ルゥルゥはヴァリスの手を引き、手頃な石畳の上に腰を下ろした。彼も特に文句を言わずに、隣へ腰を下ろす。未だ流れ続ける涙を、雑に手の甲で拭って止めていた。
カクールゴスはヴァリスのほうに目をやった。
『端的に言うと、お前が呪われているのは十中八九、私があの悪魔を封印したからだ。あいつは私を恨んでいてな。封じられる直前に、私の血に呪いをかけた。私の血族がこの地を治める限り、悪魔憑きが産み落とされるだろう、と』
ヴァリスが目を見張る。ルゥルゥはじっと話を聞いた。
『もちろん、憑いている悪魔は私が封印したあの者だ。……あいつの力は強大だ。殺すことはできず、体は封じたが魂だけは縛りきれなかった。百年に一度、あの悪魔は大地の縛りから抜け出て、この国の王子の体に取り憑く。取り憑かれた者は、破壊衝動と吸血衝動に苦しみ……徐々に衰弱していく。自害するまで追い詰められた者も多いはずだ。どうにか生きた者も、己に取り憑かれた以上はいずれ、国を破滅に導くだろう、とあの悪魔は言っていたな』
「……は」
あまりに簡単に告げられた己の呪いの真実に、ヴァリスは乾いた笑いをこぼした。
「何言ってんだ、お前……だとしたら、俺の母親が俺を呪ったってのは、なんなんだよ。なんで、俺の母親は死んでんだよ!」
カクールゴスは確かめるようにルゥルゥを見た。飛びつくように頷く。
「ヴァリス様の問いに答えてください、建国の主様」
『答えはできるが……端的に言えば、それは私にも預かり知らぬことだ』
「は……?」
『というか、私にとってはお前が生きていること自体が驚きなのだが』
「あ? 俺が衰弱死してねえのが何か問題か? つーかお前、ほとんど自分のせいで子孫が呪われてるってのに何も悪びれねえな」
ヴァリスがぎっと睨みつけるが、彼は不思議そうに小首を傾げる。
『私が悪びれたところで悪魔憑きの王子が生まれなくなるわけでもないし、必要なかろう。私は間違ったことをしたとは思っていない。というか、私が不思議なのはお前が呪われながら生き残ってきたことではない……悪魔憑きとして生まれた王子は、その場で殺されるのが慣習になっていたはずなのだが』
「……は?」
『いやなに、私は悪魔憑きが出たら幽閉するようにと言っておいたのだが、いつの間にか殺したほうが手っ取り早いということになったようだ。生まれた直後から、悪魔憑きには体に何らかの特徴が現れるからな。お前のその目のように』
流石にルゥルゥもぎょっとした。
「そんな話は私も聞いたことがありません。まさか、一国の王子ですよ? 殺すだなんて……」
『耳にしないのも道理だろう。王家に定期的に悪魔憑きが生まれるなど、そもそもが極秘事項だ。だが、王位継承権のある者には基本的に、私の血にかけられた呪いのことも、アスタロトのことも知らされていたはずだぞ。悪魔憑きとなった王子を葬ることは国の秘事だからな』
淡々と言う姿に目眩がした。そんなに簡単に葬るとか言わないでほしい。
だが、カクールゴスは首を傾げたままヴァリスのことをじっと観察している。
『母親がお前に呪いをかけたと言ったな。そのせいで、お前の呪いの原因が母親のせいなのか、私の血にまつわる呪いかの判断がつかなかったのか……? 否、その程度で区別がつかなくなるほど、アスタロトの呪いは没個性的ではないはずだが……』
「……んなことはどうでもいい。おい、てめえ、ひとつ聞くが」
ゆら、と、彼の顔が上がる。
「兄貴は、そのことを、知ってたのか?」
ルゥルゥがはっと息を呑む。思わずヴァリスの腕を掴むと、彼は一瞬だけこちらを見た。反射のように手を握られる。
ヴァリスはカクールゴスに向き直り、苦々しい顔で問いかける。
「俺の体に取り憑いてんのが、この地に封じられた悪魔だって……俺の母親はなんも関係がねえってことも、知ってたのか?」
『どうだろうな。可能性は高いと思うが』
ヴァリスの顔が一瞬固まって、喉から、ひきつれたような笑いが落ちる。
