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第6話

 全てが動いたのは夜だった。

 寝台で眠っていたルゥルゥは、唐突な胸の圧迫感と重みで目を開けた。思わずこんこんと咳き込み、はずみで目を開ける。

 目をやると、愛しい獣が二匹、ルゥルゥの上に覆いかぶさっていた。足でべしべしと顔を叩いてくる。

「ナツ、ソラ……?」

 寝ぼけ眼のまま体を起こすと、二匹の犬はすとんと床に降り立ち、扉の前をぐるぐると回り始める。せわしない。あと、二秒前まで主人の肺を押しつぶしていたことに関しては、何も思うところがないらしい。

「どうしたのですか……まだ夜ですよ……」

 ふあ、と欠伸をしたルゥルゥの前で、みゃあうと声がする。部屋の入口とは違う、もう一つの扉の前で、見慣れた黒猫が鳴いていた。

「ヨル? そちらは殿下の部屋で……」

 ヨルが背にしているのは、いわゆる部屋と部屋を繋ぐ扉だった。ルゥルゥとヴァリスは、扉一つを隔てて隣同士の部屋に寝室を構えているのだ。

 二人は国が決めた婚約者である。しかもルゥルゥは、何度も縁談を破棄されてきた第二王子がようやく捕まえた、新たな婚約者だった。たとえ本人たちが何を言おうと、国は彼女を逃がすつもりがないらしい。

 本当なら寝室も一緒だったはずなのだが、ヴァリスが烈火のごとく怒り狂って、どうにか隣同士の部屋で落ち着いたのだという。

「……殿下に何かあったのですか?」

 ルゥルゥは毛布を跳ね飛ばし、ヨルのそばまで駆け寄る。ヴァリスの部屋に通じる扉にぺったりと耳を当て、息すら止めて様子を伺った。

 物音がしない。

 寝ているにしても、静かすぎる。衣擦れの音一つしないのはおかしい。

「殿下? 殿下、起きていますか?」

 こんこんと扉をノックするが、返事はない。咄嗟にヨルを見ると、夜闇に光る二つの目がこちらをまっすぐに見つめ、ふるふると首を横に振った。

 部屋の中を見渡すと、いつの間にか全ての愛しい獣たちが起きていた。異常事態だと脳が警鐘を発する。

 ルゥルゥは上着をひっつかみ、少し考えて護身用の短剣も共に持った。獣たちの何匹かを部屋に残らせ、扉から外へ出る。

 王宮とはいえ、人の少ない別棟は嘘のように静まりかえっている。春先の少しひんやりとした夜の空気を感じながら、ルゥルゥは裸足のまま回廊を進んだ。目の前には、二匹の犬。

「ナツ、ソラ、殿下のところへ案内してください」

 無言で駆けだした犬たちの後を、ルゥルゥは静かに追いかけた。

 回廊を曲がり、階段を上る。相変わらずこの建物は中身がごちゃごちゃだ。階を上がったかと思えば下がっているし、扉の先にすぐまた扉がある。

 しかし、愛する獣たちは決して道を違えない。絶対に、ルゥルゥの望む先へと導いてくれる。その信頼さえあれば良かった。

「ここ、ですか?」

 たどり着いた先にあったのは、荘厳な飾りのついた扉だった。初めて見る、というか、おそらくここまで来たことがない。ここにヴァリスがいなかった場合、果たして自分は戻れるのだろうか?

 ナツとソラが道を覚えていてくれていることを祈るしかなかった。ルゥルゥはもうすっかり忘れている。

 扉を押すと、意外にも鍵がかかっていなかった。ぎ、い、い……と重苦しい音を立てて、予想以上に重い扉は開く。

「殿下……?」

 中は闇だった。窓もなく、月明かりすら入らない。墨で塗り込められたように暗い部屋の中で、不意に何かが光った。

 瞬間、ナツとソラが同時に吠えた。

 はっと視線をめぐらせた刹那、何かが弾丸のようにルゥルゥ目がけて飛んできた。

 反応する間もなく、脇腹の辺りに衝撃が走り、強かに腰を床へと打ち付ける。ほとんど部屋の中に入っていたため、そのまま中にごろごろと転がりこんだ。部屋の入口で獣たちがもう一度吠えた。

 何……!?

 回廊から射しこむ月明かりが唯一の光源だ。部屋の中も、自分に追突してきた何かもろくに見えない。

 だが、その影が大きく伸び上がって、自分に覆い被さっているのは見えた。

 ――これは人だ!

