「え……っ?」
間抜けな声が出たのと同時に、頬にびしゃりと生暖かいものが散る。ヴァリスの頭がぐらりと揺れた。
彼の体が傾ぐのが、ひどくゆっくりに見えた。
「……っ!」
「ヴァリス様!」
咄嗟に無理やり腕を動かし、彼の体を支える。勢い余ってしがみつくような形になってしまったが、それどころではない。
彼のこめかみから、だらだらと血が流れている。抉るようにつけられた傷は男の爪によるものだ。
かっと頭に血が上る。目の前が真っ赤に染まって、男のほうへぐるんと振り向いた。
「お前、何をっ……!」
咄嗟に詰りそうになったのをすんでのところで堪える。落ち着け。言葉でどうにかなるようなものではないし、優先すべきはヴァリスだ。
「くそ……っ、目に血が……!」
「ヴァリス様、落ち着いてください! ……どなたか、手を! そちらの方を押さえて、ヴァリス様から引きはな……」
だが、顔を上げたルゥルゥはぽかんと口を開けた。
解呪師たちがみな、顔を蒼白に染めてこちらを見ている。彼らの視線は明確にヴァリスへ向いていた。怯えと苛立ちの混じった顔で、彼の傷を凝視している。
「何をしているのですか! 手を貸してください!」
思わず叫んだ瞬間、近くにいた解呪師が弾かれたように動いた。
「ありったけの鎖持ってこい! 患者の解呪は後だ! 殿下を拘束する!」
「は……!?」
ぎょっとする。今、なんと言った?
「殿下の血は穢れだ! 血を流した殿下に触れるなよ、二等以下の解呪師は離れろ! 患者を押さえておけ!」
「呪い渡りの巫女さま、お早く!」
近くにいた若い解呪師の一人がぐいとルゥルゥの腕を引く。彼の顔も真っ青だった。
「血を流した殿下には誰も触れてはならないことになっています! とんでもないことになるからと……! 殿下が怪我をした際には拘束の許可も出ているんです!」
「は……?」
ルゥルゥは笑ってしまいそうだった。およそ怪我人に対する処置とは思えない。だが、彼の顔は真剣そのものだ。
わけのわからない絶望が、ゆっくりと這い上がってくる。
「血は最もよく呪いに使われる媒介です。おそらく、悪魔が乗り移る危険が高いのでしょう……! この場で最も危ない存在が殿下なのです! 離れてください、お早く!」
気づけば、暴れていた男は再び何人もの解呪師に拘束されていた。ヴァリスがこれ以上傷つくことはなさそうだと、頭の片隅で理性が呟く。
だが、安堵の裏で、頭の奥をがんがんと殴られているような痛みがある。
ヴァリスを見る。ひどい怪我だ。額からこめかみにかけて、獣の爪で抉られたような傷が三本。血は瞳に流れこみ、あまり見えていないのだろう。焦点が合わない。
傷が熱を持ち、息は荒く、びっしりと冷や汗をかいている。
すぐに分かった。彼が攻撃を避けなかったのは、近くに無防備なルゥルゥがいたからだ。
血が媒介になる? 確かにそうだ、悪魔にだって意思があるのだから、血を利用するかもしれない。ヴァリスは危ない存在? 悪魔憑きが正常な存在ではないことは確かだ。
だから?
人を庇って怪我をしているのに、その怪我をかえりみられる権利すら、この人にはないのか?