「はは……じゃあ、なんだよ。悪魔に憑かれたのは、俺が弱いからじゃなかったのかよ。俺の心が弱いから、悪魔が好んで引き寄せられたなんて、あんなのは嘘か? 俺が俺を許すことは大罪で……俺が自分に甘くなればなるほど、呪いは強くなるって……自分を許すことだけはしてはならないって……あれは……悪魔に屈したらこの国が滅ぶって、あれは全部嘘か?」
『お前が屈したらこの国が滅ぶのは事実だろうな。悪魔憑きはいずれ、悪魔の力を受け入れるようになる。あまりに強大な力に溺れるようになり、人を傷つけて黙らせる力に縋り始める。そうなれば転がり落ちるだけだ。悪魔に体を乗っ取られて、一つになってしまうだろう』
「ああ……そうかよ」
ダメだ、とルゥルゥは思った。ざわざわと肌が粟立つ。何か分からないが、このままではダメだ、と明確に本能が警鐘を鳴らした。
彼に、これ以上、話を聞かせてはならない。
「いいえ、そんなことにはなりません」
ヴァリスの瞳がこちらを向く。琥珀の奥の闇を見つめて、ルゥルゥは告げた。
「私がいます」
きっぱりと告げ、彼の手をぎゅっと握る。彼はまだ自分を見ている。それでいい。もう、ルゥルゥ以外の何にも、目を向けてほしくなかった。
「王族の方々はヴァリス様を殺しませんでした。そして、私をヴァリス様の婚約者になさった。それだけは……それだけは、きっと正しいことでした! ヴァリス様は悪魔に乗っ取られることも、誰かを傷つけることももうありません。私がいます。この子たちも」
愛しい獣たちを指す。全てはこのために、ルゥルゥは呪い渡りになったのだろう。
「だから、あなたはいい加減祝福されるべきです。ヴァリス・テュシア様。私の楔がこの世に存在したことが間違いだったなんて、誰にも言わせはしません。私があなたの隣にいる限り、あなたを侮辱するもの全て、私が許さない」
ヴァリスは一瞬息を詰まらせて、ぐしゃりと顔を歪めた。
「なら、お前が……死んだら、どうするんだよ」
ルゥルゥはぱちりと瞬いた。数拍考えこみ、困った顔で眉を寄せる。
「……それはちょっと考えていませんでした」
「おい」
「えっと、じゃあ守ってください、ヴァリス様が」
は、と彼の顔が驚きに緩む。
「ヴァリス様が守ってください、私のこと。そうすれば私、ずっとあなたのそばにいられますよね?」
咄嗟に考えたにしては悪くないんじゃないか? と思う。ルゥルゥがヴァリスの心を守って、ヴァリスがルゥルゥの体を守るなら、それ以上にフェアなことってないだろう。
「……考えたこともなかった」
「嫌ですか?」
「そ……」
言いかけて、飲み込む。ルゥルゥの手を握り返して、ヴァリスが真っ直ぐにこちらを見下ろす。しばしの間、逡巡に揺らいでいた瞳は、不意にルゥルゥを見つめて止まった。瞳孔が開ききっていて、ぎらぎらとしたまなざしがルゥルゥを縫い止める。
「じゃあ、俺より先に死ぬなよ、ルゥルゥ」
「いいですよ。ちゃんと守ってくださいね、私のこと」
寄せられた額に、こつんと自分の額をぶつける。人の体温に微笑んで、ルゥルゥは約束をした。
そのときだった。不意に後方からばたばたと騒々しい音がして、ヴァリスがぱっと顔を上げる。
「殿下っ、巫女さま!」
息せき切って駆け込んできたのは、藍と黒のローブを纏った青年だ。見慣れた解呪師の衣装に目をやって一拍、ルゥルゥは息を呑んだ。
ここに来てから知ったことだが、解呪師のローブは彼らの等級によって、異なる色の帯で締めるようになっている。三級なら白、二級なら灰、一級なら黒。
彼の帯は黒かった。だからルゥルゥは一瞬、彼は一級解呪師なのかと思ったのだ。だが、彼の顔をよく見れば、最近解呪を手伝ってくれていた三級解呪師だと分かる。なんなら昨日、ヴァリスが怪我をした騒動のときも部屋にいた。
あれっと思ってすぐに気づいた。
赤黒く染まったあれは、血だ。
「助けてくださいっ……長が、長が死にかけてるんですっ……!」
「ヘクトルさんが?」
二人はぎょっと顔を見合わせた。昨日の時点ではぴんぴんしていたはずだ。急に何が?
