『何を聞きたい、巫女よ』
「まずは一つ。ここにいるのは私の婚約者であり、悪魔憑きの呪いを受けたテュシアの第二王子――ヴァリス様です。私も彼も、この呪いは側妃であった彼の母が、王太子を呪い殺そうとして失敗したせいだと聞いていました。しかし、彼に取り憑いた悪魔は、呪いについての真実をあなたが知っていると言っていたのです。あなたがヴァリス様の母親と交流があったとは思えない……つまり、彼が母親に呪われたというのは、嘘なのではないですか?」
ルゥルゥは一つひとつ、確実に言葉を紡いだ。
『良いだろう。ならば、先に対価を渡せ、巫女よ。お前が隠している秘密とはなんだ? 端的に、一つのみで構わない。この場の誰もが知り得ぬことを述べよ』
彼女は少しだけ迷った。これを聞いたら、きっとヴァリスは驚くだろう。
拒絶されるだろうか? と考えて、心の中で首を振る。彼はきっと気にしないだろう。ヴァリスほど、自分の血に無意味さを感じている人はいない。
「私は、クレイディ伯爵家の血を引いていません」
「……は?」
ヴァリスが驚きに目を見張ったのと、どこかでカチリ、という機械音がしたのは同時だった。
『良いだろう、承った』
カクールゴスは淡々と言い、呆然としているヴァリスをよそに一つ、呟くような答えを返した。
『
「は……」
殴られたような顔をして、ヴァリスは額を押さえた。
「待て、おい、待てよ。じゃあ……なんだ、俺の呪いは、誰にかけられてんだよ。悪魔か? 悪魔の気まぐれで……いや、ありえねえだろ。悪魔は理由もなしに人間を呪ったりしねえ」
その通りだ。悪魔は快楽と欲望の虜というのは有名な話である。その代わり、彼らはなんの意味もないことはしない。無駄だからだ。
「おい、なんなんだよ、俺は……俺は誰に呪われてんだ! 答えろ!」
『私を呼び出したのはそこの巫女だ、お前ではない。対価を払うのも、問いかけの権利があるのも、そこの娘一人だ』
ヴァリスは目を見張り、ぎょっとするような勢いでルゥルゥの肩を掴んだ。
「おい、ルゥルゥ。聞いてねえぞ。対価を払えるのはお前一人だと?」
「そうですが……特に問題ないですよね?」
「大ありだ、馬鹿が!」
シンプルな罵倒である。ルゥルゥはぱちぱちと瞬いて、かすかに微笑んだ。
「大丈夫です、ヴァリス様。私がどこの誰だろうと、私にどんな秘密があろうと、私の本質は変わりません。私に何があったとしても、ヴァリス様は私の楔ですから……ああ、でも、一つだけ」
「あ?」
「私の何を知っても、私を妻にしてくれますか?」
この言い方は少しずるいかなとルゥルゥは思った。でも、そうでないと困るのだ。ルゥルゥを拒絶されたら、誰が彼の破壊衝動を鎮めるのだろう? 吸血衝動については? 後者は人間の血だったら誰でもいいのだろうか?
それでも、ルゥルゥ以外の血を陶酔したように飲むヴァリスを見るのは、少し嫌だ。
彼の顔が驚いたように緩んで、直後にぎっと歪む。苦虫を噛み潰したような顔でルゥルゥの手を掴んだ。
「当たり前だろうが。今更何言ってやがる、馬鹿が」
なんだか今日は罵倒が多くないだろうか?
『話は済んだか、巫女よ』
「あ、そうでした。質問しないと。忘れるところでした」
「俺はたまにお前が怖ぇよ、ルゥルゥ」
「ええ?」
何故だ。こんなにも真剣なのに。
頬をふくらませつつ、ルゥルゥは二つ目の問いかけをした。
「それでは改めて……建国の主様。ヴァリス様を呪っているのは誰ですか?」
『答えが欲しければ対価をよこせ、巫女よ。新たな秘密をひとつ、つまびらかにせよ』
ルゥルゥは深呼吸し、一息に告げた。
「私の父は、母を襲った男でした。私は……母が誰かと愛し合った結果できた子供ではありません」
ヴァリスが仰天しているのを横目に、カクールゴスは頷いた。
『良いだろう、承った。そこの男……私の子孫を呪っている者の名は、アスタロト。この地に封印されし悪魔。私が封印せしアスタロトだ。私の子孫は、悪魔を召喚した何者かによって呪われているのではない。悪魔が、自分の意思で呪っているのだ』
ルゥルゥはぽかんと口を開けた。悪魔が……自分の意思で、人を?
