「俺が、好きでこいつを呪ってるって? どうしてそう思った?」
赤い瞳の悪魔が、まっすぐにこちらを見つめている。ヴァリスの顔のはずなのに、どうしてこんなに威圧感があるのだろうとルゥルゥは思った。
慎重に言葉を重ねる。
「私が元々母から聞いていた悪魔の性質が正しいのなら、こんな状況は屈辱的すぎますから。それなら……これが予定調和であるというほうがよっぽど分かりやすい」
ただ、分かっているのはここまでだ。今のルゥルゥは、最終的な答えだけを見て解法を導き出しているにすぎない。
悪魔はプライドが高い。だがヴァリスの呪いは、本来の呪いが失敗した副作用だと言われている。普通なら悪魔はそれを許さない。自分が失敗した事実を知られ、笑われることに耐えられないから。
ならば、この矛盾が成り立っている理由は一つ。
そもそも矛盾ではないのだ。
悪魔は失敗していない。この状況が彼の望みだ。それなら、口さがない人間を殺さない理由も分かる。この場合、何も知らない人間のほうが愚かだと分かるからだ。
見当違いの状況理解でヴァリスを貶め、怯え、悪魔に恐怖しながらヴァリスを傷つける人間。それは悪魔にとって何より甘美な蜜だろう。何も理解していない人間が、なんの罪もない人間を貶める。その人間は追い詰められ、徐々に悪魔に口調すら似て、だが身分ゆえに死ぬこともできない。
悪魔は人の負の感情が何より好みだ。ヴァリスの体の中で悠々と過ごしているだけで愉悦に浸れるのだから、これほど楽しいこともないだろう。
「へえ……お前、今までヴァリスの隣にはいなかったタイプだな。よく婚約者になんてなれたもんだ。こいつの兄貴は許したのか?」
「? 許しがなければ私は今ここにはいませんけれど……」
「ふうん……まあそうだろうな」
何かが引っかかった。ルゥルゥがヴァリスの婚約者としてここにいることに、何か意味があるのか?
「それより、私の質問に答えてくれませんか? あなたが私の婚約者を呪っている理由はなんなのでしょうか?」
「俺がそれを教えたとして、お前はどうする?」
「ヴァリス様に伝えます。あの人が何らかの理由で騙されていたとしたら、許せませんから」
ルゥルゥはド直球に自分のすべきことを答えた。
悪魔に策を弄することに、ルゥルゥはさほど意味を見出さない。彼らは快楽で動く存在なので、こちらがいくら頭を使ったって意味がないことは多い。
「何をしてでも呪いを解く方法を見つけるほうが大事だとは思わねえのか?」
「必ずしも解くだけがヴァリス様を助ける
「鎮石、ねぇ……まあ、見つけられなくはないかもしれねぇが……」
何やら含みのある言葉を残しつつ、悪魔は唇の端を吊り上げる。
「それも無駄だったら? 全てに意味がなかったらどうする気だ? 呪いが絶対に解けないと分かったら、お前はどうする?」
「? どうもしません」
ルゥルゥはきょとんとしながら答えた。
「ヴァリス様の呪いが解けなかったら? その場合は、私が一生隣にいて、ヨルたちの力を借りて破壊衝動を鎮めます。私の血を与えて吸血衝動を抑えます。それだけの話です」
何を当たり前のことを言うのだろうと思ったルゥルゥに、悪魔のほうが虚を衝かれた顔をした。
「? 何かおかしなことを言いましたか?」
「こいつが悪魔憑きだってことを知ってなお、隣にいると?」
「もちろんです。むしろ、命に関わる呪いでなくて安心したくらいです。おそらく、ヴァリス様をより長く苦しめるために、生かさず殺さずの呪いにしたのですよね?」
しばしば悪魔はそういうことをする。愉悦と快楽のために生きる彼らは、人間が生涯をかけて苦しむ姿を見るのが好きなのだ。
悪魔は気色の悪いものを見たような顔をした。
「お前……婚約したら金をもらう約束でもしてんのか?」
「まさか! なんてことを言うのですか」
思わず憤慨した。どうしてそんな話になる。
「ヴァリス様が呪われているから、悪魔憑きだからなんだと? 私はお金をもらうために婚約したわけではありませんし、同じように、悪魔憑きだからとヴァリス様を嫌いになることはありません。ヴァリス様が助けてと仰ったから、呪いをなんとかしようとしているだけです」
ルゥルゥは目を吊り上げて声を張った。
「ヴァリス様の破壊衝動も吸血衝動も私が抑えます。それでもなお彼を貶める方がいるというのなら許しません。ヴァリス様がここまで追い詰められているのは、誰もが持っているはずの心の盾がないからです。誰も、彼に盾を持つことを、剣を持つことを許さなかった! だから、私が盾と剣になるのです」
ルゥルゥはヴァリス・テュシアを楔となした。それは誰にも貶められない、唯一絶対の誓いだ。たとえ同じ呪い渡りに責められたとて、自分はこの誓いを消さないだろう。
全ての者は、ルゥルゥ・クレイディの意志を止める権利を持たない。それが悪魔でも呪いでも同じことだ。自分は、自分が正しいと思った楔のために生きる。
「ヴァリス様が悪魔憑きであることは、私にとって大きな意味を持ちません。呪いなんて、あってもなくてもいいのです。私はヴァリス・テュシア殿下と婚約しているのであって、そこにあなたの存在は欠片だって入る余地がないのですから」
悪魔の甘言は、ルゥルゥにとって意味をなさない。ヴァリスの呪いそれ自体に、彼女が興味を持たないように。
悪魔は驚いたように目を丸くしていたが、唐突に腹を抱えて笑いだした。
「はっ……ははははは! お前、正気か? とうとうこんな女まで現れたか、こいつの人生飽きねぇな。兄じゃねえほうにして良かった」
その言葉にかすかな違和感を覚えたが、ルゥルゥが問う暇もなく、彼は大きく一歩を踏み出した。
がう! と吠えるナツとソラをさっと手で制する。その一瞬で、悪魔はルゥルゥの目の前まで来ていた。
「いいことを教えてやるよ。美味い血と、面白ぇことを聞かせてもらった礼だ――こいつの呪いについて知りたいなら、
ルゥルゥは眉をひそめた。魂呼ばい、だって?