彼はヴァリスを見るなり、元々青かった顔を紙のように白くさせて頭を下げた。その場に平伏せんばかりの勢いだ。
「きっ、昨日は本当に、本当に申し訳ありませんでした、殿下……! 無礼な言動や、殿下を拘束しようとしたことへの罰は受けます! ですから、長を、長を……」
急速に萎んでいく声を聞きながら、ルゥルゥはヴァリスを見上げた。この場で、自分に彼の行動を制限する権利はない。怪我をないがしろにされたのも、解呪師のために動いた先でひどい言葉を浴びせられたのも彼だ。自分ではない。
許してやってくれと懇願する権利は、ルゥルゥにはなかった。彼女はこれ以上、ヴァリスの心を縛るようなことはしたくない。
ヴァリスは緩慢な動きで後ろを振り向き、怪訝な顔をした。
「おい、ルゥルゥ、あの男は?」
視線の先を目で追うが、獣たちの陣の中心には、既に誰もいない。彼女は首を横に振る。
「魂呼ばいは、何も知らない第三者が介入した時点で契約が切れてしまうんです。建国の主様は、おそらく浮遊する魂の一つに戻ったんでしょう」
「あの野郎……兄貴のことだけ中途半端に話しやがって……」
彼はギリと唇を噛み締め、解呪師の男に向き直った。数拍黙り込み、じっと足元を見つめて何かを考えている。
「で、殿下……」
「おい、ルゥルゥ」
彼の言葉を無視して、ヴァリスがルゥルゥを見る。
「俺は、兄貴に話を聞く。俺の呪いのことを知ってたのか……知ってたなら、なんで今まで黙ってたのか。俺の母親はなんで死んだのか。俺を、なんで生かしたままにしたのか、全部」
「はい」
「だから……一緒に来てくれ、ルゥルゥ」
「もちろんです。絶対に連れて行ってくださいね」
わずかの躊躇もなく即答する。本当に少しだけ、かすかな安堵の吐息が彼の口から漏れたのを、確かに見た。
そんなに不安にならなくたっていいのにな、とルゥルゥは思う。ヴァリス・テュシアという人間は多分、誰かに頼ったことがほとんどないのだ。頼れるような人間がいなかったのだと分かってしまう。本当に、ただ単純に、いなかったのだ、そういう人が。
不意に、解呪師の青年がはっと目を見開く。
「あっ、あの! 王太子殿下でしたら今、長と一緒に、呪い解きの館にいらっしゃいます!」
「あ? なんで兄貴が……いや、丁度いいか」
ヴァリスは一瞬不可解そうな顔をしたが、渡りに船とばかりにふっと肩から力を抜いた。
「なら、まあ、先にあのボンクラ解呪師をなんとかしてやるか。あんなんでも一応、俺の呪いを解く可能性が一番高い解呪師だからな……」
「殿下!」
解呪師の彼がぱっと顔を輝かせた。喜色満面の笑みでヴァリスを見る。
彼は苦い顔をして、しっしっと手で虫を払うような仕草をした。
「顔がうるせえ、さっさと案内しろ」
「ヴァリス様って、やっぱりちょっと素直じゃないですよね」
「うるせえんだよ」
額をこつんと小突かれて、こんな状況だというのに、ルゥルゥは思わず笑ってしまった。