信じられなかった。悪魔が己の意思で呪いをかけるとしたら、それは彼らの不興を買ったときだけである。
ヴァリスが呪われたのはほんの赤子の頃だ。なんの力も持たない赤子が、悪魔を怒らせるはずがない。蟻に挑発されたところで象が動かないように、赤子が悪魔にできることなどたかが知れている。
だが、魂呼ばいの場では、死者は嘘をつけない。
ルゥルゥの頭の中を急速に思考が駆け巡る。不穏な悪魔の言葉と、目の前の死者の言葉がぐるぐると脳の中でかき混ぜられた。
不意に、ヴァリスの兄であるアルクトスとの会話が脳裏に蘇る。
『国を支えるのと、ヴァリス様を一人にしていらっしゃるのとは、何か関係があるのですか?』
『そうだと言ったら?』
あれは、もしかして――
点と点が鮮やかに繋がっていく感覚に総毛立つ。無意識にぶるりと肩を震わせたとき、唐突に腕を掴まれた。
「おい、ルゥルゥ、いい加減にしろ!」
「え?」
「てめぇとそこの先祖は互いに知ってる情報交換してるだけかもしれねえけどな、こっちはどっちも知らねえ話なんだよ! 情報過多で頭に入ってこねえだろうが!」
ヴァリスが目を吊り上げてこちらを睨んでいる。
「ええと……私の秘密はただの対価なので、聞き流してもらって構わないのですが……」
「できるわけあるか、馬鹿が」
やっぱり罵倒が多くないか?
「つーかお前の話の方が気になるんだよ。伯爵家の血を引いてないってどういうことだ。養子にでも入って……いや、ナギが言うには、お前は確かに伯爵の妻の娘だって話だろうが」
「ええ、そうなのですが……」
ルゥルゥは普通に困った。どちらかというと今はヴァリスの呪いについて聞き出したいのだが……
ちらりとカクールゴスを見ると、彼は興味深そうな顔で顎を撫でつけた。
『ふむ、そうだな。ならば前払いということで良いだろう、巫女よ。好きなだけ秘密について語るが良い。そのあと、お前の対価に見合うだけの情報を渡そう。私も話を小出しにするのは面倒だ』
「そういう感じでいいんですね……」
だがまあ、それなら特に遠慮する必要もない。ヴァリスもおそらく、ルゥルゥが話をしない限り文句を言うに違いない。そういう目をしている。
「そうですね……どこから話したらいいのか……とりあえず、私のお母様は、確かにクレイディ伯爵の妻ですが……第二夫人なのです」
「何?」
「現在クレイディ伯爵家を切り盛りしているのは第一夫人で、私の義母にあたる方です。私の母は……産後の無理がたたって、早くに亡くなっているんです。確か、私が七つになるころでした」
ヴァリスが一瞬絶句した。半ば予想していた反応ではある。自分だって母親を亡くしているのに、他人の親が死んだことにショックを受けてしまうような人なのだ。
「ええと……母が襲われて私ができたという話はしましたよね? 母は、花のような人だったので……軽やかで、美しくて、たおやかで、どこかに閉じ込めたいと考える人がいたって、全然おかしくはなかったのだと思います。母もアイシャも詳しくは教えてくれませんでしたが、多分、子供さえできれば母を繋ぎ止められると思った人がいたのではないでしょうか。呪い渡りの『楔』の話を聞いて、勘違いする方はたまにいるのですよね。子供さえできれば、呪い渡りもその地に留まってくれるのだと考える人が」
呪い渡りはどんな呪にも染まりにくい体を持つ。だがそれは、どんな土地にも根ざすことができない印だ。テュシアほどでなくとも、全ての土地には呪が多かれ少なかれ含まれている。その全てを拒絶する呪い渡りは、生まれ育った土地にすら「懐かしさ」を感じない。自分の故郷がどこにもないような不安に囚われて生きるしかない。
そんな呪い渡りのための唯一無二の錨が「楔」だ。他人に定義されるようなものではないというのに。