「……いいえ」
ルゥルゥは煮えたぎる意思のもと、自分の心に忠実に言葉を発した。
「ヴァリス様は怪我をしています。一刻も早く手当てをしなければいけません」
「巫女さま!」
「拘束するなら私と共にすればいい!」
一瞬、誰もが動きを止めた。驚愕の視線が己を貫くのを感じながら、ルゥルゥは痛みに喉を震わせた。
「悪魔が乗り移るという証拠は? 血を流したヴァリス様が危ないというのは誰が仰ったのですか? 呪いがそんなに恐ろしいものですか? 私を庇って怪我をしたこの人を、あまつさえ拘束しなければならないほどに!?」
抱え込む腕に力をこめる。傷に触れないよう、慎重に彼を支えた。
ぼたぼたと床に血がこぼれていく。ああ、ダメだ、早く手当てをしないと。早く。
「呪いは解けるものです。自らを侵した呪と共に生きていく獣だっています。でも、命と心はっ……こぼれ落ちたら元には戻らない!」
そんなに簡単なことが、どうして誰も分からないのか。どうして誰も彼も、この人を壊そうとするのか。
ルゥルゥには分からない。分からないのは、自分が呪い渡りとして未熟だからだろうか?
母がここにいたら、答えを教えてくれただろうか?
「はいは〜い、なんの騒ぎ?」
奇妙に気の抜けた声がその場に割りこんだ。ぱっと顔を上げる。
「長!」「長、殿下が!」「拘束具を、長!」
叫ぶ解呪師をさっと手で制し、ヘクトルは状況を把握するためか辺りを見回した。最後にヴァリスを見る。
いつも飄々としている顔がわずかに固くなり、ルゥルゥの腕を掴む。
「ご令嬢、離れてくれませんかね」
「嫌です」
ルゥルゥは即答した。ヘクトルは困ったように眉を寄せる。
「本当に危ないんですよ、血を流してる殿下っていうのは」
「私はヴァリス様の手の怪我を手当てしたことがあります。問題ありません」
きっぱりと告げると、解呪師の中から悲鳴のような声が上がった。信じられないと言わんばかりの彼らを思わず睨みつける。何が不満だ。人の怪我を手当てすることの、彼の怪我を案じることの、一体何が。
ヘクトルは首を横に振った。ルゥルゥに顔を近づけ、囁くように言う。
「頭や心臓から遠い位置の傷なら多少は問題ありませんがね。顔はダメです、本当にまずい」
「……?」
どういうことかと考え、ルゥルゥは咄嗟にぴんときた。
「……怪我をしたヴァリス様への拘束許可を出したのはあなたですか?」
無言は肯定の証だった。かっと膨れ上がった怒りが、ルゥルゥの瞳の奥で燃える。新緑が、ぞっとするような
「何故? あなたはヴァリス様を信頼してくださっているのだと思っていました。この方を一人の人間として尊重しているのだと。悪魔憑きだろうと、呪いの力を使おうと、技術を
「ルゥルゥ、やめろ……」
はっと言葉を止める。見上げた先、ヴァリスが掠れた声で呻いた。
「俺が頼んだんだよ……そっちのほうが手っ取り早いだろ……」
「……何、が」
「くそ、いてぇな……血は、ダメなんだよ。流れる感覚が、もう全部ダメだ。出てくる……」
「出てくる?」
何が?
怪訝な顔をしたルゥルゥを見下ろし、ヴァリスは荒く息をついた。首筋に鳥肌が立っている。
「離せ……休めば、なんとかなる……」
離せと言うくせに、肩に回された手はしがみつくようにルゥルゥを抱き寄せようとする。
ヴァリスは顔をしかめてどうにか離れようとした。まるで体が制御できないかのような動きに、ルゥルゥは不意に察する。呪いが強まっているのだ。
また、破壊衝動に襲われているのだろうか? 不定期に発症するものだと思っていたが、血を流すことによっても発症するのか?
