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第16話


 清潔な布を水に浸し、だらだらとこぼれている血を丁寧に拭う。あっという間に一枚だめになった。どれくらい、血を流しているのだろう。

 どうにか距離を置こうと、後ろへずりずりと下がる彼の手を掴む。なんだかひどいことをしているみたいだなと思った。普通に手当てしているだけなのに。

「本当に、俺がお前を傷つけたら、どうするつもりだよ……」

「そうならないように、ちゃんと殴ってほしそうな顔をしてくださいね」

「意味が分から……」

 そう言った彼は、ルゥルゥが包帯を切るためのハサミを取り出した瞬間に目を見開いた。

「やめろ!」

「えっ……っ!」

 急に声をかけられ、手元が狂う。切れ味の良いそれが、ルゥルゥの指をすぱりと切る。

 瞬間、ヴァリスの目の色が変わった。

 がっ! と音が出そうなほどの勢いでルゥルゥの手を掴む。先ほど逃げようとしていたのが嘘のような動きで、手が引き寄せられる。驚く間もなかった。

 彼は、ルゥルゥの指先から滴る血を、まるでかじりつくように舐めとったのだ。

「え」

 思わず声を上げた刹那、ヴァリスが弾かれたように顔を上げる。その唇に赤が散っていて、瞳には驚愕が貼り付いていた。がちがちと歯が震える。

 だが、手を離そうとはしない。

 そのまま、長い沈黙がその場を支配した。二人とも何も言えないでいる。部屋の隅にいる獣たちでさえ、首を傾げるばかりだった。

 彼の荒い息だけが部屋に響く。

 ルゥルゥは呆然としながら、おそるおそる尋ねた。

「ヴァリス様……もしかして……私の血が、飲みたいのですか?」

 彼の顔が凄絶に歪む。反射的に離しそうだった手を、今度はルゥルゥのほうから掴み返した。

「それが、悪魔の呪いなのですね?」

「見るな!」

 金切り声が耳をつんざく。彼は必死に髪を振り乱し、血が流れるのも構わずに後ろへ後ずさった。顔をかきむしるように手で覆う。開いた傷口から赤が散る。

「くそ……なんで、こんな……こんな美味いのおかしいだろ、こんな、血が……」

「えっ美味しいんですか!?」

 ルゥルゥは仰天してずいっと顔を寄せた。美味しいのか? 血が?

 ヴァリスは苦々しい顔をしていたが、やがて観念したのかゆっくり頷く。

「……美味い」

「どう、いう反応をしたらいいんでしょうか……ありがとうございます……?」

「俺が知るか……なんでこんなに美味いんだお前……」

「いえ私も分かりませんが……」

 そもそも本当に美味しいのか? と勘ぐる。だって、血である。錆と鉄の味しかしないだろうに。

 だが、彼が絶望まっしぐらみたいな顔をしているので、嘘ではなさそうだった。彼は存外、嘘が下手なので。

「……美味しいのでしたら、もっと飲みますか?」

「は!?」

「いや、ちょっと可愛いなと思って……」

 途端、ヴァリスは化け物でも見るような目でルゥルゥを眺めた。

「てめえ、正気か?」

「失礼ですね! ……えっと、つまり、吸血衝動ということですよね? それでしたら、うちの子の中にも似たような子がいます。生まれつき取り込んだ呪が多すぎて、たまに理性を飛ばして人を食べようとするのですよ。そういう子には、私が血を与えて鎮めていました」

 呪い渡りの一族はみな、大地からの呪にある程度の耐性がある。もしかしたら、血が美味しいというのもそういうことなのかもしれない。不純物のないものは美味しいだろう。

「だから、私なら平気です。うちの子によくやっていますから」

 ヴァリスは唐突に、力が抜けたように肩を落とした。やわく、本当にやわく、ルゥルゥの手を握る。

「……ルゥルゥ、お前、本当にいいのか? これだぞ?」

 彼がぐいと自分の口を開いてみせる。そこには、まるで人を傷つけるためにあると言わんばかりの大きな犬歯が二つ、綺麗に並んでいた。

 よく見れば、彼の瞳孔は猫のように細まっている。手の震えは渇望から来るものだ。息は荒く、ぽたりと涎が落ちた。少しでも気を抜けば理性を壊して襲いかかってきそうだった。