「母は逃げました。アイシャの手を借りて、男の魔の手が届かない遠く……呪いの滲む土地であるテュシアまで。クレイディ伯爵家とは以前、呪い渡りとして関わったことがあったとかで……何かあったら一番に頼れと、第一夫人の方から言われていたらしいんです」
ルゥルゥは目を伏せる。
「そこで、母は夫人に押し切られるようにして、伯爵家の第二夫人になりました。万一私の父親だと名乗る者が現れても手を出せないように、伯爵家という名の盾を使えと」
息を詰めて聞いていたヴァリスは、安堵と呆れの混ざったため息をついた。
「お前のところの母親、二人とも豪胆すぎるな」
「私もそう思いますけれど、そもそも母は、私がお腹にいる中で無理をしていたせいで、それ以上逃げられる状態ではなかったのですよ。お義母様が必死に止めてくださったのも、母のためだったのだと思います。体が冷えすぎて、私が流れるかもしれなかったのだと、後で聞きました」
凍りついたヴァリスを見ながら、ルゥルゥは笑った。
「実際に何度か、私の父の関係者のような人がクレイディ伯爵家を訪ねてきていましたしね。さる高貴なお方の落とし子を探しているとかなんとか……お義母様が一蹴していましたけれど」
もしかしたら本当に高貴な身分の男だったのかもしれないが、ルゥルゥには預かり知らぬことだ。母も義母も、何も語らなかったのだから。
「アイシャが私に過保護なのは、母を守れなかったと思っているからでしょうね。アイシャは代々、呪い渡りを守り導く一族の出で、母と一緒に旅をしていたらしいのです。母が襲われたことも、私を産んで死んでしまったことも、多分、どうしようもなく悔やんでいるのだと思います」
だから彼女は、見つけられなかった正解を、助けられなかった後悔を、ずっとルゥルゥに向けている。彼女を許せていないのは彼女だけで、母はきっと怒ってもいないに違いないのだけれど、アイシャが気づく日はまだ遠いだろう。
「まあ、そういうわけなので、私はクレイディ伯爵家の血を引いていません。でも、私は確かにクレイディの家の娘です。別に義父も義母も、伯爵家の血統を残すことに興味はないようですし」
義母はそもそも子供ができにくい体質だったと聞いている。だからこそ、母をなんとしてでも匿ったのかもしれない。
願ったのに持てないことも、願っていないのに無理やり持たされることも、同じくらい辛いことだ。義母はそれを知っていたのだ。
「……お前は?」
「え?」
「お前は、それで良かったのか」
すっかり色をなくした顔で、ヴァリスは瞬きもせずにルゥルゥを見ていた。掴まれた手だけが、ひどく熱い。
「ちゃんと母親から愛されたのか。……不意に、望まない子だと、罵倒されたり、しなかったのか」
ルゥルゥは目を丸くした。きっかり二拍置いて、体の硬直がゆるりと解ける。
「いいえ。
ルゥルゥは苦笑して、彼の顔に手を伸ばした。
「だから、そんなふうに泣かなくたっていいんですよ、ヴァリス様」
しとしとと、雨のように涙が降る。片方しか見えていない瞳から、豪雨のように涙が落ちていく。
拭っても拭っても雨が降る。掴まれたままの片手が軋むような強さで握りこまれた。
どうしてこの人は、こんなに優しいのだろう? 自分の母親を失って、彼のものではない罪の証を背負わされて、愛されたとはとても言えないような育ち方をした。なのに、幸せに育ってきたルゥルゥの、生まれる前のことに心を痛めて泣いている。
どうして悪魔は、こんなに優しい人を呪ったのだろう?
「秘密は終わりです、建国の主様」
くるりと振り返り、興味深そうに話を聞いていた男に向かって言う。
「これを対価に、どこまで教えてくださいますか?」
『ふむ、お前の聞きたいことが何かによるな』
「ヴァリス様の身に何が起きているのか……どうして、彼の母が彼を呪ったなどという嘘がまかり通っているのか、教えてください」
彼は少し遠い目をして、陣の中心にすとんと腰を下ろした。
『良かろう……だいぶ、昔の話になる』