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第9話


 青空の下で、鈍い音が絶え間なく鳴り続けている。

「は、はははははははははははは!」

 途切れない笑い声と、何かを叩きつけるような鈍い音。地面を蹴りつける音。破裂音。何かが砕ける音。

 誰一人として声を出せない。ここは訓練場のはずなのに、先ほどまで多くの兵士たちが訓練していた場所で、今やもう誰もが遠巻きに「それ」を見ることしかできない。

 とある兵士が呆然と呟いた。

「化け物だ……」

「そりゃどっちのこと言ってんだ」

 周りにいた兵士が困惑のままに問いかける。それを皮切りに、固まっていた兵士たちが思い思いに話し出した。

「いやどっちもバケモンだろありゃ……」

「馬鹿野郎、第二王子殿下をバケモンとか言うんじゃねえよ……! 首が惜しくねえのか!」

「少なくともはっきり言っちゃってんのはお前だよ」

「つーか殿下が踏んだ地面割れてるけど、あれ本当に大丈夫なのか?」

「踏んだ地面が割れるような人間は人間なのか?」

「んなこと言ったら殿下と戦ってるあのバケモンはなんなんだよ、首が燃えてるぞ」

「首が燃えてるって表現初めて聞いたよ俺は」

「燃えてんだからしょうがねえだろ。というか、殿下は殿下でなんか……角生えてねえ?」

「角って生えるんだ、人体に」

「つーかそもそも殿下、何回か地面に叩きつけられてるが、あれは骨イッてねえのか」

「すさまじい勢いで立ち上がってんだから大丈夫じゃないのか」

「殿下は殿下で何度かあのバケモンの鼻っ面へし折ってるように見えるけどな」

「バケモンに腕十字固めしてたけどあれは効くのか?」

「あのバケモンぬるっと逃れてたからな。液体みたいだったな」

「つーか、さっきから気になってたんだが、殿下ってあんなふうに笑うんだな……いつも怒鳴ってるところしか見たことないけど……」

「悪魔みたいな笑い方だけどな……」

「洒落にならねえんだよなそれは」

「なあ、そういえば誰も聞かないから聞くけどさ」

 不意に、一人の兵士が首を傾げた。

「あのバケモンたちの後ろにいる可愛い子、誰だ?」

 誰もが顔を見合わせる。

 ややあって、兵士たちは全く同じタイミングで呟いた。

『さあ……?』

 彼らの視線の先には、にこにこと微笑みながらすさまじい戦いを眺める、一人の少女がいた。





 彼らが戦い始めてどれほど経ったか、唐突に、ヴァリスの動きが止まった。びたり、と音がしそうな勢いで。

 今にも飛びかかろうとしていたヨルは怪訝そうにその場に留まる。刹那、青空を見上げたヴァリスがばったりと倒れた。思わず駆け寄ったルゥルゥの前で、彼は泥と血にまみれた顔でからからと笑う。

「おい、お前のペットどうなってんだ……ははは、硬すぎんだろ……」

 逆さまの顔で笑う彼は晴れやかだった。その目からすっかり「衝動」が消えている。頭に生えていたはずの角もないし、髪の毛先も燃えていない。

 ルゥルゥはやや安堵して、彼の汗を拭こうと手を伸ばす。

「ヨルはうちの子たちの中でも一番強いですからね。でも、私もヨルがここまで疲れているのは初めて見ました」

「疲れてる? は、途中からほとんど殺すつもりでやったんだぜ俺は。それを、なんだ? 疲れてる! はは、ははははははは!!」

 心底楽しそうに笑って、彼がルゥルゥの手をぐいと引く。思わず膝をついて、彼を上からすっかり覗き込む形になる。夜の色を纏った彼女の髪が、二人の姿をカーテンのように覆い隠した。

