「俺の母親は頭がおかしかったんだよ」
呪い
「国母にもなれず、せっかくの世継ぎも正妻に先を越されて第二王子になっちまった。いっそ、年が離れてりゃこんなことにもならなかったんだろうが、半年の差じゃあな……諦めきれずに禁書に手を出して、結果がコレだ」
黒く染まった目を指さして、彼は皮肉の詰まった顔で笑った。
「俺をどうしたかったのかは知らねえ。ただ兄貴を殺したかったんだろ。結果的に俺は死にかけて、兄貴はもちろん死ななかった。その後母親は死んだらしいとは聞いたが……どういうふうに死んだのかは、俺もよく知らねえ。悪魔召喚の代償で死んだとか、狂い果てて自害したとか、色々聞いたが、誰の言うことも信用できなかった」
つらつらと語って、いっときこちらを見上げてくる。
「お前は、信用に足る人間か?」
「……お母様は、信頼はその身で示せと言っていました。呪い渡りはどこに行っても『余所者』で、警戒されるのは当たり前のことなのです。だから、力を示し、呪い渡りとしての仕事を全うしなさいと。そうすれば、信頼は後からついてくるのですって」
ルゥルゥは頭の上に乗っている黒猫を撫でた。小さな姿に再び「変わって」もらったヨルだ。
「そのためにも、今は何が起こっているのか、確かめに行きましょう」
「……まあいい。少なくとも、おべんちゃら使われるよりはマシだ」
彼は歪んだ笑みを浮かべて、ふっとルゥルゥに視線を戻した。
「そういやお前、あの狂犬女は置いてきていいのか」
「アイシャですか? 置いてきていませんよ。多分どこかから付いてきてます」
「は?」
「アイシャは私が呼んだらすぐ来れるように、大体いつもそばにいるんです。正確にどこにいるか、は分からないのですが」
「正気か? ナギみたいなことするやつだな」
ルゥルゥはぱちぱちと目を瞬いた。あまり聞かない反応だった。彼は自分がどんな発言をしたのか気づいていないらしく、半眼で呟く。
「あいつは怖いぞ。気づいたら後ろにいる。俺がそこの猫野郎と戦ってるときも木陰から見てた」
「まあ、そうなのですか? アイシャも木の上から見ていたと思います。多分」
「……どうなってんだ俺らの護衛は」
「私たちが愛されているということでは?」
思ったことをそのまま口にすると、彼は変なものを見るときの目でルゥルゥを見た。
「仲が良いですねえ、何よりですけど。ほら、着きましたよ」
呪い解きの館は、ヴァリスが住んでいる別棟とやや似た造りをしていた。そもそもあの別棟は呪い解きの館の一部だったものらしいので、納得である。
ここまで一緒に来ていた解呪師の青年は、相変わらず怯えながらヴァリスをちらちらと見ていたが、館に入るなり「手伝いに行ってきます!」と叫んで飛び出していった。
逃げたな、とヴァリスが呟く。
ヘクトルがやれやれと肩を竦めた。
「耐性がない子で悪いですね。今年に解呪師になったばかりの新人なもんで」
「いい、もう慣れた」
暗い声で彼が言う。ルゥルゥは思わず口を開きかけたが、ぐっと唇を噛み締めて耐えた。今必要なのは慰めではない。
「行きましょう、ヴァリス様。ヘクトルさん、呪に侵された人たちはどこにいらっしゃいますか?」
「はいはい、こっちですよ」
言いながら、ヘクトルは館の奥に進んでいく。通りすがりの解呪師たちが反射的に頭を下げかけて、ヴァリスに気づいてぎょっとした。
「な、何故殿下が……」
「馬鹿、目を合わせるな……! 悪魔は好みの人間に乗り移る場合があると言うだろうが」
