とりあえず、ルゥルゥはぐっと両の拳を握って胸の前で掲げた。
「大丈夫です。私はヴァリス様が好きなので」
「はっ!?」
「それより兵士の人について聞きたいのです。脱走と言ってましたが、隔離でもしていたのですか? どのような呪いをかけられていたのですか?」
「そりゃ俺も聞きてぇな。わざわざ俺が呪いで相殺してやらなきゃ、俺たちが死ぬとこだったんだが?」
せせら笑うようなヴァリスの声に、解呪師である彼はひぃっと声を上げて平伏した。
「もっ、申し訳ありません! か、解呪師のほうでも調査を進めているんですが、あの、そのっ、手が全然、足りてなくてっ! たまにこうやって脱走しちゃう人が……あっ違います! すみません! 言い訳じゃないんです! 鞭で打たないでください! すみません! 人手不足ですみません! 僕は解呪師の中でもクズですぅ!」
異常な怯えようである。ヴァリスが声をかけるたびに震えているし過剰に謝っているし被害妄想がすごい。これは話を聞くのにも骨が折れそうだな……と思ったときだった。
「ちょっと何やってんの〜? ていうか何この人だかり。脱走患者一人連れて帰るのにどんだけ時間かかってんだろうと思ったら……」
人の波をかき分けるようにして、不意に一人の青年が歩いてきた。否、どちらかといえば中年に近い見た目をしている。彼も藍色と黒を基調にしたローブを着ているが、裾に銀糸の刺繍がある。ちなみにすさまじく着崩していた。
だらしない雰囲気をまとった男は、腰を抜かした解呪師と倒れた兵士を見るなり、長いため息をついた。
「ああなんだ、ここにいたわけ。新人くんさぁ、ダメじゃん目を離しちゃ。患者とはいえ、呪われた人間に理性なんてないんだって、試験通ったなら分かるでしょ。ベッドに縛り付けるくらいはしとかないと」
いきなりやってきて何やら物騒なことを言っている。かと思えば、彼はヴァリスとアルクトスを見てひょいっと眉を上げた。
「あれ、殿下たちじゃないですか。こんなとこで何してるんです?」
ヴァリスが嫌そうに顔をしかめる。
「俺らが何してようと俺らの自由だろ。んなことより……そいつ、理性がねえどころか積極的に襲ってきやがったぞ。そんな奴逃すなんざ、解呪師の患者管理はどうなってやがる」
「あれ、もうそこまで進んでました? いやね、最近患者がやってくる頻度と呪いの侵食速度がおかしいんですよねぇ……その人、朝は普通に受け答えできてたんですよ?」
ルゥルゥは驚いた。男は、ヴァリスの目を見ても全く怯えることなく会話をしている。少なくともルゥルゥの知る限り、王宮で彼をそんなふうに扱う人はナギ以外にいない。
ヴァリスと一緒に歩けば、そこかしこから悲鳴が聞こえてくるのが日常だというのに。
「患者をさばくのがお前ら解呪師の仕事じゃねえのかよ。それともなんだ、当代一の力を持つ解呪師は、そんな雑魚みたいな仕事なんか知らねえってか?」
ルゥルゥはぎょっとした。ヴァリスの呪いは、国一番の解呪師でも解けなかったという話だ。つまり、彼が。
「当代一の解呪師、なのですか? あなたが?」
「ん? そうですよ。僕はヘクトル・ユーリアス。一応解呪師の館では一番の実力者ってことになってますかね。ていうか君、初めて見るけど誰です?」
「俺の婚約者だ」
思わずヴァリスを二度見した。婚約者、という響きが脳内でこだまし、咄嗟にしぱぱぱぱ! と高速で瞬きを繰り返す。
ヴァリスはやや不満げに顔をしかめた。
「なんだよ、本当のことだろうが」
「……今って、ヴァリス様に抱きついてもよろしいですか?」
「いいわけねえだろ。急にどうした」
「あっはっはっは、なーんか仲良くなってるみたいで何よりですね。最近の殿下、婚約破棄祭りだったじゃないですか」
ひく、とヴァリスのこめかみが震える。
「てめえらが俺の呪いを解けるんだったら、婚約破棄なんざしなくて済むんだが?」
「おっと、薮蛇でしたね。いやあ、これでも色々やってるんですけどねぇ……ていうか殿下、定期検診には来てくださいよ。そろそろ『症状』が出る頃でしょ」
彼はハッと鼻で笑い、ルゥルゥの腕を引く。
「俺の破壊衝動ならこいつが鎮めた。しばらくは症状も出ねえよ」
「……なんですって?」
ヘクトルは一瞬で真顔になり、ルゥルゥを上から下まで眺めた。解呪師ということは、同業者のようなものだろう。仲間には敬意を払え、というのが母の教えである。
ルゥルゥは彼をまっすぐ見上げながら、すっと片手を宙に差し出した。
「ナツ、ソラ、ツクシ、アケビ、ユズリハ、サラ」