 爛々とした瞳が、ルゥルゥを見つめている。

「なあ、他のやつはいねえのか? 本当にこいつが一番強いのか?」

 子供のような問いかけに、ルゥルゥもつられて笑った。

「単純な膂力りょりょくならヨルが一番ですよ。でも、ソラはヨルより速いですし、ツクシは人には聞こえない音を出して耳を狂わせます」

「なんだそりゃ。俺よりバケモンなんじゃねえか?」

 ルゥルゥは何度か目を瞬かせた。

「殿下もあの子たちもみんな可愛いですよ」

「てめえは相変わらず訳わかんねえな。俺のどこが可愛いって?」

 悪態とは裏腹に機嫌が良さそうに笑う彼を見て、ルゥルゥは不思議だなと思った。いつものヴァリスは綺麗だし、今のヴァリスの笑顔は可愛い。そんなこと、見ていれば分かるのに。

「なあ、お前、あー……名前なんつったか……ああ、そうだ。ルゥルゥ。お前、どうやって俺を助ける気だ? 俺が二十三年解けなかった呪いを、お前はどうやって解く?」

 彼が自分から呪いの話を口にしたのは、おそらくこれが初めてだった。ルゥルゥは少し驚いて、わずかに思案しながら答えた。

「正直なところを言うと、私は今の殿下も十分綺麗で可愛いと思うので、そこまで呪いを積極的に解きたいわけではないのですけれど……」

「は?」

「だって、見た目が少し人と変わっていて、物を壊しやすくて、少し口が悪いだけなら、ヨルだって同じですから。なんの問題もありません。ですが、殿下が辛いのでしたら、呪いをなんとかしたいとは思っています」

「おい、そもそも俺をそこの獣と一緒にすんな。あと口が悪いは余計だ」

 彼は不意に目を逸らすと、ややあってぽつんと言う。

「それだけじゃ、なかったとしたら?」

「え?」

「……なんでもねえよ。物好きだな、てめえは。まあ、魔獣を飼ってる時点で相当だが」

 彼は今、明確に何かを隠した。だが、ルゥルゥは深く追求せずに言葉を繋げる。

「でも、呪いを解くかどうかは置いておいても、殿下が助けてと言ったので、助けますよ」

 ヴァリスは怪訝そうに眉をひそめた。

「……言ってねえだろ、そんなことは」

「いいえ、言いました」

 あの夜に、確かに彼はそう言った。少なくともルゥルゥには、そう言っているようにしか見えなかった。

「だからあなたを助けます、殿下」

「ますます訳わかんねえ奴だな……まあいい。ルゥルゥ、俺のことはヴァリスでいい」

 話が百八十度変わり、ルゥルゥは思わずきょとんとした。

「ヴァリス様……ですか?」

「そうだ、殿下だとややこしい。兄貴も入るだろ」

「随分と騒がしいが、私がどうかしたのか」

 不意に聞こえた声に、ヴァリスの瞳が見開かれる。彼はほとんど腹筋だけで反射的に起き上がった。ルゥルゥの額すれすれを頭がかすめる。

「兄貴!? なんでここに……!」

 弾ける声を聞きながら、ルゥルゥは居住まいを正して立ち上がる。静かに声のしたほうを見やった。

 遠巻きにしていた兵士たちが皆、音もなく最敬礼を取っているのが見えた。人の波が割れた中心を、一人の男が歩いて来る。

「何故? 兄が弟に会いに来ることの、一体何がおかしいと?」

 氷を固めたような声だった。

 陽の光を浴びて、紅茶の色をした髪が輝く。こちらを見る切れ長の瞳は、透き通るように薄い青を纏って、まるで一振りのナイフのようだ。黒一色を纏うヴァリスとは対称的に、白と金を基調とした王族の衣装を身につけている。

 ルゥルゥはじっと彼を見つめた。全く自慢ではないが、ルゥルゥは王族の姿をほとんど知らない。社交界にほぼ全く出ていないのだから当然だ。そもそも、この国に王子が何人いるのかすら、彼女にはさして興味のないことなのだった。