魂呼ばいとは、その名の通り、死者の魂を呼び寄せる行為だ。人は死ぬと魂だけの存在になり、天に昇るとも地の底に沈むとも言われている。だが、どこに行くにせよ、魂が消えるまでには一定の時間がかかる。その状態の魂を人の生きる地に呼び寄せ、話を聞けるのが魂呼ばいだ。
ルゥルゥも母に習ったのでやり方は知っている。だが、一体誰の魂に聞けと?
「まさか、ヴァリス様のお母様……かつての側妃さまですか?」
「は、ちげえよ。あの女は魂呼ばいじゃ呼べねえからな」
「え? それはどういう――」
「聞け、呪いを恐れぬ巫女。お前が呼ぶのはな、このテュシアを建国した当時の王、カクールゴス・テュシアだ」
流石のルゥルゥも仰天した。建国の主を呼ぶ? どうして?
「大体のことはそいつに聞きゃ分かる。魂だけの存在は嘘をつけねぇからな」
「待ってください。どうしてそんなことを? ヴァリス様の呪いと、建国の主になんの関係があるというのですか」
その言葉を待っていたかのように、超然とした笑みが闇に浮かぶ。
「俺は今最高に気分がいいから教えてやるよ。もう少しこいつを苦しめるのも悪くなかったが、お前が踊ってくれんならそれも悪くねぇだろ」
悪魔は赤い目をぎらりと光らせ、ルゥルゥの手首を掴んだ。逃がさないよう、ぎりぎりと音がするほど強く。
「俺の名は、アスタロト。あの愚かで卑怯なカクールゴスによって、この地に封じられたアスタロトだ」
ルゥルゥは息を呑んだ。それは確かに、遠い昔にテュシアを支配し、今は大地深くにその身を封じられているという、悪魔の名前だった。
「俺は告発する。俺は審判を下す。元はそういう悪魔だ。お前は真実を知るといい。その後どうするかは、お前とこいつの理性次第だ。全部見てるぜ、呪いを恐れぬ巫女。鎮石のある場所を知ってなお、お前がこいつの傍にいられるのかをな」
ルゥルゥは目を見張った。
「待ってください、あなたは鎮石の在り処を知っているのですか!? どこに――」
だが、悪魔は笑うばかりで、彼女の問いに答えはしなかった。
「じゃあな、ルゥルゥ。こいつの破壊衝動はしばらく抑えといてやるよ。とうとう俺の一番見たかったものが見られそうなんでな!」
刹那、ふっと糸が切れたかのように、ヴァリスの体から力が抜けた。瞳が閉じられ、体が前のめりに倒れてくる。
いけない!
ルゥルゥは咄嗟に彼の手を引き、大きな体を抱きとめる。重みで自分ごと倒れてしまう前に、傍にあるベッドに二人で倒れこんだ。
ぼすんと音を立て、ベッドは二人の重みを受け止める。ヴァリスは眠っているのか、安らかな呼吸を立てていた。
「な……なんだったんですか……」
色々なことが一気に起こって混乱している。ヴァリスの体に取り憑いているのは本当に、テュシアに封じられている悪魔なのか?
確かに、召喚の儀式ではその地に縁ある者が呼ばれることも多いと聞く。悪魔召喚でも同じかは分からないが、テュシアに縁深い悪魔といえば確かに、この地に封じられたアスタロトしかいないだろう。かつての側妃に喚ばれたのが、かの悪魔でもおかしくはない。
だが、まだ疑問は残る。建国の主を魂呼ばいして、一体どうなるのだろう? ヴァリスの母が彼を呪ってしまったことと、建国の主は関係しているのか?
悶々と考えるルゥルゥの額に、てしっと何かが乗った。目線を上げれば、ヨルの前足が額を叩いている。
「ダメです、ヨル。全く分かりません」
ルゥルゥは諦めの早い女だった。寝転がりながら肩を竦めて、隣で寝息を立てるヴァリスを見る。
「まあ、ヴァリス様が無事だったので、今日のところは良しとしましょうか……」
彼の手に自分の手を重ねて、ルゥルゥも目を閉じた。彼の寝息があまりに安らかで、もう、それだけでいいなと思ったのだ。