連れてきた獣たちの名を呼ぶ。犬たちが周りに寄り、蛇がするりと腕を這う。頭上で高く鳴いた鷲が腕に降り立ち、リスが髪の間から顔を出す。
「お初にお目にかかります、王宮専属解呪師の方々。母の跡を継ぎ、呪い渡りの名を拝命いたしました、ルゥルゥ・クレイディと申します。そして今は、ヴァリス様の婚約者です」
「クレイディ……クレイディ……混ざりモノ狂いのお嬢様って、もしかしてあなたです? 呪い渡りですって?」
「はい、混ざりモノ狂いですし、呪い渡りです」
ルゥルゥはにっこりと笑った。
ヘクトルはぽかんと口を開け、不意に真剣な顔で口元に手を当てた。何事かをぶつぶつと呟きながら、何故か倒れた兵士の傍にしゃがみこむ。
「……呪いがすっかり消えてる。これもあなたが?」
「それはヴァリス様です。呪いを呪いで相殺したので」
「殿下、そんなことできたんですか?」
「そんなことしかできねえんだよ。解呪ができるなら、自分の呪いくらい自分でなんとかしてるに決まってんだろ」
またそんなひねくれたことを言って……とルゥルゥは呆れた。彼の呪を操る手腕は相当なものだというのに。
だが、ヘクトルはそんな皮肉に全く堪えた様子もなく、納得したように顎をさすった。
「ははあ、なるほど……殿下。うちの手伝いしてくれません?」
「は?」
「ほら、うちって呪いの解析以外にも、医務室じゃ治らない『不調』を抱えた患者も受け持ってるでしょう。大地から染み出す呪に耐性がない人とか、無意識に呪いをかけちゃった人の被害者とか」
「だからなんだよ」
「いやね、なんでか最近、王宮内での『患者』の数が異様に増えてるんですよ。いつのまにか呪いにかかってる奴らが多すぎる……呪いなんて、そうポンポン出るもんじゃないってのに。しかも、何故か呪いの侵食が早い。ほら、軽い呪いは風邪みたいな症状が出ることも多いじゃないですか。
ルゥルゥも首を傾げた。呪いというのは実際、素人でもやろうと思えばできてしまうのが厄介なところだ。だからこそ法で規制されている。人への負の感情が強すぎると、うっかり人を呪ってしまうこともあるが、そういう例は少ない。
「それが俺になんの関係がある?」
「手伝ってくれませんかね? 呪いの相殺なんてそうそうできることじゃない。見たところ、効果は解呪とほとんど変わらないくらいですよ。しかも精度が高いときた」
「分かりますか!?」
ルゥルゥが勢いよく身を乗り出した。隣でヴァリスがぎょっとしたが、構わず目を輝かせる。
「そうなんです、ヴァリス様は素晴らしいんです!」
頬が勝手に上気する。彼を悪魔憑きではなく、呪いを振りまく存在でもなく、一人の実力ある者として扱ってくれたのが嬉しかったのだ。
「ヴァリス様、お手伝いしに行きましょう。私も協力しますから」
「は? おい待て、お前なんでそんな乗り気なんだ」
ぐいと手を引かれ、彼は困惑の瞳でルゥルゥを見た。
「だってヴァリス様はすごい人でしょう? もっと周りの人にそれを知ってもらいたいと思うのはおかしなことですか?」
訳が分からない、という顔をしながらも、彼はルゥルゥの手をふりほどきはしない。
「それに、何か、ヴァリス様の呪いについての手がかりがあるかもしれません。突発的で、意図も治し方も不明というのは、悪魔憑きの呪いに似ています」
瞬間、彼の瞳に光が舞い戻った。ルゥルゥの手を掴み直し、すんなりと立ち上がる。
「行く」
「そう来なくては」
二人のやり取りに、ヘクトルがぽかんと口を開けた。こぼれ落ちそうなほどに目を見張り、交互に二人を見つめる。
「待て」
そのとき、涼やかな声が二人を止めた。アルクトスが冷たい無表情で二人を見つめていた。
「私は許していない」
すぱりと切れそうな物言いに、ヴァリスは「ああ?」と振り向く。
「知ってるか、兄貴。俺が別棟に留まってやってたのは、兄貴の命令だからでもなんでもない。俺が、俺の意思で、ここにいてやろうと思ってたからだ。現に、俺を裁ける奴はここには存在しない。俺が外に出ることを阻める奴がいるか?」
「私がいる」
「俺は解呪師の手伝いをしてやろうとしてるだけだぜ? そこにどんな罪状が当てはまるってんだよ。そんなに俺を閉じ込めたいか? 俺の呪いは解けねえのに? まるで、俺が呪われてねえと困るみてえだな」
ヴァリスが喉の奥でせせら笑う。どこか痛みの混ざった、晴れやかな顔だった。
「まあ、そりゃそうか。俺の母親が俺を呪ったのは、あんたを殺すためだもんな、兄貴」
ルゥルゥはぎょっと目を見張った。
今、なんと?