 だが、第二王子であるヴァリスが兄と呼ぶ人物は、この世に一人しかいない。

 テュシア王国にただ一人存在する王太子――次の玉座に最も近い人物。アルクトス・テュシアその人である。

「ご機嫌麗しゅう、王太子殿下。お初にお目にかかります。クレイディ伯爵家より参りました、ルゥルゥ・クレイディと申します」

 ルゥルゥは優雅にドレスの裾をつまんだ。いまさっきまで地面に膝をついていたとは思えない、典礼な仕草で頭を下げる。

 アルクトスは二人の目の前まで来ると、ヴァリスの姿をざっと眺めてから、ルゥルゥとその背後にいるヨルを見た。

「その獣は貴殿のものか」

「ヨルのことですか? はい、私の家族です」

「家族……その獣と私の弟が同じくらい泥だらけなのはどういうことだ?」

「悪かったな、汚ねえ姿で」

 立ち上がりもせず、彼は身を起こしただけの体勢で鼻を鳴らした。

「だが、兄貴だって知らせもなしに訪ねてこなくてもいいだろ。そもそも、俺がどういうふうに過ごしていようと兄貴には関係ねえはずだよな。どうせここから出ることもねえんだし」

「私は、基本的にあの別棟から出ないようにと、お前に言っていたはずだが」

 抑揚がほとんど存在しない、剣そのもののような声で、彼は告げる。

「訓練場は、お前のいるべき場所ではないだろう」

 兵士たちが身動ぎひとつせず、どころか瞬きすらせずに彼を見ているのに対して、ヴァリスは堪えた様子もなくからからと笑う。

「そりゃ悪かったな、オニイサマ。俺の中の悪魔は時と場所を選んで暴れちゃくれねえんだよ。別棟の部屋一つ壊したほうがマシだったか?」

 アルクトスはわずかに眉をひそめた。素早くルゥルゥに視線を移し、その背後に控える獣を眺める。

「もしや、貴殿の獣が鎮めたのか? 弟を?」

 ああ、この人も彼が悪魔憑きだと知っているのだなとルゥルゥは思った。思って、少しだけ悲しくなった。きっとこの人も、ヴァリスを一人にしている。

 ルゥルゥが答える前に、アルクトスは納得したように目を細める。

「そうか、貴殿は弟の婚約者だったな。クレイディ伯爵家の猛獣使い――呪い渡りの巫女」

「そのような大層なものではありません。私は、この子たちを愛しているだけです」

「呪いが好きか? 私の弟のことも、そこの獣のように愛でて、飼うつもりか?」

 ヴァリスがあからさまに顔をしかめた。

「おい兄貴、てめえ……」

「ヴァリス様も同じような勘違いをなさっていましたが、私はこの子たちにお願いをしているだけで、命令をしているわけではないのです」

 第二王子の言を遮るという、本来ならその場で鞭打ちに処されるような行動だった。だがルゥルゥは意にも介さずにアルクトスのほうを見つめていた。ヴァリスのほうが唖然としている。

「たとえば今この瞬間、ヨルが王太子殿下に本気で飛びかかったとしても、私にそれを止める力はありません」

 ルゥルゥ自身は全く意識していなかったが、その瞬間に周りの兵士たちがあんぐりと口を開けた。王太子に向かって「お前を化け物に襲わせることもできる」と脅したようなものである。

 ヴァリスがすさまじい勢いで立ち上がり、ルゥルゥの頭を上からガッと掴んだ。

 少女はきょとんと隣を見上げる。いきなりなんだろう?

 だが、彼は彼で困惑しきった顔をしていた。どうやら、何かよく分からないが動かなければ――と思って行動した結果らしい。

 目を白黒させながら、彼はなんとか言葉を絞り出した。

「おい、ルゥルゥ、頭は正気か?」

「はっきりしています、ヴァリス様」

「今自分が首をはねられるようなこと言ったのは分かってんのか?」

「私、首をはねられてしまうのですか?」

 途端、ヴァリスは半眼になって疲れたようにアルクトスを見た。

「……兄貴、分かるだろ、こいつは馬鹿だ。さっきの発言にはなんの意味もねえ」

 さっきの発言……?

