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第8話

 贖罪しょくざい? ……なんの?

 少女の顔が急に大人びた気がして、ヴァリスは眉を寄せる。

「アイシャは多分、お母様の子供なら誰だって同じように守ったはずなんですよ。私じゃなくても……それが彼女の信念ですから。けれど……私はアイシャではないから、私が後悔しないように動きます。私は、呪いに苦しんでいる人がいるなら助けたい。その心を曲げたら、私は私を生きている意味がなくなってしまいます」

 ヴァリスは無意識に口角を上げた。自分が自分を生きることに、一体なんの意味があるのだろう? 息をするだけで何かが壊れていく中で、どうやって自分の信念など貫けと? そもそも信念なんて、もうヴァリスの中にはかけらもない。

 今も、ヴァリスの頭の中では壊してしまえと悪魔が囁いている。全てが終わればいいと嘯いている。少女の手を握りつぶせと。

 自分は頭がおかしいのだ。そんなこと、ずっと昔からわかっている。

 皮肉げに笑うヴァリスをじっと見つめて、ルゥルゥはぽつんと言った。

「殿下、私の手を壊してしまいたいですか?」

 まるで心を言い当てられたようでぎょっとする。思わず引きかけた手を、しかしルゥルゥは離さなかった。

「私は私の手をあげられませんが、殿下の衝動を発散させることはできます」

「……そういやそういう話だったな。どうすんだ、本気で奴隷でも連れてくるか?」

 ルゥルゥはそこで、やや困惑と驚きが混ざった顔をした。

「殿下、もしかして、私がどうして猛獣使いと呼ばれているのか、本当に知らないのですか?」

「……は?」

「なるほど、分かりました。これは実際に見せたほうが早いですね……ヨル、こちらへ」

 彼女が呼びかけると、シーツの上に音もなく黒猫が乗った。ルゥルゥが実家から連れてきたという、何十といる獣のうちの一匹だ。

 彼女はその猫の首元に手を伸ばした。そこには小さな紐で首輪がつけられており、板のように薄く、黒い石のような何かがぶら下がっている。

 ルゥルゥはその石を繋ぐ紐に手をかけ、ぶちりと引きちぎった。瞬間、猫の首元から、何かがずるりと這い出してきたような怖気に襲われる。

雪蓮花せつれんか 百花びゃっか 甘松かんしょう 花蘇芳はなずおう

 奇妙な節をつけて、彼女は言葉を紡ぎ出す。歌のような、詩のような、不可思議な響きのそれ。

 だが、血のにじむような思いをして解呪を学んできたヴァリスには分かる。これは、呪いをくための言葉だ。

 呪いを解くための言葉と、呪うための言葉は明確に違う。節が違う。言葉が違う。音が違う。それを、ヴァリスは既に感覚として知っている。

 これは、呪いをほどくための言葉だ。

薄暮はくぼ 爛漫らんまん 花あかり 狭間のように――息吹いて六花りっか

 彼女が唱えた瞬間、黒猫が宙へと飛び上がった。後ろ向きにくるりと一回転して、危なげなく床に降り立つ。

 訝るヴァリスの前で、それは起こった。

「なっ……」

 めきめきと、めりめりと、黒猫の体躯が音を立てて伸びていく。

 柔らかだった皮膚がぼこぼこと盛り上がり、合わせて体が大きくなっていく。 折れた骨が以前よりも強くなるように、壊れた筋細胞が以前よりも太くなるように。体の中が壊れて、また再生して、その繰り返しを早回しで見ているような感覚。

 最終的に、それはすっかり猫ではなくなっていた。四足歩行なのに、立ったヴァリスの肩まで届く体躯に、鋭い牙と爪。毛並みは黒く、しなやかな見た目は、ほとんど黒豹に近い。

 だが、その尾は根元から二又に分かれており、首の周りには青い炎をまとっている。明らかに普通の豹ではない。獅子のような大きさを持ったそれは、硬直するヴァリスのことを品定めするように眺めた。

「んだ……これ……」

「ヨルです。十年前、この子が呪に侵されて、理性を失っていたのを助けたんです。そうしたら何故か好かれてしまって……仕方がないのでうちの子にしました」

 言われていることが何も分からなかった。

「ヨルは普段は猫の姿をしていますが、それは私が頼んでこれをつけてもらっているからで、こちらが本来の姿なんです」

 彼女が差し出したのは、先ほど引きちぎった紐についていた石だった。闇で塗り込められたかのように黒い。

「分かりにくいとは思いますが、黒玉こくぎょくと呼ばれる宝石の一種です。呪を封じる陣が彫ってあって、ヨルたちには体の一部に、これと同じ宝石をつけてもらっているんです。首飾りだったり耳飾りだったり、色々ですね」

