「それで? お前たち、私に聞きたいことがあるのではないのか」
平坦な声で、アルクトスが告げた。咄嗟に体をこわばらせたルゥルゥの前に、ずいとヴァリスが進み出る。
「どこまで知ってんだ、兄貴」
「少なくとも、お前たちよりは遥かに色々と知っているが」
ぎり、と彼が歯を食いしばる。
「なら答えろ。俺は……俺の母親は、俺を呪ってなかったんじゃねえのか。俺は、どこぞの先祖が悪魔を殺しきれなかったせいで呪われただけで、俺の母親は、本当は、何もしてなかったんじゃねえのか」
掠れた声が耳を打つ。繋いだままの手に力がこめられて、反射的に握り返した。
「そもそもおかしな話だったんだ。普通は術者が死んだら呪いも消えるだろ。なのに、俺の母親が死んでも、俺には呪いが残ってる。悪魔憑きだから勝手が違うんだと思ってたが、そもそもが間違ってたんじゃねえのか。俺の母親は何もしてなかったんじゃねえのか。側妃のくせに正妃に嫉妬して、禁忌の呪いにまで手をつけた馬鹿で愚かな女だなんて――償いもなしに、国の荷物にしかならない呪い子一人を残してくたばったなんて、そんなふうに噂される謂れなんか、なかったんじゃねえのか!」
喉が絞まるような声で、ヴァリスが吐き出す。懇願と悲憤に満ちた声だった。
「答えろ、兄貴! 俺は殺されるべきだったんだろ、生まれた瞬間に死ぬべきだったんだろ! なのに、どうして俺が生きてて、俺の母親が死んでる! 俺はなんのために、今までの生を耐えてきたんだよ!」
彼は氷のような瞳をまっすぐにヴァリスに向けて、答えた。
「お前がここまで生きてきたのは、国のためだ」
ヴァリスの目が見開かれる。するりと解かれそうになった手を、慌ててルゥルゥが掴み直した。すぐに縋るように握られて、安堵すべきか泣くべきか分からなくなる。
「……は、はは。んだよ、それ」
「そして、お前が殺されなかったのは、それを、お前の母が望んだからだ」
「……は?」
「ヴァリス。お前の言う通り、お前の母であるメテルはお前を呪っていない。彼女はお前を産み落とした直後、お前の目に悪魔憑きの証があると気づいて――お前を生かすために、国中の人間を騙すことにしたのだ。私の母を巻きこんで」
「王太子殿下の、お母様……? それは、つまり……」
この国の、正妃ということだ。
「悪魔憑きの王子が生まれたら、必ずその身を葬り去ること。産まれ自体をなかったことにすること。それが王族に伝わる秘事だ。慣習に近いとはいえ、そのまま育てることは不可能だった。この地に封印されしアスタロトに呪われた子供は、死ぬしかない。だから、ヴァリスと私の母は、赤子を救うために話をでっち上げた。それが、お前の唯一の生きる道だと、そう信じてな。彼女たちは誰にも言わなかった。夫である現王さえも騙しきって、自分たちの信頼できる侍従だけに話を通し、側妃の呪われた死を演出したのだ。そうするしか、お前を救う方法がないと分かっていたから」
ヴァリスが愕然と目を見開く。喘ぐように、言った。
「なんで……それを兄貴が、知ってんだよ。自分の母親から聞いたのか?」
「いいや? 私の母は、私がこのことを知っているなどとは思ってもいないだろう」
「なら、なんで、」
「見ていたからな」
平然と、彼は言った。
「お前の母が私の母を呼び出したとき、私はまだ生まれて一年も経ってない赤子だった。だから、母は私を連れていくしかなかったのだ。生後間もない王太子から目を離して、何かあったら大事になる……だから、私は全部見ていたし、聞いていた。母のそばで」
「見ていたって……」
ルゥルゥも呆然とした。だって、ありえない。生後一年も経たない赤子のときの、記憶など。
だが、彼は小首を傾げて、おそろしいほどまっすぐに告げた。
「不思議なことか? 私は全部覚えているぞ。生まれたときから今までのことなら、昨日のことのように思い出せる。ヴァリス、お前の声が甲高かったことも……お前と私の母が、泣いていたことも」
アルクトス・テュシアの最も古い記憶は、母が聞いたことのない声で泣いている光景から始まる。
アルクトスの母とヴァリスの母は従姉妹で、政治的に対立する貴族の家同士に生まれた女だった。幼い頃から英才教育を受け、どちらも妃となったが、正妃の座を勝ち取ったのはアルクトスの母であるアステルのほうだった。
