アルクトスは感情の読めない瞳を細める。
「貴殿は呪いと魔獣に傾倒し、社交界にろくに顔を出さないと聞くが……そうであればこそ、国を支える苦労など知らぬまま、純粋に私を非難できると見える」
「国を支えるのと、ヴァリス様を一人にしていらっしゃるのとは、何か関係があるのですか?」
「そうだと言ったら?」
ルゥルゥは首をかしげた。どういう意味だろう?
アルクトスの言葉はルゥルゥを煙に巻くようだった。しばし考え、彼女はとりあえず分かりきったことを口にした。
「それは嘘です。だって、私をヴァリス様の婚約者にすることを了承したのは、王太子殿下ではないですか」
王家の婚姻には、現王と王太子の承認が必要だ。実際は、現王が了承すれば、王太子の承認など形式的なものにすぎない。しかし、今代の王が、目をかけているアルクトスに第二王子の婚約のことを相談しなかったはずもない。
彼が許さなければ、ヴァリスとルゥルゥの婚姻はありえなかったのだ。
「ですから、ありがとうございます、私をヴァリス様の婚約者にしてくださって」
「……私は今責められていたのではなかったか?」
「ヴァリス様を一人きりにしたことは許していません。でも、ヴァリス様に私を与えてくださったことには、お礼を言うべきだと思うのです」
呪に侵された者の孤独がどれほどのものかを、ルゥルゥは知っている。誰にも受け入れられない恐怖と苦しみが、どれほど彼らを苛むのかを。
だから、ルゥルゥは彼らを一人にする全てを許せない。魔獣だろうと王子だろうと同じことだ。呪に侵された、それだけのことで彼らの全てを否定する者に、ルゥルゥは容赦をしない。
「呪われた者のためならこの国の王太子にも歯向かい、同じ相手に礼すら言うのか、貴殿は。めちゃくちゃだな」
「私は呪い渡りです。呪に侵されている人が助けを求めているのに、それ以上に重要なことなどありはしません」
「そうか、よく分かった。……ヴァリス」
やけにあっさりと頷いて、彼は蒼白になっている弟を見た。
「お前は、この女に
「……あ?」
「別棟から出て、こんなところで騒ぎを起こしたのも、呪いを解くなどという世迷言にお前が縋りついてしまったからか?」
ルゥルゥは目を見張った。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったからだ。
「殿下、私は……」
「おい、兄貴」
ルゥルゥの腕がぐいと引かれた。底冷えのする声と共に、彼女の体はヴァリスの後ろに回される。
「なら俺の呪いはいつ解ける? この国の解呪師は無能か? 社交界にもろくに顔出さねえガキ一人に豪語できることが、どうして解呪師にできねえんだよ」
「だから世迷言なのだ。解呪師たちは無能ではない。彼らにできないことが、そこの令嬢にできるとは思えない。ヴァリス、お前の呪いは普通とは違う。お前もそろそろ弁えなさい。分かっているだろう」
「俺が弁えて何が変わる!」
ヴァリスが強く吠えた。
「俺一人が耐えたら物も人も壊れずに済むのか? 俺が穏やかで優しい人間だったら怯えられずに済むのかよ!? 誰も彼も、俺の目を見るなり悪魔だのなんだのとほざきやがる。ああそうだよ、俺は悪魔だ、人間じゃねえ! 生まれたときから俺を王子として扱うやつなんか誰もいなかったからな! だが、それなら俺に王族としての責任を求めてんじゃねえよ! 俺を奴隷のように蔑んでるくせに、敬ってるみたいな顔しやがって、挙句の果てに弁えろだ? 俺をどうしたいんだよ、俺にどうしろってんだ!」
「ならば息だけしていろ、ヴァリス。私たちはそういう生き物だ」
ヴァリスは殴られたような顔でよろめいた。
「は……?」
「私たちは王族だ。国のために生き、国のために死ぬ。そういう生き物だ。誰に何を言われようと、どれだけ蔑まれようと、怯えられようと、王子であるお前には価値がある。生きているだけで価値が生まれる。生きてさえいればいい。生きていれば、それだけでいい」
