく。悪魔の気配が強くなっていく。
呑まれていく。沈んでいく。ヴァリスの中が、ヴァリスではないものに蹂躙されていく。あふれた歪みがこの涙だ。
彼は、こぼれ落ちる真っ黒な涙を気にもせず、ただルゥルゥを強く抱きしめる。
「なあ、ルゥルゥ」
「はい……」
「俺は……今まで、俺一人が耐えれば、俺一人が落ちていくだけなら……なんとかなるって、思ってた。耐えられると、思ってたんだよ。飼い殺しにされたって、国の駒にされたって良かったんだ。嘘じゃねえ……信じらんねえかもしれねえが……」
涙の香りが鼻腔を通り抜ける。
「俺だけなら、良かった。ずっと、ずっと、二十三年、そうだったんだから……死ぬまでの残りの五十年や六十年、同じ扱いをされたって、大した変わりはねえ。きっと、死にたくなりながら生き続ける。俺は……そういう生き物だからだ」
ルゥルゥは首を横に振った。違う。そんなはずがない。そんな生を強要されていい人間なんかいるはずがないのだ。ましてやそれが、貴方である必要なんか。
だがそのとき、彼が少しだけ、笑ったような気がした。
「いいんだよ、本当に。なあ聞け、ルゥルゥ。俺は……傷つくのが、失うのが、俺一人なら耐えられた。悪魔に体を渡したいとも思ってなかったし、この国を滅ぼすつもりもなかった。なあ、でもな――」
闇が濃くなる。もう、視界が、ほとんど黒い。
「多分、お前を失うことには、耐えられねえ」
その言葉を最後に、ルゥルゥの体は、意識ごと闇に溶けた。