声をひそめているつもりだろうが、ばっちり聞こえている。ルゥルゥは咄嗟にむっとしたが、当の本人は何も反応しない。不意に彼らへ暗い目を向けては、ふいと逸らすばかりだ。
「そういや殿下、どれくらいの呪いまでだったら相殺できるんです?」
「試したことがないからよくは知らねえが、相殺できなかった呪いは今までにない」
当たり前のような呟きに、ヘクトルはひゅうと口笛を鳴らす。ルゥルゥも頷いた。
「ヴァリス様の呪いの腕は相当なものです。相手が人としての形を少しでも保っているなら、大方を相殺できるのではありませんか?」
「そりゃ助かります。んじゃ、とりあえず一番ヤバいとこから行きますかね」
ヤバいとこ? と首を傾げたルゥルゥの前で、ヘクトルは不意に館の一番奥まった場所まで来ると、そこにあった扉を躊躇なく開けた。
刹那。
「ヴァアアアアアアッ!」
獣のような声が響き、空気がびりびりと震える。思わず首をすくめると、その部屋の異常さが視界に飛びこんできた。
まず目に入るのは並べられた十数個のベッドと、これでもかとひしめく何人もの解呪師だ。ベッドにはそれぞれに人が横たわっており、一人の患者につき三、四人ほどの解呪師たちが束になって彼らを押さえ込んでいた。
患者たちの目には既に理性がない。ぎらぎらと獣のような目をしているものもいれば、すっかり白目を剥いた状態で両腕を振り回している者もいる。爪は鋭く変質し、牙が生え、涎をだらだらと零している。顔にも腕にも血管が浮き上がり、鼓動に合わせて脈打っていた。
「先輩、もう保ちません!」
「もう少し耐えろ! 解呪の術ができあがる!」
「こっち効いてません! あと十数秒で鎖が切れます!」
「鎮静剤はもうないのか!? クソ、非番の一級解呪師も招集かけろ!」
「もっと布持ってこい! 患者が舌を噛む!」
「おーおー、相変わらず修羅場だねえ」
のんびりとヘクトルが言うが、修羅場なんてものではない。本当にぎりぎりで保っているのだろう。少しでも気を抜いたら誰かが死ぬ、と解呪師たちの顔に書いてある。
「お、長! ようやくお戻りに……っ!?」
解呪師の一人が顔を輝かせ、ヴァリスに気づいてぎょっとのけぞった。瞳にありありと恐怖を浮かべる。
「ど、どうして殿下がここに……!」
その言葉に、周りの解呪師たちも次々に怯えの声を上げた。
「殿下!?」「殿下だって?」「本当だ、悪魔憑きの……!」「館には来ないはずじゃ……!」
彼らは反射的に距離を取ろうとして、目の前の患者を思い出して慌てて押さえつける。その繰り返しだった。扉に近い解呪師などもう涙目だ。患者を放っておけない気持ちと逃げたい気持ちで板挟みになっているのか、がたがたと震えている。
ルゥルゥは唖然とした。悪魔憑きは確かに恐ろしい呪いだ。悪魔によって症状が異なるため対策も取れないし、どういう条件で悪魔憑きになるのかは不明点が多い。そもそも呪いが伝染るかどうかも悪魔の種類で変わる。悪魔憑きが現れたら即座に殺すと定められてきる地域すらあると聞く。
だが、怯えるばかりでは呪いは解けない。ましてやここにいるのは国の中でも精鋭の解呪師たちで、ヴァリスは、解呪師や呪い渡りにとっては患者のはずだ。だのに、呪いに精通しているはずの解呪師たちですらこの有様で。
「殿下の目を見るな……! 悪魔が乗り移らないという保証はない!」
生まれてからずっと、この扱いだったのなら。
彼と目を合わせてくれる存在など、本当にどこにもいなかったのではないか。
反射的に見上げた先、ヴァリスは怒るでもなく詰るでもなく、ただ死んだような目で彼らを見渡していた。もうそこに解呪師への感情などないのかもしれない。ただ、無機質に患者たちを見ている。
