ヴァリスの目が覚めたのは、明け方をいくばくか過ぎたころだった。窓からさしこむ光に瞼を焼かれ、ゆるりと目を開ける。
「ぁ、あぁ……?」
掠れた声と共に体を起こそうとして、何故か全身がろくに動かないことに気がついた。何かでぎっちりと体が拘束されている。
「……は?」
見れば、ヴァリスは体を毛布でぐるぐる巻きにされ、その上から縛り上げられて簀巻きにされていた。
「な……んだこれ!」
瞬間、昨日の記憶と衝動が一気に脳裏に蘇る。呪に侵された兵士を黙らせるために彼を呪い、その衝撃が自分の呪いを刺激し、暴れ回ったことを。
ヴァリスの体はもう隅々まで悪魔に侵されていて、ひとたび刺激されれば、自分の理性ではほとんど抑えきれない破壊衝動に襲われる。そうでなくても、定期的に何かを壊したい衝動に駆られるのはいつものことだった。忌々しい悪魔の呪いである。
自分の体のことは自分が一番よく分かっている。破壊衝動は、完全に発散するまで収まることなどない。だからいつも、人気もない部屋であらゆるものをずたずたにして、騙し騙し生きてきたのだ。
婚約者たちが知らぬうちに傷を作っているなどという噂は嘘だ。あれはほとんどが、破壊衝動に襲われたヴァリスの仕業である。それを呪いのせいだと言ったところで罪は消えない。そもそも、傷つけたくて傷つけているわけではないなどと、言ったって信じてくれる者はいないのだ。だからずっと、誰も信じず、何も頼らず、余計なことをする者のいない場所で暮らしていたのに。
なのに、昨日の夜の、あれはなんだ。
ヴァリスには暴れているときの記憶がある。いっそ全てを忘れていたいのに、頭の中の悪魔が嘲笑うようにして全てを突きつけてくるのだ。
その最悪の記憶の中に、新緑の瞳の女がいた。
『殿下! 呪に飲まれてはダメです!』
くそ、と呟く。
「分かってんだよ、んなことは……」
ぎちりと手を握りしめ、そこではっとした。何かを、掴んでいる。
「……あ?」
ヴァリスは違和感の方向に目を向けた。自分は簀巻きにされているが、なんと器用にも、片手だけが拘束から逃れていた――隣で眠る、一人の少女の手を握るために。
「あ!? んだこれ!」
「うるせえな……お嬢が起きるだろうが……」
部屋の端で、声と共に殺気がふくれあがった。どすどすと足音が近づき、身動きの取れないヴァリスを上から覗き込む。
「お前がお嬢の手を離さないから、わざわざお前を縛り上げて一緒の部屋で眠らせてやってんだろうが。ありがたく思ってほしいね」
「あ? ああ……お前、昨日の狂犬野郎かよ。相変わらずこの女のことになると目の色変わるな」
「誰のせいだと思ってるのかね。というか、そろそろお嬢の手を離せ。お前を始末できないだろ」
「そう言われて離す馬鹿がいんのか?」
「お前の今の格好のほうがよっぽど馬鹿だろ、一国の王子が」
せせら笑う女の殺気は本物だった。彼女にとっては、自分が王子であることなど全く問題にならないのだろう。昨日のルゥルゥが言っていた「アイシャがヴァリスを瀕死に追い込むかも」という発言がにわかに現実味を帯びてくる。
「アイシャ、いけません」
不意に、くっきりとした声が隣から響いた。
毛布を被っていた少女がもぞもぞと顔を出し、ややぼんやりした目で自身の護衛に告げる。
「殺してはダメです。殿下は私の婚約者なのですよ」
「いや、昨日その婚約者に殺されかけてたろうが。やっぱ始末したほうがお嬢のためだ」
「連座で私も首をはねられてしまいますよ」
あっさりと言い、少女はゆるりと身を起こした。
「おはようございます、殿下。今はもう落ち着いていますか?」
「……」
じろりと彼女を睨みあげる。ヴァリスにとって、自分が簀巻きにされていることにはさほど羞恥心がなかった。それよりも、彼女がなんのつもりで昨日の夜、自分を助けたのかが気になっている。
いや、そもそもあれを助けたと判断すべきかは分からない。彼女の護衛兼狂犬はさっきから自分のことを殺したがっているし。