 のぞきこんでみれば、確かに見たことのない文様が彫られていた。文字のようにも記号のようにも見える。

「ヨル、おいで」

 ルゥルゥが手を差し伸べると、黒豹は嬉しそうにその手に額を擦り付けた。その頭だけでも赤子の体一つ分くらいはありそうだ。あまりの大きさに目眩がする。

「つーかお前これ……魔獣じゃねえか!」

 悪魔が封じられている地であるテュシアでは、土地から定期的に呪があふれ、獣が変質することがある。呪に侵された獣は混ざりモノ――いわゆる魔獣となり、やがてたいていが理性を失うのだ。

 ヴァリスはようやく、彼女がどうして猛獣使いと呼ばれているのかを理解した。

 むしろ、こんなものを猫の体に押し込めて飼っているくせに、猛獣使いなんて可愛い呼び名を名乗っているのか? 冗談じゃない。魔王に改名しろ。

「お前、正気か? 何をどうしたら魔獣を飼うなんて思考になる」

「だって、可愛いではないですか」

「は?」

 可愛い? 可愛いとか言ったか、今?

「おい……待て、いいか、見ろ。そこに転がってる犬コロがいるだろ」

「はい、いますね。ナツです」

「そいつは?」

「可愛いですよ、もちろん」

「じゃあこのよく分からん燃えてる黒豹は?」

「? ヨルは可愛いに決まっているでしょう」

「目が腐ってんのか?」

 絶対に感性がおかしい。口元をひきつらせたヴァリスに、ルゥルゥはきょとんと首を傾げた。

「殿下も綺麗ですよ?」

「あ?」

「私は殿下の目が好きです。夜空にぽっかり浮かんだ月みたいで、日が沈んだ直後の一等星みたいで。最初に見たときから好きでした。だからきっと、これからもずっと好きなのだと思います」

 ヴァリスは顔をしかめた。何故って、彼女のその言葉が、予想外に真剣だと分かってしまったからだ。

 そういえば最初から、この娘はやたらとヴァリスの目を見る。誰もが必死に見ないようにする自分の目を。

 ありえない。他の人間の反応が正常だ。悪魔がどうやって人の身に取りついているかが分からない以上、目を合わせるだけでも悪魔に乗り移られる可能性はある。ほとんど自殺行為だ。

 それにそもそも……悪魔の存在証明である瞳を、直視したい人間などいない。それはヴァリスとて同じだった。鏡を見るたびに絶望する朝を、この女は知っているのだろうか?

「私は、殿下にも殿下を好きになってもらいたいのです。自分を好きな人間はなんでもできるのだって、お母様は言っていましたから」

「自分を好きに? ……ははっ!」

 思いもよらぬことを言われて、ヴァリスはうっそりと笑う。

「なあ、目が覚めたら周りが、物も人も一緒くたになってずたずたに壊れてたことはあるか?」

 底冷えするような低い声が出た。

「自分の理性がいつなくなるか分からねえ恐怖を知ってるか? 自分が正常か異常かも分からない中で生きたことは? 自分一人しかいない空間にすら自由がないってのが一体どんな気持ちか、お前に分かんのか?」

 無意識にルゥルゥの手を握っている指が震えて、思わずもう片方の手で自分の腕を掴んだ。いつまた完全に理性を失うか分からない。そうなったとき、自分はこの女を殺すだろうか?

「自分の理性すら信じられないってのがどんな気持ちか、お前には分かるかよ?」

「いいえ、私は殿下ではありませんから、殿下と同じ気持ちになることはできません」

 きっぱりと少女は告げた。

「それでも、理解できない人の目を見て、手に触れることが、私にはできます。私には手があって、足があって、この子たちがいますから……だから、まずはその衝動をなんとかしましょう」

「あ?」

「悪魔憑きの破壊衝動が恐ろしいのは、それを受け止められる人がいないからだとお母様は言っていました。なら、受け止められる子がいればいいのです」

 言って、ルゥルゥは黒豹を撫でる。ヴァリスは思わずぽかんと口を開けた。

「お前……まさか」

 ゆらりと黒豹の目がヴァリスを捉える。そこに怯えはなく、むしろヴァリスを品定めするような色があった。

 つまり、舐められている。

 衝撃だった。咄嗟に怒りより困惑が勝つ。自分を恐れないどころか、舐め腐る存在を、冗談じゃなくヴァリスは初めて見たのだ。

「おい……そいつ、なんて言ってる?」

 乾いた笑いをこぼして尋ねた。なんとなく、この少女なら、目の前の獣の心がわかる気がした。

 ルゥルゥは少しだけ困ったように笑って言う。

「ええと……殿下のことを『いきがっている青二才が』と」

「――上等じゃねえか、この獣が」

 ヴァリスはベッドからひらりと飛び降り、ルゥルゥの手を引いた。うっかり握りつぶさないよう、慎重に、全ての神経を彼女の手に集中させる。この女がいなければ、目の前の獣は足ひとつ動かさないだろうという確信があった。

「来い、訓練場なら空いてるはずだ。滅多打ちにしてやる」

 瞬間、黒豹が馬鹿にするように鼻を鳴らす。ヴァリスはそのとき、自分のこめかみに青筋が立つ音を聞いた。



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