二人は王の寵を狙って争いあう運命にあった。正妃の実家は王の判断におもねり、蜜をすすり、側妃の実家は実質的な王の寵を娘のものにしようと躍起になった。
馬鹿らしいことだと、アルクトスは今でも思う。民のために動くべき貴族の姿とは思えない。醜い家だ。どちらも。
だから、二人の妃の仲が良かったことを知っていたのは、全てを見ていたアルクトスと、彼女たちの側近くらいなものだったし――本当は、どちらが先に王子を産んだって、構いやしなかったのだ。
だけれども、アルクトスの兄弟が生まれた日、世界は弟の全てを拒絶した。
「アステル様、この子、悪魔憑きなのですって。いつか、国を滅ぼすかもしれないのですって」
メテルの声が妙に凪いでいたことを。アステルがそれを色のない顔で見ていたことを、きっとアルクトスは忘れないだろう。
「殺さなければ、いけないのですって」
泣けもしないメテルの前で、細い金属のような音を立てて涙を流す母を、ずっと、今も、忘れていない。
「ごめんなさい、アステル様。でも私、こんなことのためにこの子を産んだんじゃない。殺すために、死ぬような思いをしてこの子を産んだわけじゃないんです」
「ええ、メテル、わかっているわ」
「私、この国よりこの子が大事です。だからアステル様……私を殺してくれますか?」
それから二人は綿密に計画を立てて、ヴァリスを救うための犠牲を一つ一つ選んだ。メテルの命。ヴァリスの心。これから得られるはずだった、親子としての幸福の全て。
全て、全て、弟の命のために捨てられた。いっそ潔いくらいだった。ヴァリスが生きていればそれでいいと笑うメテルの声を、一体何度聞いただろう? 自分は何も犠牲を払っていないと嘆く母の涙を、一体何度見ただろう?
それでも足りないのだと知ったのは、ヴァリスが五つになったころだった。
王宮で飼っていた馬が、ヴァリスによって殺されたのだ。一晩で二頭、首を噛み切られて死んでいた。
血が飲みたかったから――そう告げる弟の目は澄んでいて、ゾッとするほど美しかった。正しく悪魔だと言われても頷けるほど。
それから程なくして破壊衝動も強まり、いよいよ手がつけられなくなったとき、母は弟を「教育」し始めた。言葉で倫理を説き、噂を流して周りが彼を責めるように仕向けて、弟に罪悪感を植えつけた。自分のしていることを決して肯定しないように。弟が、自分で自分を無理やり律するように。破壊衝動は力で押さえつけ、吸血衝動は動物の血のみを与えて。
弟の悲鳴も叫びも懇願も祈りも押し潰した。全ては悪魔を目覚めさせないために。
弟は泣いた。破壊衝動が収まるまで殴られ続けて、どうしてこんなことをするのかと泣いた。そのうち怒るようになってやめろと叫んだ。弟の言葉は最後に懇願に変わって、お願いだから助けてほしいと縋るようになった。なんでもするから――と、吸血衝動で息も絶え絶えの弟を何度も見た。
それら全て、叶えられることはなかった。
母が倒れたのは、アルクトスが十四になった頃だ。大事な従妹の息子を虐げることに、心が耐えかねた結果だった。
幼い頃から弟は教育と暴力で躾けられ、芯からすっかり荒んでいた。人の手を拒絶するようになったし、瞳は濁って何の光も映さなくなった。それでも、そうしなければ生き延びられないのだ。誰かが、やらなくてはいけない。
そして運の良いことに、アルクトスは誰かを大切に思いながら、その体を踏みつけにできてしまう人間だった。正しく王の器たる彼は、弟を生かすためなら、弟を死ぬほど苦しませることくらいはできる。そうしなければ彼が生きられないというのなら、いくらだって。
だから、大丈夫。自分はきっと、誰より上手くやれるだろう。
犠牲を払ったメテルのため、犠牲を払うことすらできなかった母のため。
世界に運命を定められた弟を生かすのだ。
文字通り、何をしてでも。
「お前の母と私の母がお前を生かした。だから、私は母の意志を継いで、お前の呪いを隠蔽した。お前に取り憑いた悪魔がアスタロトであることは、わずかな侍従たちしか知らない」
全てを聞き終えて、ヴァリスは呆然と告げた。
「……なんだ、それ」
魂が抜けたような声だった。
「知ってたのか? 俺に、俺に……呪われるべき罪なんか、なかったってことを」
「ああ」
「……俺の母親が貶められる理由なんか、どこにもなかったって、知ってたのか?」
「ああ」
瞬間、ヴァリスの瞳の中で業火が燃えた。全ての感情が噴出したような勢いで、アルクトスの胸ぐらを掴む。