「殿下……!?」

 仰向けに転がったまま、ルゥルゥは顔があるだろう場所に手を伸ばした。だが同時にナツがばう! と吠え、本能的に手を引っこめる。

 がちん! と音がして、先ほどまで手があった場所で白い歯が光った。

 そのときルゥルゥの視界が、ようやく夜闇に慣れてきた。

 琥珀の瞳が暗闇で光る。耳に届く唸り声は、ナツかソラのものかと思っていたが、違う。目の前の男から発されているのだ。

「殿下、まさか呪いで体が変質を……」

 刹那、言葉を切って息を呑む。彼の額に、ななめに一本、黒い角が生えかけていた。

 呼吸は浅く、瞳は怯えたように忙しなく動いている。肩を掴む力は徐々に近くなるのに、何かをこらえるようにギリギリと歯を噛み締めている。

 思わず凝視した彼の瞳が、琥珀のそれが、じわじわと端から赤く染まっている。同時に、彼の銀の髪がぢりぢりと毛先から燃え始めた――異形のように。

 ルゥルゥはくらりと頭が揺れるのを感じた。これは……これは、呪による変質だとか、そういう生易しいものではない!

 彼女の判断は早かった。懐から取り出した短剣を、鞘のついた状態で振る。同時に彼がぐわりと口を開けて噛みつこうとした。

 がつんと鈍い音がして、鞘はヴァリスの口にがっちりと嵌った。すかさず短剣の両端を握って、簡単に外れないように押し付ける。

 弾みで彼の力が緩んだ瞬間を狙い、ルゥルゥは力任せに体勢をひっくり返す。こうなればもはや意地だ。絶対に、自分は傷つけられるわけにいかない。

「殿下!」

 ヴァリスを床に押さえつけ、耳元で鋭く叫ぶ。今度は彼女がヴァリスに覆い被さるような形になった。

「殿下、正気に戻ってください、殿下! 呪に飲まれてはダメです! ナツ、ソラ、お前たちも手伝って……」

 扉のほうを向いて、ルゥルゥは一瞬ぎょっとする。ナツとソラはヴァリスに向かって唸っているものの、入口から動こうとしない。他の獣たちに至っては、体を震わせて部屋に入ろうともしていなかった。

 怯えている……!?

 ほとんど初めて見る彼らの反応に、ルゥルゥは唇を噛み締め、助力を諦める。彼らを説得している暇はない。

 ヴァリスの力は徐々に強くなる。まるで人間とは思えない。じきに押さえ込めなくなるだろう。

 鞘からがちがちと音がしている。ヴァリスの瞳は未だに何かに怯えたように動いていた。

 そこでようやく、彼は自分からこの部屋に入ったのだと気づいた。獣は等しく暗闇を嫌う。夜は、闇は、彼らに恐怖を与える唯一の形なき存在だからだ。ヴァリスは呪いで我を忘れた自分を、自分でこの部屋に閉じ込めようとしたのだ。

 それを、ルゥルゥが暴いた。破壊衝動も、体の変質も、決して誰にも見られないようにしていた彼の秘密を、土足で踏み荒らした。

 彼女は一度、きつく目を閉じた。彼の額に自分の額を合わせる。

「……あなたを絶対に助けます、殿下」

 逡巡は一瞬だった。

「アイシャ! 来て、アイシャ!」

 強く叫び、全霊をこめてヴァリスを押さえつけた。

 きっかり五拍ののち、天井の通風口ががこんと開いた。上から影が飛び降りてくる。

 影は重力を感じさせない動きで降り立つと、状況をひと目見て、ヴァリスの首に手をかけた。

「殺してはダメです、アイシャ!」

「分かってるよ、お嬢。落とすだけだ」

 彼女は的確に首の動脈を押さえつけ、ぐっと力をこめる。ややあって鞘にかかっていた力が抜け、ずるりと鞘から口を離した。

 咄嗟に彼の胸元に耳を当てるが、鼓動はしっかり響いていた。

 ルゥルゥはほっと安堵する。良かった、息はある。気を失っているだけだろう。

「……それで? お嬢、今度はどんな言い訳をしてくれるんだ?」

 暗闇でも分かる、地を這うような声でアイシャは笑った。彼女はルゥルゥがどこにいたって、呼び声ひとつで自分の元へ来る。今回もそれを分かっていたから呼んだのだが、流石に襲われている最中だとは思わなかったのだろう。

