ルゥルゥはひと目見て、彼の状態を察した。
「……殿下、あの方、
テュシアという国はその昔、ひどい呪詛に侵された土地だった。先人が呪を封じ込め、長い時間をかけて土地を浄化し、なんとか人が住めるような場所にしたのだ。
だが、未だに国のあちこちには呪が湧き出す場所があり、そこに長時間留まると、人は土地に呪われてしまう。理性も何もない獣になり、人を害するという悪意だけが残る。混ざりモノが生まれるのと同じ仕組みだ。
大地からの呪が、人を呪うのだ。
ヴァリスは舌打ちをした。
「見りゃ分かんだよ。大方遠征先かどっかでヘマやらかした兵だ。クソ……今日は厄日かよ」
男が唸り声を上げて突進してくる。咄嗟のことで、ルゥルゥは思わず犬たちに叫んだ。
「ナツ、ソラ、殺してはダメです!」
今にも男に飛びかかろうとしていた犬たちが、主人の言葉でわずかに迷った。その瞬間、男は完全に照準を二人に定める。
まずい、この距離では……!
せめてヴァリスの無事を確保しようと、咄嗟に彼をつき飛ばそうとしたルゥルゥの手が、何故かがっちりと掴まれた。
「えっ?」
「解呪師は何してやがる……! あの変人ボンクラ共が!」
ヴァリスはぐいとルゥルゥの腕を引き、自らの背に隠すように移動させる。瞬間、男の口ががぱりと開いた。ずらりと並んだ歯は、もはや牙と言っていいほどに鋭い。呪による変質が始まっているのだ。
あろうことか、ヴァリスは自分の腕を男の前に突き出した。止める間もなく、がつん、と衝突音がする。歯と骨がぶつかった音だ。
「殿下!」
拳が男の口に食い込み、ひっきりなしに血があふれている。ルゥルゥの顔からざっと血の気が引いた。
「クソが! てめえ、俺の宮殿で好き勝手してんじゃねえ!」
そのまま力任せに腕を振り、彼は男を地面に引きずり倒す。片手が血に染まるのも構わず、彼は男の額をもう片方の手のひらでうちすえ、こめかみに青筋を立てて叫んだ。
「影なら青く、夜に嘯け、この身はお前の血の刃!」
瞬間、彼の手のひらが触れている部分が黒く輝いた。
きん、と澄みきった音がして、男の体が一度大きく跳ねる。がくんと電流が走ったように動いたかと思うと、ぐるりと白目を向く。瞬く間にその場は静かになった。
おそらく気絶しているのだろうが、ルゥルゥはそれどころではなかった。今のは――今のは、人を、呪うための言葉だ。
しかしすぐにハッとして、ヴァリスのもとへ駆け寄る。
「殿下、手が!」
くっきりと噛み跡のついた手から、だらだらと血が流れ続けている。ルゥルゥは目眩がした。咄嗟に懐から取り出したスカーフを傷に当てるが、強く振り払われてしまう。
「触んじゃねえ!」
彼は額に脂汗をかきながら浅い呼吸をくり返していた。痛みで意識が飛びかけているのかと思いきや、怪我をしていないほうの手で自分の二の腕をぎりぎりと掴んでいる。鬱血するような強さだ。
ルゥルゥは一瞬ぽかんと口を開けた。
「殿下……もしかして今、呪いが発動しているのですか……?」
「殿下!」
そのときだった。ナギとアイシャが別棟の入口から駆け寄ってくる。二人とも少し衣服が乱れていたが、怪我をしているような雰囲気はない。
ルゥルゥは一瞬安堵して、すぐにヴァリスのことを思い出す。
「ナギさん、アイシャ! 殿下が……!」
異様に汗をかいているヴァリスと、そばに見知らぬ兵士が倒れている状況を見てとり、ナギが顔色を変える。
「殿下、あなたまた呪いましたね……!?」
「うるせえな、ほっとけって言ってんだろうが!」
脂汗を滲ませた彼が、手負いの獣のように叫ぶ。ルゥルゥは咄嗟に動いていた。
「ツクシ」
呼び声に従って、一匹の蛇がするりと彼女の腕を上る。
「いい子ですね。殿下を助けてさしあげて」
蛇はルゥルゥの手をつたい、ヴァリスの首にするりと絡みついた。彼はぎょっと固まったが、すぐに気の抜けた顔で蛇を見つめる。痛みが少し引いたのだろう。
「おい、お前……どうなってる」
「応急処置をしました。その子には呪いを渡らせる力があるんです。あ、ちょっと待ってくださいね――
懐から透明な宝石を取り出し、倒れた兵士の額にとんも当てて呟く。宝石がかすかに白く光り、痙攣していた兵士の動きが止まる。尖っていた歯が元の大きさに戻っていく。
「お前……
「いいえ、私は……私と私の母は『
「いると思うか? 別棟に幽閉されてる、呪われた王子に」
ヴァリスは皮肉げに笑って肩を竦めた。まだ脂汗が額に浮いているし、呼吸も浅い。ツクシの力でも、おそらく気休めにしかなっていないのだ。
「では私が手当てを。ナギさんとアイシャはこの兵士の方を医務室へ連れていってください。……アイシャ、否は認めませんからね。殿下の体にはまだこの兵士の呪が残っているかもしれませんから」