目の奥にほとばしるような焔を感じた。訳もなく怒鳴りつけたくなって、ぐっと腹に力をこめて押さえる。今は違う、今は。
今は。
「ヨル、ナツ、ソラ、ツクシ、アケビ、ユズリハ」
愛しい獣たちの名を呼ぶ。侍るように出てきた彼らに、解呪師たちがさらに目を丸くした。
「特に呪に侵された人たちへついてください。お前たちに呪いを渡らせます」
彼らは躊躇なく飛び出していく。患者たちの足にすりより、腹の上に乗り、首に巻きつき、そうして準備は整った。
「サラ、他の子たちを呼んできてくれますか? おそらく手が足りなくなります」
可愛らしいリスはルゥルゥの頬に体をすりつけると、窓からひょいっと外に出た。
もう慣れたものだ。知識は母から教わった。力は彼らと育んだ。使いどころを間違えたりはしないし、躊躇もない。
「
紡ぐ言葉に力を乗せる。指先を揃えて患者たちに向ける。ぼう、と、獣たちの体が光った。
「踊り見よ 毒の海にて
ルゥルゥのそばに影が舞う。ゆらりと揺れる手に、いつの間にか指輪がつけられていた。金と銀で作られたそれは、人差し指と小指に嵌められ、二つを鎖が繋いでいる。
その指輪に、円を描くように灰色の影がまとわりついていた。誰もが息を詰めて彼女を見る。黒は呪の色、白は解呪の色だ。ならば、これは?
刹那、少女はくるりと手首を回し、影を掴んだ。
仄暗く伏せられていた瞳が、白夜のように煌めいた。
「
瞬間、最も大きく暴れていた患者たちががくんと震えた。その喉から、腹から、足から、腕から、獣たちが触れている部分から、瘴気のような黒いもやが舞い散り始める。獣たちはじっと黙って、その身に黒い瘴気を受け続けた。
「ヴァリス様、今です、呪いの相殺を……」
頭上を振り仰いだ先、じっとこちらを見つめる目と視線が合った。瞬きもせずに見られているとは思わなかったので、思わず言葉に詰まる。彼の瞳にはもう影はなく、ただ貪欲な知識欲と好奇心が輝いている。
「お前今、何やった?」
「あの子たちに呪を渡らせています。彼らは元より呪に侵されながら生きていますから、普通の動物よりも耐性があるのです。とはいえ長くは保ちません。今のうちに相殺してください、ヴァリス様」
ルゥルゥは端的に、素早く事実だけを伝えた。
彼の瞳はルゥルゥを見ているようで見ていない。きっと頭の中で、ルゥルゥがやったことを凄まじい勢いで分析しているのだろう。
「ヴァリス様、早くしてください。あの子たちの努力を無にしたら、たとえヴァリス様でも許しませんよ」
「……俺の呪いが暴れ出すぞ」
「私が半分ほど引き受ければ済む話です。ヴァリス様に触れていれば、あなたの内に巣食う呪いを少しばかり、私に渡らせるくらいはできます」
ヴァリスと繋いでいる手を掲げる。周りの解呪師たちがあんぐりと顎を落とした。
彼は茫洋とした瞳で部屋を見渡すと、患者たちを順繰りに見やって呟く。
「数が多いな……」
そう言うと、緩慢な動きでもう片方の腕を持ち上げ、躊躇なく親指を噛み切った。
そのまま座りこみ、血で床に何やら複雑な陣を描き始めた。なんの道具もないのに、すらすらと直線や正円を描いている。
できあがった陣の中心に手を置くと、彼は一言、解呪師たちに向けて言い放つ。
「動くなよ、動いたらお前たちに呪いが飛ぶぞ」
「ひっ……! の、呪いがっ!?」
「う、動くなお前たち! あの陣は遠距離型の呪いに使うものだ!」
彼らが一人残らず硬直した途端、患者たちが我先にと暴れ出した。
「うるせえな……」
顔をしかめたヴァリスの低い声が響く。