思わずヘクトルを見るが、彼はなんでもないことのように肩を竦めた。ヴァリスの言葉が真実だと言っているようなものである。
「あ? ルゥルゥ、お前、知らなかったのか」
驚くルゥルゥに、ヴァリスがあっけらかんと言う。知るわけがなかった。けれど、彼の口ぶりからしてきっと、王宮では周知の事実なのだろう。
心臓を、やわく握りこまれたような錯覚に陥る。
彼は笑っている。でも、ルゥルゥが好きな、あの少年のような笑顔ではない。
「自分の命が狙われた結果が目の前にあれば、そりゃいい気分はしねえよな。だからって、わざわざ呪いを解いてやるほど寛容にもなれねえか……そりゃまあ、俺の母親は死んでるからな。命を狙われた恨みをぶつける先は、もう俺しかいねえ」
ルゥルゥは呆然とその言葉を聞いていた。彼がどのような生を過ごしてきたのか、何も知らなかったのだと思い知る。
アルクトスは何も言わず、ただ氷のような目でヴァリスを見つめた。ややあって小さく嘆息する。
「……お前の好きにするといい。だが、お前の呪いが呪い解きの館で暴走するようなことがあれば、今のような待遇では済ませてやれないと思っておけ」
「はは、軟禁から監禁になるってか? どこにいたって変わんねえよ。俺がいるとこなんざ、全部牢屋みてえなもんだろ……ルゥルゥ、行くぞ」
ひらりと手を振って、彼はルゥルゥの腕を掴んだ。黒と琥珀の目には、空虚な闇だけがある。
それを見て、驚くほどすんなりと理解した。彼は、全てを閉ざしてここにいるのだと。
彼の周りにあるもの全てが、彼を遠ざけ、怯え、結果、彼は自分の体という名の檻の中で生きている。色濃い孤独の中にいる。
心臓が痛い。頭が痛い。喉の奥が乾いてひきつれて、ルゥルゥは咄嗟に彼の手を掴み直していた。
「ヴァリス様、違います。こうです」
「あ?」
二の腕を掴んでいた指をほどいて、きちんと手と手を繋ぐ。彼は闇のような瞳でじっとそれを見つめていたが、特に振りほどこうともしない。
ルゥルゥは首だけで後ろを振り返った。
「王太子殿下。ヴァリス様を監禁するときは、私も一緒に部屋に入れてください。ヨルもです」
「……何故だ?」
「一切の光がない部屋で、ずっと一人、朝を待っているヴァリス様を見たことがありますか?」
アルクトスは黙った。沈黙が肯定ではないことくらい、ルゥルゥには分かっていた。
「そういうことです」
前に向き直ると、ヴァリスはじっとルゥルゥを見ていた。警戒心と少しの懇願を秘めた瞳。初めて会ったときのヨルに似ているな、と思った。
「行きましょう、ヴァリス様。ヘクトルさん、解呪師の館まで案内していただけますか?」
ヘクトルは面白そうに唇の端を吊り上げると「もちろん」と呟いた。地面に転がっている兵士をひょいと持ち上げ、肩に担ぐ。
「さて、行きますか」
頷き、ヴァリスの手を引くルゥルゥを、アルクトスがじっと見つめていた。