それとも。
「離れろ、ルゥルゥ……」
「……いいえ」
「ルゥルゥ!」
「嫌です。私、あなたを一人にしないと約束しました」
彼に肩を貸しながら、ゆっくりと部屋の扉に向かって歩く。険しい顔をしたヘクトルをちらりと見上げた。
「空いている部屋を貸してください。鍵をかけていただいて構いません。ヴァリス様の手当ては私がします。もし破壊衝動がまた強まっても問題ありません。ナツもソラもヨルも呼び戻しますし」
「そういう……問題じゃねえ……」
「ヴァリス様、私に隠していることがありますよね」
唐突に、ルゥルゥはそう言った。ヴァリスと目を合わせ、声をひそめながら呟く。
「おそらく、悪魔憑きの症状、破壊衝動だけではないんでしょう。そうですよね? あのときも、私が手当てしている間、もしかして必死に耐えていたのですか? 今苦しんでいるのも、そのせいなのですか?」
「あのだのそのだの分かりづれぇな……」
「私にも、言えないようなことなのですか?」
まっすぐに見上げた瞳は、夜と月の色をしている。今は片目を手で押さえているから、月が、半分見えない。
それが、何故だかひどく辛かった。こんなにも美しいのに、それが彼の呪いの証であることも、それらが、彼をさいなむ刃であることも。
分けてほしかった。伝えてほしかった。慟哭も、怒りも、焦燥も、涙も。
一人で泣いてほしくないだけなのに、それがこんなにも遠い。
ヴァリスがぐしゃりと顔を歪める。肩に回された腕に力が籠った。
「お前だから、言いたくねぇんだよ……」
「え?」
「お前まで、いなくなったら、俺は……」
ぽかんと口を開ける。
それ、は。
「ご令嬢、殿下のこと殴れます?」
突如、ヘクトルが顎に手を当てて言った。
「え」
「いや、多分あなたに何かあった場合に気を揉むのは殿下なんで、ちょっと確認をね。殿下のこと殴れます?」
「なぐ……」
なんてことを言うのだと思ったが、存外彼の瞳は真剣だ。訳が分からないまま、ルゥルゥは曖昧に頷いた。
「……必要なら、私は呪われた人でもなぐ……るかは分かりませんが、気絶くらいはさせます。ナツもソラもいてくれますし、いざとなったらアイシャを呼びますので」
「あいつ呼ばれたら、俺は殺されんだろ……」
「ヴァリス様を殺したら私がアイシャを許しませんから。それはしないと思います」
はっきりと言う。どこかで聞いているだろうアイシャに届くように。
「私が殿下を殴れるなら、殿下を手当てしても構わないのですね?」
すさまじく矛盾だらけな問いかけの気もするが、ヘクトルは「まあいいか」と頷いた。今度はヴァリスが仰天する。
「おい、ヘクトル、おまえ……」
「殿下もそろそろ観念したらいいんですよ。どうせこの先一緒にいるなら隠し通せることでもないでしょうし」
「ヘクトル……っ!」
思わず叫びかけたヴァリスは、傷の痛みに顔をしかめる。
「ほら、早く手当てしたほうがいいですよ。部屋なら殿下の働きのおかげで一個空いてますんで」
結局、ヴァリスはルゥルゥとヘクトルにひきずられるような形で別の部屋に案内された。元は患者用の個室だったのだろうそこは、薬品の匂いが広がっている。
ヘクトルはルゥルゥの申し出に忠実に従った。ルゥルゥの愛する獣を三匹部屋に入れたのち、容赦なく鍵をかけていったのだ。
「馬鹿が……!」
「いいから早く座ってください、血がこれ以上流れては危険です」
呼吸の荒いヴァリスを無理やりベッドに座らせる。清潔な布で血を拭いはじめたルゥルゥの前で、彼はぶるぶると手を震わせた。彼の意思とは関係なく動くそれを冷静に見つめて、口を開く。
「私に何かあった場合、ヴァリス様が気を揉むとヘクトルさんは仰ってましたが……それはつまり、ヴァリス様が私を害する可能性があるということですよね」
だが、破壊衝動とは違うのだろう。悪魔憑きの症状が他にあるのだ。
それを、彼は自分に隠している。
「でも、そうなったらちゃんと殴るので大丈夫ですよ」
「本気で言ってんのかお前……」
もちろんだと頷いた。ルゥルゥは基本的に、本気でなかったときのほうが少ない。