 首をかしげて数分前のことを思い出す。特段おかしなことを言った覚えはないが、何か言葉が足りなかっただろうか?

「ヴァリス様。申し訳ないのですが、おそらくヴァリス様にヨルが襲いかかったとしても止められないと思います」

「お前頼むから黙れ。これ以上不敬罪を重ねんじゃねえよ。俺だって一応王子だぞ」

「ええと、それから当たり前ですが、私に襲いかかってきても止められません。私、ヨルの主人ではありませんから」

 ルゥルゥは半ば彼の言葉を無視してアルクトスへ言った。前方で兵士たちが何人か仰け反った。

「ですから、この子たちは好意で私と暮らしてくれているのです、王太子殿下。ヴァリス様も同じです」

「同じ?」

「私を襲ったとき、ヴァリス様は怯えた目をしていらっしゃいました。人を傷つけたい人の目ではありませんでした。呪いのせいで、私の手なんかぽっきり折ってしまったって仕方なかったのに、ここまできちんと私をエスコートしてくださいました。ヴァリス様は優しい方です」

「……貴殿は私の弟に襲われたのか?」

 ふっと頭の重みが消える。実はヴァリスが隣で頭を抱えていたのだが、ルゥルゥは気づきもしなかった。弁明に必死だったのだ。

「その通りですが、私は傷つけられていません。ちゃんとヴァリス様を止めて、縛って朝まで見ていたので」

 正確には、見ていたのはアイシャだが。

「……私の弟を縛ったのか?」

「非常事態だったので」

 兵士たちの半分以上がルゥルゥの命を諦めたところで、アルクトスは冷たい目をすがめた。

「貴殿はおかしな娘だな。今、自分が死ぬような発言をした自覚はあるか?」

「……私は死ぬのですか? 何故?」

「あまりに不敬だ。私と、そこの弟に対して」

 ルゥルゥは本当に意味が分からなくて、思わずぽかんと口を開けた。ややあって、こめかみがちりちりと焼けるような感覚に襲われる。

 不思議に思って一拍、それが怒りだと気づいた。

「……どこがですか? ヴァリス様に襲われたと言ったことですか? ヴァリス様を縛ったことですか?」

「どちらもだ」

「ならどうして、ヴァリス様は誰にも頼らず、一人で夜を耐えていたのですか?」

 唐突に話ががらりと変わったような感覚に、アルクトスは怪訝に眉をひそめる。だが、ルゥルゥの中では全てが繋がっていた。

 ルゥルゥの言葉が不敬だと言うのなら、彼が尊敬されるべき王子だと言うのなら、どうして彼は、一人ぼっちで怯えながら夜を過ごさなければならなかったのだろう?

「どうしてヴァリス様は一人なのですか? どうして誰もが怯えるようにヴァリス様の目を見るのですか? ヴァリス様が呪われたのはヴァリス様のせいなのですか? ヴァリス様が泣いていないから、平気だと思ったのですか? 血が流れていないから、どこも痛くないだろうと思ったのですか?」

 ヴァリスはほとんど蒼白になって、ルゥルゥが矢継ぎ早に兄を責め立てるのを呆然と見ていた。

「ヴァリス様が『助けて』と仰ったのを、ここにいる何人が聞いたのですか? 私の言動が不敬だというのなら、ヴァリス様を本当に敬っている方はどこにいるのですか? その人を私の前に連れてきてください。その方に首をはねられるのなら本望です。ヨルも止めはしないでしょう」

 後ろで愛しい獣がぐるぐると鳴く。今度は明確に、脅しとしてヨルを使った。

 生半可な覚悟を持った者であれば、ルゥルゥに手を出される前に、ヨルがその身に食らいつくと。そう、ルゥルゥは言ったのだ。

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