「てめえ、俺がどんな思いでっ……!」
だが、アルクトスは微塵も動揺せず、振り上げられた拳から目を逸らしもしなかった。ヴァリスはむしろ自分が殴られたような顔をして、呆然と手を離す。
虚ろな表情がゆっくりとほどけて、ひび割れた唇が動いた。
「じゃあ、なんだよ……俺をずっと騙してたってことか? 俺が、俺が暴れて、その度に死ぬんじゃねえかってくらい殴られて……血が飲みたくて、そのたびに吐きそうな匂いのする動物の血を流し込まれて、あんな……」
じわじわと言葉が黒く染まっていく。声が震えて、手が震えて、瞳が闇に飲まれていく。
「俺が悪いんじゃなかったのかよ、俺が、全部、悪いんじゃなかったのか! 俺が苦しんで、死にたくなりながら生きてたのはなんだったんだよ! 俺が叫んでるのも、泣いてるのも、全部を笑いながら見てるのは楽しかったか、兄貴!」
「そんなふうにお前を見たことは一度もない」
アルクトスはきっぱりと告げた。
「私にそんな感情はないよ、ヴァリス。お前を嘲笑うような理由はないし、お前を生かすためにできることはなんでもやるべきだと思っただけだ。その結果、お前が死にたくなったとしても、お前が生きていてくれるだけで良かったのだから。それが、倒れるほどにお前とお前の母を愛した、私の母の願いだったのだから」
「皮肉か? 俺のせいでお前の母親が倒れたから、その腹いせか?」
「何故そうなる?」
「じゃなきゃこんなことできねぇだろうが!」
ヴァリスは激昂した。その目からばらばらと涙がこぼれる。
「俺はなあ、人を殴りたくなんかなかったし、物を壊したくなんかなかった! 血を飲めるのが嬉しいなんて思ったこともねえ! こんなこと、やりたくてやってるわけねぇんだよ、生きてるだけで吐き気がする! それでも俺は悪魔憑きで、俺が俺を制御できねぇから、物も人も壊れるし、俺は他人の命を啜って生きてる。そう言われてきたし、俺だってそう思ってた! 『死んでくれたほうがいい』って目で見られることにも慣れてた!」
喉が切れるほどの叫びに、ルゥルゥは咄嗟にヴァリスの腕を抱え込む。
自分が悪魔憑きである罪を償うためだけに、彼は地獄のような日々を生きている。
罵られ、怯えられ、自分の傷一つさえ顧みられることなく、ほとんど全ての人間から拒絶されて、歪まない人間がいるだろうか?
それが作られた罪だと知って、果たして誰のことも恨まずにいられるだろうか? 彼が傷つけたものは確かにあったけれど、同じくらい、彼を傷つけたものだってあったはずなのに。
「全部嘘だったなら、なんで、何もしないで見てた。俺が叫んで、泣いて、命乞いをしてるのが、そんなに楽しかったかよ」
ぼたぼたと涙をこぼしながら、視線だけはまっすぐに、兄の方を向いている。
「必要だったから、止めなかった。それだけだ。お前のことを恨んでなどいない。『指導』されるお前を見ていて、楽しかったと思ったこともない」
「んなわけ……!」
「王太子殿下。失礼ながら、言葉選びが下手にも程があるかと」
唐突に不敬をぶちかましたルゥルゥに、二人の王子が同時に彼女を見た。アルクトスが眉間にしわをよせる。
「何?」
「回りくどくてまどろっこしいからいけないのです。つまりあなたは、ヴァリス様を愛していたということでよろしいのですか?」
ヴァリスが唖然と顎を落とした。
「何言って……」
「そうだが」
「そうだが!?」
ヴァリスが仰け反るのを見て、思わずため息をつく。
「ほら、あなた様が遠回りな言い方をしてらしたから伝わっていないのですよ。お言葉ですが王太子殿下、今のところ、ヴァリス様のあなた様への評価は地を這っていますからね」
「お、前は、自分のことを気にしろ! 次期国王相手に恐ろしいこと言ってんじゃねえ! 兄貴の機嫌次第でお前の首なんかすぐに飛ぶぞ!」
ヴァリスが顔をしかめるのを見て、ぐるんと彼のほうを振り仰ぐ。
「私はヴァリス様以外にだったら嫌われても恨まれてもどうでもいいです」
「いやだから、よくはねえだろ、兄貴相手だぞ。不敬罪で死ぬだろうが」
「そのときは守ってくださいますでしょう?」
「は……」
大きく見開いた目からは、いつの間にか涙が止まっている。なんだかよく分からないが、彼がこれ以上泣くようなことにならなくて良かったと思った。