ヴァリスの指が小刻みに震えている。浅い呼吸の音が聞こえてくる。
ルゥルゥは思わず手を伸ばして、彼の手を掴んだ。そうせずにはいられなかった。
「いいえ、ヴァリス様。あなたは生きているだけではだめです」
軋むような動きで、彼がこちらを見下ろす。ルゥルゥは強く光る瞳をヴァリスに向けた。
「あなたは笑っているほうが可愛いですから」
「は?」
「あと、ヨルと戦っているときのヴァリス様は楽しそうでした。私はあのヴァリス様も好きです。生きているだけでいいだなんて、そこに命があるだけでいいだなんて、それは『あなたでなくてもいい』と同義ではありませんか?」
彼の両頬に手を伸ばす。小さな手で彼の頬を挟みこみ、黒と琥珀の目をのぞき込む。
「私はあなたが笑っている顔が好きです。楽しそうだと嬉しくなります。一人で耐えている姿を見るのは苦しくて、一人で泣いているのを見るのは嫌です」
「泣いたことねえだろ、俺は」
「泣けたことがない、の間違いでは?」
ヴァリスは息を呑んだ。
「私は、あなたが屍のように生きるのは嫌です。生きているだけでいいだなんて、嘘ですよ」
笑うルゥルゥを呆然と見つめ、はくりと口を開ける。彼が何事かを言おうとしたときだった。
唐突に、ルゥルゥの肩を誰かが引いた。
「え?」
くるりと背後を向かされたルゥルゥの目の前に、一人の兵士が立っている。彼女はわずかに瞠目した。いつの間にこんなに近くに?
男は俯いていて、表情がうまく見えない。ゆらゆらと、声もなくその場に立っている。
「あの……?」
ルゥルゥが思わず手を伸ばしたときだった。ヴァリスが弾かれたように動く。
「離れろ!」
「え」
彼が背後からルゥルゥの腹に腕を回し、力任せにぐいと引く。思わずぐえっという情けない声が出た。支えられていたので特に転ぶようなことはなかったが、多少せきこむ。
「な、何を……」
「阿呆! そいつが正気に見えんのか!」
ヴァリスが叫んだのと、目の前でぶおん! と風が巻き起こったのは同時だった。いつの間にか兵士の剣は抜かれ、先ほど手を差し伸べた場所を刃が薙いでいる。
男の目はぎらぎらと獣のように輝き、口元からぼたぼたと唾液が垂れている。とてもじゃないが、正常な人間には見えない。
ルゥルゥは唖然とした。男の状態には見覚えがある。以前、呪によって正気を失った兵士と同じだった。
「この方、呪に侵されて……どうして急に?」
「そんなん俺が知るか、クソ……!」
もう一度、兵士が刃を振りかぶる。その目に理性は欠片だって存在しない。幸い、男の動きはひどく緩慢で、ヴァリスはルゥルゥを抱えたままそれをなんなく避けた。
同時に、ヴァリスが自らの指を噛みちぎる。手を横なぎに振るうと、兵士の目元に赤い血が飛んだ。
「
「ギィッ!」
兵士が金属のような叫び声を上げ、剣を取り落とす。目を押さえてのたうち回っている。
「っ、ツクシ! アケビ! ヴァリス様の首に!」
ルゥルゥが咄嗟に叫ぶと、懐から二匹の蛇が飛び出した。
彼が叫んだのは人を呪うための言葉だ。このままでは、悪魔憑きの呪いがまた発現してしまう。
彼らがヴァリスの首に絡みついたのを見届け、懐から細い銀の鎖を取り出す。それは輪になっており、中心に大きな黒い宝石が嵌め込まれていた。
素早く鎖をヴァリスの腕に巻き付ける。宝石が彼の肌に触れていることを確認して、パン、と両手をうち鳴らす。
「
踊るように、唄うように、言葉を紡ぐ。加護を織る。
前は、ツクシだけでは呪の進行を止められなかった。結果的に破壊衝動を抑えられずに彼を暴れさせてしまったが、今回はそうはさせない。
ツクシとアケビ、二匹の蛇に、さらにルゥルゥの呪い渡りの力を加える。
「
再び手を打ち鳴らすと、宝石と二匹の蛇が淡く光り出す。荒くなっていたヴァリスの呼吸が緩やかになった。
ルゥルゥは満足気に頷き、叫んだ。
「ナツ、ソラ、足に噛みつきなさい!」