「紅より赤く、暮れ時に鳴け……」
途端、陣が黒く光り出し、床を何本もの黒い線が走った。線は縦横無尽に床を駆け抜け、一つ一つが患者のベッドの下までたどり着く。
「血に紡がれしは毒茨!」
どん! と部屋の床全体が震えた。瞬間、ベッドの下から黒い剣のようなものが現れ、患者ごと刺し貫く。
「ギィァッ!」
「ヴァァアアアアアゥッ!」
「ガアアッ!」
凄まじい悲鳴に、解呪師の一人が顔色を変えた。
「殿下、何を……!」
「動くんじゃねえ!」
ヴァリスの声が鋭く響く。彼の額には既に脂汗が滲み、ルゥルゥもあまりの呪いの強さに膝を折る。何もしていないのに、呪いで体が押しつぶされそうだ。
彼の呪いが強いということは、それだけ、患者たちも相当な濃さの呪に侵されていたということだ。
血の匂いが濃くなる。ヴァリスはぎちぎちと手を握りしめてくる。意外と容赦がない。
「
歌うように唱える。繋いだヴァリスの手を、自らの額に当てる。流れこんできた呪の量にぐらりと脳が揺れた。
だがそのとき、不意に患者たちが大人しくなった。正確には、がくがくと痙攣し始めたのだ。解呪師たちが何事かと辺りを見回す。
瞬間、何かがばちんと弾けるような音がして、ヴァリスが勢いよく仰け反った。
「っ、ヴァリス様!」
思わず支えようとしたルゥルゥの腕が強く引かれる。バランスを崩し、支えるどころか彼の胸に突っ込むような形になった。
だが、ヴァリスはだんっと後ろ手を突いて体を支えると、ルゥルゥを強く抱きしめる。
「……っ? ヴァ、ヴァリス様?」
「っ、はは、は、はははは……」
見れば、彼は鼻血を出しながら頭上を仰いでいた。視線の先にはヘクトルがいる。
「後はなんとかしとけ、ぼんくら解呪師……」
ヴァリスの瞳がぐるりと回り、その場にばったりと倒れこんだ。自動的にルゥルゥもそのまま倒れる形になる。
「ヴァリス様、ヴァリス様!? ち、力強……」
気絶しているというのに、凄まじい力だ。離れられない。
「はいはい、あとはこっちのお仕事ですね」
ヘクトルが肩を竦めて、自分のローブをばさりと払った。
裏地を見てルゥルゥは目をしばたいた。そこには何本もの銀の鎖がしまわれていて、彼は束になったそれを引っつかみ、患者たちへばらばらと投げる。鎖は意志を持ったように動き、ベッドごと、患者にぐるりと巻きついた。
彼は懐から細い葉巻のようなものを取り出し、鮮やかに火をつけた。細く、紫色の煙がたなびく。
「天におわす神よ聞け。この日この時、知と理を統べ、自らを指し示す者よ、聞け! 御身に捧げる
解呪師たちが一斉にはっとした顔で、その場に跪いた。祈るような姿勢で指を組み、一斉に声を揃えて叫んだ。
「疾く、疾くしろしめせ!」
途端、患者たちの震えがすうっと止まる。叫び声も暴れる音も止み、鎖が巻きついたまま、穏やかな寝息を立て始めた。
気が抜けたのか、何人かの解呪師が床にへたりこんだ。
「お、長。患者たちの、呪いは……」
「ちゃんと見てないけど、収まったんじゃないの? もしかしたらちょい暴れる人もいるかもだけど、君らも感覚で分かるでしょ。大体は相殺されてるよ。殿下に感謝しなね」
彼らは倒れたヴァリスを呆然と見る。ルゥルゥはというと、ようやく腕から逃れて彼の顔をのぞきこんでいるところだった。
息はしている。脈も正常。本当にただ気絶しているだけのようだ。
崩れ落ちるように安堵して、思わず深く息を吐いた。
呪いをかけるのと解くのは、実は前者のほうが体力を消耗する。解呪は基本、道具や神降ろしで外からの力を頼るが、呪いは純粋にかける者の力量だけが問われるからだ。