 それでも、ルゥルゥには、目の前のヴァリスがあの夜、泣いていたことしか思い出せない。

「いいですよ。ヴァリス様が本当に私を殺しそうになったら、ちゃんと殴りますし、アイシャも呼びます」

「あれを呼ぶのはやめろ、乱闘になるだろ……」

 呼吸を荒くしながら、彼はルゥルゥの腕を掴んだ。

 腹を決めた顔で、ゆっくりと首元に口を近づける。首を噛まれるのは少し怖いなと思っていたら、服を襟元からびりびりと裂くような音がした。

「え!? 何してるんですか!?」

「は……? 二の腕を噛むんだよ……首なんか噛んだら……いてぇだろうが……」

 ルゥルゥはぽかんとして、吹き出すように笑った。配慮の形がおかしい。

 あっという間に服がはだけられ、腕一本が空気にさらされる。彼はやわい二の腕に口元をうずめ、一息に噛みついた。

「っ!」

 鋭い痛みが腕を突き抜け、雷に打たれたように動けなくなる。だが、痛みはすぐに痺れに変わって、じわじわと何かを引きずりだされるような断続的なものになった。

「……っ、痛いか」

 息継ぎのように彼が聞く。ルゥルゥは笑った。

「ヴァリス様のほうがよっぽど痛そうな顔してますよ」

 彼は顔を歪めて、口を離す。唇には、先ほどよりも派手に赤が散っていた。彼は何かを言おうとして、結局、再び食らいつくように血を飲んだ。

 しばらくして、彼が顔を上げる。茫洋とした瞳にルゥルゥが映っている。

 彼女は首を傾げた。

「もう満足したんですか?」

 彼はその問いかけには答えず、夢を見るようなまなざしで口を開く。

「……小さい頃から、血が飲みたくて飲みたくて仕方がなかった」

 ルゥルゥは反射的に口を閉じた。彼が、ほたほたと降る、雪のような声で言う。

「最初は動物だった。そこらの野良猫なんかを探し回って、日がな一日血を食らっているような子供だった。それだけでもおぞましいのに、そのうち動物じゃ足りなくなった。人の血が欲しくて……」

 ヴァリスに腕をぐいと引かれる。次の瞬間にはもう、自分の体はすっぽりと彼の腕の中に収まっていた。

「なあ、俺はいつになったら、普通になれんだ」

「……普通に?」

「そうだ。俺は……俺が、生まれてきたこと自体、国に対する不義なんだとよ。始めての侍従は、悪魔に支配される己の心を恥じろと言った。家庭教師は、決して自分を『救われてもいい存在』なんて思うなと言った。破壊衝動も、吸血衝動も、全部、俺が悪魔に負けた証明なんだよ。俺が悪魔に屈するたびに誰も彼も俺を責めた。当然だ、俺は普通じゃない。それでも……当然のことでも……毎日毎日同じこと言われてりゃ、頭がおかしくもなる」

 彼はルゥルゥを抱きしめたまま、その髪を梳き始めた。言葉とは裏腹に、ひどく柔らかな手つきだった。

「耐えろと言われた。屈するなと言われた。悪魔がその身にいる限り、光の下での幸せなど考えてはいけない。罪を償えと……罪ってなんだよ。俺は、好きで悪魔に取り憑かれてるわけじゃねえ。だけど、俺の破壊衝動のせいで、誰かが傷つくのは事実だ。何をしても駄目だったが、何もしないことも許されなかった」

 彼はぼんやりとしたまなざしで、まだ残っている白い布を手に取った。そのままルゥルゥの二の腕に当て、止血を施す。自分の怪我だって、まだ血が完全に止まってはいないのに。

「血に飢えて、死にそうなくらいになったところで、兄貴がナギを持ってきた。あいつは外の国の、呪い憑きの家系でな。口減らしに奴隷にされたのを、俺の『餌』にちょうどいいと思って連れてきたらしい……兄貴も大概ネジ外れてんだよ。まあ、だが、呪い憑きの血だからなのか、うまく飲めなかったな。一口で吐いた」

 想像もしていなかったヴァリスの従者の話を聞き、ルゥルゥは目を見張る。

 呪い憑き――自身の身のうちに呪いそのものを宿し、必要とあらば主人のために力を存分に振るう一族だ。解呪師や呪い渡りよりも、ルゥルゥの愛する獣たちに近い存在でもある。

 便利なように見えるが、そう単純なものでもない。最終的に、自らの呪いに食われて死ぬ者も少なくないという。

「それからはずっと、あのボンクラ解呪師に言われて動物の血を飲んでる。鶏だの豚だの……たまに牛もあるか」

「お肉食べてるみたいですね」

「お前、もう少し緊張感っつーもんはねえのか」

 首元に顔をうずめられ、ルゥルゥは少し笑う。くすぐったかった。

「怖くねえのか。今すぐにでも、俺はお前の喉を噛みきれる」

「おかしなことを言いますね」

 ルゥルゥは鈴の鳴るような声で笑った。

 そもそも、ヴァリスは王子だ。王族以外に、彼の命令に逆らえる人間はいない。血を飲みたいのなら、ルゥルゥに了承を取る必要などないのだ。ただ命じるだけでよかった。

 それなのにこの人は、まるで懇願するようにルゥルゥに縋っている。

 彼の手が震えている。首に押しつけられた唇が冷たい。

 自分が命じた先に、相手の心がないと知っている人の温度だった。赤子のころから祝福の代わりに怯えと恐怖を投げつけられ、人として当たり前の尊厳を削られて、それなのに、ぽんと奴隷を手渡されるような立場にある人だ。

 人を壊してもなお許される立場に生まれてしまったのは、果たして彼にとっての幸福だろうか。

 自分の心に少しずつヒビを入れられながら、生きるために他人を壊すことを強要されて。まっすぐに生きることなどできただろうか。彼にそれを許した人がいただろうか。

 こんなに近くで、彼の鼓動を聞いた人は、いただろうか?