だが、彼女は昨日、確かに言ったのだ。
『……あなたを絶対に助けます、殿下』
あれがどういう意味なのか、ヴァリスには分からない。分かりたくもない。自分に手を差し伸べてきた人間は、悪魔の標的になるだけだ。こんな小さな女ごときに自分を助けられるとは思っていない。むしろ目障りだ。
だから、ヴァリスは喉の奥で笑った。
「おかげさまでな。一晩寝て頭も冷えた。気絶させやがったことも不問にしてやるから、これを解け。体が痛ぇだろうが」
「嘘をつかなくてもよろしいのですよ、殿下」
「あ?」
「悪魔憑きの破壊衝動は、簡単に収まるものではありませんよね。まだ苦しいのではありませんか?」
ヴァリスは目を見張った。思わず身を起こそうとして、ろくに体が動かずに呻く。
「どうしてそれをっ……!」
「昨日の殿下の様子から、そうではないかと。私の母は、呪い渡りとして私にさまざまな知識をくださいました。悪魔憑きのことも、そこで学びました」
片手で器用にヴァリスの拘束を解いていく彼女に、ヴァリスは呆然と呟いた。
「お前……なんなんだ?」
手足が自由になりつつあるが、ヴァリスは混乱でそこから動けないでいる。
「? 殿下の婚約者です」
「いやそういうことを聞いてんじゃねえんだよ……」
ヴァリスがすっかり簀巻きから解放されたところで、ルゥルゥが繋いだままの彼の手を眺めた。
「やはり、まだ少し力加減がおかしいですね……少し失礼します」
「は? おい」
ぴたりと額に手を当てられる。目の下を引っ張られ、喉を少し押された。まるで触診だ。
「殿下、やはり、我慢していますね?」
「……あ?」
「悪魔憑きの破壊衝動は、ただの欲求ではなく生存本能に近いものです。決して抑えこめるものではありません。どこかで発散しなくては」
「……どこか? は、どこだよ、それは」
ヴァリスは思わず笑った。自分の呪いに言及されること以上に腹の立つことはない。適当なことを言われていればなおさらだ。
「お前は知らねえだろうがな。人ひとりを丸い玉にすることだってできる俺に、どうやってこの衝動を発散しろって? 殺してもいい奴隷を毎回連れてきてくれんのか? 俺の婚約者さんよ」
「お前、本当に死にたいか」
後ろですらりと剣を抜く音がした。ヴァリスは笑う。自分の命に執着などない。死ぬのならばそれでもいい。ただ、王子という身分がそれを許さないから生きているだけだというのに。
自分の命を天秤に乗せられて怯える心など、とうの昔に失っている。
「アイシャ、出て行ってください。話が進みません」
きっぱりと少女が言った。鋭い視線がヴァリスの向こうのアイシャを射抜く。
「私は殿下を助けると約束しました。その邪魔をするなら、いくらアイシャでも許しませんよ」
「……お嬢」
「ダメです。これは私が唯一譲れないものです。アイシャだって知っているでしょう? 呪いに関わることで、私が一度だって何かを妥協したことがありましたか?」
長い沈黙が落ちて、深い嘆息が響く。
「そういうところは母親とそっくりだから困る……何かあったら叫びな、お嬢。躊躇するんじゃないよ」
「分かっています」
扉の音すらさせずに気配は消えた。あの女はいつもどこから出入りしているのだとヴァリスは思う。
「お前、あの女にひどいことをしてる自覚はあんのか?」
ルゥルゥはきょとんと目を丸くした。ヴァリスはベッドの上で膝を立て、その上に腕と顎を乗せる。そういえば、どうして自分はこの女と手を繋いだままなのだろうと思った。
「あの狂犬はお前を守りたいだけだろ。その結果、俺の地位にへりくだるよりお前の存在を選んでる。それの何が悪い?」
「殿下は……お優しいですよね。最初から分かっていますけれど」
「あ?」
「もちろん、アイシャには感謝しています。私がここまで育ったのもアイシャのおかげですから。でも……あれは少し、贖罪に近いものですからね」