 ルゥルゥはゆっくりと顔を上げると、ヴァリスの口にハマっていた鞘を振る。

「見てください、アイシャ」

 訝しげに眉を寄せた彼女は、護身用の短剣に目をやるなり、ぎょっと目を見開いた。

「お嬢、なんだこれ」

 金属でできているはずの鞘には、くっきりと歯型がついていた。普通、ここまで強く噛み締めたら歯の方が砕けるだろうが、ヴァリスの白い歯は欠けすらなく残っている。

「殿下の力はまるで人間ではありませんでした。言葉も喋れなくなっていましたし、私が誰かもほとんど分かっていなかったようです。それから、これを」

 指し示した先に、まだ完全に消えていない角があった。円錐のような形状のそれにアイシャは絶句する。

 ルゥルゥはちらりと扉のほうへ目をやった。

「ナツとソラも殿下を警戒していて……他の子たちは、怯えていました」

 ナツもソラも、ルゥルゥが愛した獣たちの中では一、二を争うほどに強い。自分と比べて倍の体躯を持つ獣と出会っても、怯む様子ひとつ見せない。現に今まで、ルゥルゥは彼らが怯えたところを見たことがなかった。

 人に対して警戒心がないのも当たり前だ。彼らはみな、人間よりも強いのだから。

 それなのに。

「待て、お嬢。まさか……」

「ええ」

 ルゥルゥは視線をヴァリスへと移した。汗をかきながら呻くようにして意識を失っている男を。

「殿下は、ただ呪われているのではありません。この方は――悪魔憑きです」

 悪魔憑き。この国における呪いの中で、最も罪深いもののひとつだ。

 悪魔はどこにでもいるものではない。特別な方法を使って喚び出すしかないとも、絶望し全てを呪った人間の成れの果てとも言われている。

 悪魔に取り憑かれたものは、誰もが持ちえない強大な力を宿すとも言われているし、その代償に最も大切なものを失うとも言われている。悪魔の存在そのものが珍しすぎて、何もかもが判然としないのだ。建国から五百年は立つテュシア王国でも、悪魔憑きの人間に関してはほとんど記録が残っていない。

 だが、確実に伝わっていることもある。

 悪魔憑きは総じて、人としてあるべき姿を失っている。

 人はその身に耐えきれぬほどの呪を浴びると体が一時的に変質するが、悪魔憑きのそれは全く異質なものだと聞く。ルゥルゥは彼の黒と琥珀の瞳を思い出した。あの美しさは、歪なものだったのだ。

「殿下の目、あんなに綺麗なのに……」

 残念そうに肩を落とすルゥルゥに、アイシャは顔をひきつらせた。

「あの目を見てそんなこと言うのはお嬢くらいだろうよ……というか、それが本当なら、こいつの呪いはもう、ほとんど解けないようなもんじゃないのか?」

「……そうですね。悪魔憑きに対処するには、鎮石しずめいしを見つける以外に方法がありません」

 かつて、テュシア王国は悪魔と魔物が跋扈ばっこする、人などとても住めない土地だった。それを、建国の主が大地に悪魔を封じこめ、その上にテュシアを作ったのだ。そのとき、悪魔を封じるのに使われたのが鎮石である。

 以来、悪魔憑きには鎮石が有効だと言われている。しかし、それがどのような石なのか、どのようにして使うのか、どれほど悪魔に有効なのかは伝わっていない。

 アイシャは気まずそうに顔を歪めた。

「哀れな……鎮石なんて、誰も形すら知らない代物だぞ。悪魔憑きをどうにかするなんて、土台無理な話だ」

「いいえ」

 ルゥルゥはきっぱりと否定する。

「殿下は私が助けます」

「鎮石を探すつもりか、お嬢」

「あるいは、他の方法を。鎮石以外に悪魔憑きを改善する方法がないだなんて、誰も言っていませんし」

「それは……」

 苦い顔でアイシャが黙りこむ。ルゥルゥは微笑んだ。

「今まで誰も助けられなかったからといって、今回も助けられないとは限りません。違いますか? 百人が失敗したことは、百一人目が失敗することの証明にはならないのですよ」

「……どうしてお嬢がそこまでする? 婚約者だからって、王子だからって、お嬢がそこまで尽くす義務はないはずだ」

 ルゥルゥは驚いた。

「尽くす? 私が? 殿下に?」

 本気で不思議そうな顔をした少女に、アイシャのほうがたじろぐ。

「違うのか? ならどうして?」

「どうしてって、それは……」

 そのとき、不意に呻き声が響いた。はっと視線を戻すと、ヴァリスの手が、迷い子のように空中をゆらりとさまよっていた。ルゥルゥは迷わずその手を掴む。

 手が触れた瞬間、ヴァリスは折れそうなほどの力で指を絡めてきた。縋るような強さだった。

「アイシャ、まずは殿下を運びましょう。このままでは風邪を引いてしまいます」

「……分かったよ」

 嫌そうな顔をしながら彼を担ぎあげたアイシャを見て、ルゥルゥは彼と手を繋いだまま目を細める。

「まあ、アイシャ、本当に頼りになりますね」

「お嬢は調子のいいことばかり言う……」

 苦虫を噛み潰したような顔で、彼女は細くため息をついた。



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