瞬間、どこからともなく飛び出してきた二匹の獣が、躊躇なく兵士の足に食らいついた。痛みと衝撃で、男はあっという間に地に倒れる。
「ヴァリス様!」
「ハッ、お膳立てが上手くなったじゃねえか」
かすかに脂汗を滲ませ、彼はルゥルゥから手を離す。兵士の傍に膝をつくと、彼の額を手で打ち据えて叫んだ。
「影より青く、夜に
彼の手のひらがびかりと黒く光る。男の体が大きく震えた。しばらく電流が走ったように体が痙攣していたが、ヴァリスが押さえつけていると、ふっとその抵抗もやんだ。
今まで暴れ回っていたのが嘘のように、男はばたりと動きを止める。気絶したのだろう。
「っだぁ〜〜〜っ、クソが、なんだってんだ……!」
その場にどっかりと座りこんだヴァリスは、蛇たちを巻きつけたまま、大きく息を吐いた。急いで彼の傍に駆け寄る。
そのまま兵士の状態を確かめるが、呼吸は安定していた。相変わらず、ヴァリスは呪いの精度が高い。加えて、ルゥルゥがサポートしたからか、前回よりも出力が安定したのだろう。彼の体を侵していた呪と、ヴァリスが与えた呪いが綺麗に相殺されている。
「ヴァリス様、この方に見覚えはありますか?」
「ねえよ。少なくとも顔を知ってる兵士じゃねえ。新入りか?」
「で、殿下、ご無事ですか!」
遠巻きに見ていた兵士たちがおそるおそる駆け寄ってくる。無事じゃなかった場合色々とまずいのではないかと思った。この場にいる王族以外の全員が罰を受けてもおかしくない。そんなことにはならなかったわけだが。
だがそのとき、彼らは倒れた男を見て眉をひそめた。
「こいつ……確か熱が出たとかで寝込んでるはずじゃ……」
「え?」
「あーーーーっ、いた!!」
不意に響いた絶叫じみた声に、全員がびくりと肩を揺らした。見れば、こちらへよたよたと走ってくる誰かがいる。
濃い藍色と黒を基調にした、裾の長いローブを着た男だった。ルゥルゥたちの前に倒れている兵士めがけて走ってくる。
「突然脱走したかと思ったらこんなとこに! こっちは全然手が足りてないってのにもう……って殿下ぁ!?」
倒れた兵士の手前でびたりと止まったかと思うと、男はヴァリスを見て文字通りひっくり返った。ずべしゃ! という音と共に尻もちをつく。
「あ? ……ああなんだ、解呪師か」
「ひっ……! ぼっ、僕、なん、なんにもしてません! すみません! 呪わないでぇ!」
わなわなと体中を震わせて情けなく叫ぶ男に、ヴァリスは呆れた視線をやった。
「目線一つで呪えるわけねぇだろうが。本当に国家試験受けた解呪師か?」
「すみませんすみませんすみません! 僕そっちの兵士の人を探しに来ただけなんです本当に何もしません! 何もしません!」
ルゥルゥは一瞬呆気にとられていたが、異様な光景を数秒見つめて、ヴァリスの袖をくいくいと引いた。
「あの、ヴァリス様。この方はどうなさったのですか? ご乱心ですか?」
「知らん。おおかたそこの兵士を回収しに来た解呪師だろ。今は目的を見失ってるみてぇだが」
「すみません本当にすみません何もしません! 見逃してください!」
そのようである。
ルゥルゥはとことこと彼の元に歩み寄り、兵士のほうを手のひらで指し示した。
「あの、すみません。そちらに倒れている方は、どうして呪に侵されていたのですか? 寝込んでいただけではないのですか?」
「へっ!? えっ? だっ、誰ですか?」
「ヴァリス様の婚約者で、ルゥルゥと申します」
ぺこりと頭を下げると、彼はぎょっと目を見開いた。
「でっ、殿下に婚約者ぁ!? 大丈夫なんですか!?」
ヴァリスがひくりと頬をひきつらせた。こめかみに青筋が浮いている。
ルゥルゥはそれを横目で見ながら首を傾げた。なんというか、一国の王子の婚約話が、あまりに誰にも伝わっていないように思う。王宮でくらい広まっていても良さそうなのだが……というか知らない人がいること自体ちょっとおかしいと思うのだが……