 ルゥルゥはそっとヴァリスの頭を抱えこんだ。

「ヴァリス様、好きなだけ飲んでいいですよ。私が許します」

 ヴァリスが一瞬息を止めて、首元で軽く笑う。息すら冷たく感じられた。

「はは……お前、立場分かって言ってんのか? また兄貴に不敬だとか言われるぞ」

「ヴァリス様以外誰も聞いていないのなら、何も言わなかったのと同じでしょう。ヴァリス様さえ黙っていてくださればいい話です」

「王子に対してすげえこと言うな、お前……」

 ルゥルゥは首を傾げた。

「だって、私はヴァリス様の婚約者ですから。ヴァリス様の家族以外で唯一、あなたに意見ができる存在のはずです」

 だから、と呟く。

「ヴァリス様も、私に『命令』じゃなく『頼み事』をしていいんですよ」

 彼の吸い込んだ息が、喉の奥でついえる音がした。言葉が消える。沈黙が下りる。

 気の遠くなりそうなほどの静けさを経て、彼がようやく口を開いた。

「血を……飲ませてくれ。頼む。俺がこれ以上、正気じゃなくなる前に……」

「いいですよ」

 即答だった。

 もぞもぞと体を動かして、噛みつきやすいように腕をずいと差し出す。

「遠慮なくどうぞ。私、体は丈夫に産んでもらったんです」

「はは……」

 すり、と首の後ろをなぞられた。くすぐったさに目を細めた途端、ぐんと腕を引かれて、気づけば視界が回っていた。踊るように彼の手が動いて、ルゥルゥの片手を握り、首の裏を支える。

 そのまま柔らかくベッドの上で押し倒され、ルゥルゥはぱちりと瞬いた。

「こっちのほうが飲みやすい」

 頬をこするように撫でられる。目には相変わらず獣のような光があったが、何も怖くはなかった。じっとこちらを見つめる視線は、ルゥルゥが痛みに苦しまないか、それだけを気にしている。

 彼が優しいことを知っている。自分のことよりも、咄嗟に他人を優先してしまう人だと知っている。

 だから、恐ろしさなんて微塵も感じないのだった。

 彼の牙が再び肌に吸いこまれる。ぷつりと浅く切れた肌から、血がゆっくりと吸い出される。髪を撫でられ、指が絡められた。

 ややあって、彼がふっと顔を上げる。

「……眠いな……」

「え」

 見れば、彼の瞳はとろりと溶けて、またたびを嗅がされた猫のようになっていた。

 もしかして、酔っている……? え、この状況で?

「……ダメだ。ルゥルゥ、俺は寝る……」

「えっ、ちょっと待っ……」

 彼の体重が一気にのしかかり、ルゥルゥは微妙に恐怖を覚えた。血を吸われていても何も恐ろしくなかったが、潰されるのは普通に怖い。

 しかし、咄嗟に両腕を掲げたルゥルゥを避けるように、ヴァリスはばたりと彼女の真横に倒れこんだ。何度も瞬きをして、どうにか眠気を払おうとしている。

「ああ、これは、本当にダメだな……寝る」

「そんな冷静に眠気を分析しなくても」

「ルゥルゥ、聞け……」

 この人全然話聞いてないな……と呆れていると、ヴァリスはぼんやりとした瞳を二、三度瞬かせて言った。

「俺の目が覚めた後、俺の様子がおかしかったら……遠慮なく……俺を、殴れ……」

「えっ?」

 緩やかに髪を梳かれる。言葉の意味を尋ねる暇もなく、彼の目は閉じられた。

「躊躇……するなよ……」

「え、あの、ヴァリス様……」

 困惑して声をかけるが、次に聞こえてきたのは健やかな寝息だった。寝つきが良すぎる。

 ルゥルゥは黙って、ヴァリスの穏やかな寝顔を覗きこんだ。悪魔に取り憑かれているとは思えないくらい幼い顔だ。まだ掴まれたままの腕も温かい。間違いなく人の体温だ。

 そっと前髪をどかすと、血が固まりかけている傷口が見えた。ルゥルゥは彼を起こさないようにそっと体を動かし、近くにあった布を少し濡らして彼の傷口に当てる。片手は掴まれているので包帯を巻くのは無理だが、ガーゼは当てるべきだろう。

 なんとか傷をガーゼで覆った後で、彼の隣にぱたりと寝そべる。……暇だ。

「……私も寝ますか」

 まだよく分からないこともあるが、ルゥルゥは元々、無駄に悩まない人間だった。

「何かあったら起こしてくださいね、ヨル……」

 愛しい獣に呼びかける。みぁう、という声が帰ってきて、ルゥルゥは満足気に目を閉じた。



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