「私は、ヴァリス様以外はどうでもいいので、ヴァリス様が死にたくなるような要素は全部排除しなくてはならないのですよ。ここにいたのが国王陛下でも、きっと私は同じことをしました」
「……愛されているな、ヴァリス」
「盲信つーんだよこういうのは……」
「盲信でもなんでも構いません。とにかく王太子殿下はヴァリス様を愛している……ということで
「構わない」
ヴァリスがなんとも言えない顔をした。詰め込まれた不信の中に、ひとかけらの期待が見え隠れしている。
「本気で言ってんのか」
「私は無意味な嘘はつかない」
「なら、なんで……」
その先を言えずに固まってしまった彼を見て、ルゥルゥが言葉を引き継ぐ。
「どうして、ヴァリス様を貶めようとなさったのですか。呪いを解こうとは思わなかったのですか? ヴァリス様を呪う悪魔の名前まで分かっていたなら、解呪の儀もできたのでは?」
すると、アルクトスは片方の眉を器用に上げて答えた。
「もちろん調べた。解呪の儀は……ヴァリスが眠っている間に行ったことがある。が、残念ながら大した効果はなかったな。名前が分かっても、アスタロトはヴァリスから離れなかった。相当な胆力があるらしい」
ルゥルゥは目を見開いた。普通、名前を知られた悪魔に解呪の儀を行えば、悪魔は相当の苦痛に苛まれる。自分の痛みに敏感な彼らは、大概がそれで人間から離れていくのだ。人間の苦しみを眺める時間よりも、自らの苦痛を選ぶのが悪魔という生き物である。
思わず首を傾げる。アスタロトにとって、この地に封じられた恨みはそれほどのものだったのだろうか?
だがよく考えれば、彼はこれまでも、百年ごとに王族を呪っているのだ。その間に解呪の儀が一度も行われなかったとは考えにくい。
呪いを解くのではなく王子を殺す慣習ができたことといい、アスタロトは名前を知られても痛みを感じない悪魔なのかもしれない。高位の者であれば、そういうこともままある。
だが次の瞬間、アルクトスの口から出た言葉に、ルゥルゥの考えはどこかに飛んだ。
「まあ、だが、呪いをどうにかする方法は既に分かっている」
「は?」
「え?」
「鎮石だ」
あくまでも淡々と答える彼に、二人は唖然として顔を見合わせた。呪いを解けると言ったのか、今?
「ど……どういうことですか? 王太子殿下は、ヴァリス様の解呪の方法をご存知なのですか? 本当に?」
「ああ。正確には解くというより抑えこむと言った方が正しいだろうが」
「ど、どうしてそんなことを知って……」
「うん? 悪魔から直接聞いたからな」
ルゥルゥは仰天した。
「悪魔が答えたんですか!? 呪いの抑え方を!?」
「ああ。それこそ、解呪の儀を行ったときに、あの男が出てきてな。あの男は元々、いつかヴァリスの心が衰弱したときに体を乗っ取るつもりだったらしい。だが、簡単にことが進んではつまらんからと、悪魔の力を抑える方法を私に教えていった」
ルゥルゥは目眩を覚えた。経緯が奇天烈すぎる。
普通ならばありえないことだ。何せ話が上手すぎる。悪魔は人を惑わすもので、アスタロトの言葉は信用に値しない。
「もちろん私も疑ったが……魂呼ばいの儀を行って、建国の祖から話を聞いた。そうして、どうやら悪魔の話は真実だということが分かったからな。試してみる価値はあるだろう」
「カクールゴス様に……!?」
知らない話がどんどん出てくる。つまり、カクールゴスはヴァリスの呪いを抑える方法を知っていたのだろうか? だが、先ほどルゥルゥが行った魂呼ばいのときには、彼は解呪の方法が分からないが故に、ヴァリスは殺される運命だったのだと言っていなかったか?
ルゥルゥの混乱を読み取ったように、彼は淡々と答える。
「言っておくが、私が悪魔から聞いた方法はあくまで仮説だ。そもそも、呪いを完全に解くものではなく、あくまで体を乗っ取られない程度に呪いの力を抑えるものだからな。しかも、悪魔も方法を知っているだけで、成功した前例はないと言っていた。誰も試さなかったのか、試せなかったのか……それとも、誰も知らなかったのかは知らないが……だが、信憑性のある話だった。何せ建国の祖のお墨付きだからな」
「……鎮石が、関係しているのですよね」
「そうだ。悪魔憑きの呪いを抑えられるのは鎮石のみ。その在処を、悪魔は知っていた」
「どこにあるんだよ、そんなもの。二十三年、どこ探し回ったって見つからなかった」
「当たり前だ。鎮石は彼女だからな」
アルクトスがぽんと放り投げた言葉に、空気が止まった。