てきぱきと告げ、なかば呆然としているナギとアイシャに兵士の体を押しつける。
ヴァリスは、意外にも素直にルゥルゥに付いてきた。もう抵抗する気力がなかっただけかもしれない。それでも良かった。
「……お前、気づいてたろ」
別棟の一室、救急箱のあった部屋で手当てを受けながら、ヴァリスはぎらぎらとした眼でルゥルゥを見下ろす。相変わらず、呼吸の頻度は増していく。
「殿下が、あの兵士の方を呪ったことをですか?」
包帯を巻きながら彼女は答えた。
「あれは……人を呪うための言葉でした。殿下はあの兵士の方を強く呪うことで、元々あの人の体を侵していた呪を打ち消したのですね。呪いは現象ですが、それを引き起こすのは『呪』と呼ばれるエネルギーです。一応、理論的には、打ち消すこともできるでしょう。逆方向に引き合った糸が、動いていないように見えるのと同じです」
だが、普通は呪いで呪いを打ち消そうとはしない。力の差を読み間違えたとき、その反動は術者に――打ち消そうとした者に返るからだ。
「殿下は……呪いの才がおありなのですね」
「違えよ。俺は呪い以外に才がねえだけだ」
彼の手が震えている。恐怖でも寒さでもなく、身のうちに巣食う呪いの影響だ。
「俺には解呪の才能がねえ。というか、解呪だけができない。呪うなんてのは誰より簡単にできるのに、解くことだけが、何をやってもできねえ」
ひきつるように動く手と、荒くなる呼吸。
黒く染まった眼がぎらりとルゥルゥを見た。反射のように立ちあがると、手当てをしていたルゥルゥの手をガッと掴み、斜め上から瞳をのぞきこむ。
「お前……呪い渡りっつーのは、なんだ? 解呪師とどう違う? お前は呪いを解く才能があるのか? 天才と呼ばれる解呪師の長も、俺の呪いに対しては匙を投げた。お前は? お前は才があるか?」
「殿下、落ち着いてください、傷が……」
「答えろ!」
眼前で吠えられて、しかしルゥルゥはびしりと答えた。
「座ってください。でないと答えません」
新緑の瞳が、決して逸らされずにヴァリスを見る。彼は虚を衝かれたような顔で黙ると、すとんとその場に座り直した。
「呪い渡りとは、厳密には、私の母のような人を差します。私の母は、国から国へ渡りながら、呪いを『渡らせる』力を持った、流浪の民でした。私の力は、全て母から習ったものです」
ヴァリスが眉をひそめる。
「呪いを渡らせるってのはなんなんだ。解くのとどう違う」
「言葉通りです。私たちにとって、呪いはかけるものでも解くものでもありません。呪いは移動するものです。地面に染み込んだ呪が人に渡ると先ほどの兵士のようになり、人の嘆きから生まれた呪を別の人間に渡すことを『呪う』と呼ぶのです。私たち呪い渡りは、誰かが呪に侵されていたらそれを自分の身のうちに渡らせ、また誰かに移し、時には動物や大地に還す……そうやって呪いを移しています」
瞬間、すさまじい動きでヴァリスの手が両肩を掴んだ。咄嗟に悲鳴を飲み込む。
「俺の呪いは移せんのか!?」
「っ、呪いによります! 殿下の呪いはどのようなものなのですか? 詳しく分かれば、呪いを渡らせることができるかもしれません」
刹那、ヴァリスは息を呑む。肩を掴む力が弱まり、苛立たしげに唇を噛んだ。
「なんでお前に……そんなことを教えなくちゃいけねえんだよ」
ルゥルゥはきょとんとする。呪いの詳細が分からなければ、呪いを渡らせることはできない。
首を傾げていると、彼は一瞬だけバツが悪そうな顔をした。しかし、すぐに不機嫌な顔に戻る。
「……もういい。クソ、また振り出しかよ」
言って、ふらりと立ち上がる。ルゥルゥは咄嗟に彼の手を掴んだ。
「ダメです、殿下! 寝ていてください!」
「触んじゃねぇよ……!」
やや弱くなっているものの、それでも十分な力で振り払われる。手負いの獣のような目がルゥルゥを見据え、皮肉げに歪んだ。
「寝ろ……だ? 今日初めて会ったてめえの前でか?」
「私、何もしませんよ? 婚約者だからといっても節度は守ります」
「そういうことを言ってんじゃねえんだよ」
呆れた声がたまに掠れている。手はまだかすかに痙攣しているし、こめかみから脂汗だって流れ続けている。呪いを使ったことで、彼の体にある呪いが反応しているのだ。
「こいつももう要らねえ。お前の腕にでも巻いとけ」
ぽいと投げられたツクシはしなやかに床へ降りたって、あっという間にルゥルゥの肩まで這い上がってきた。
「いいか、もう俺の前で呪いの話はするな。俺の部屋にも来るな。俺に眠れなんて言うんじゃねえ」
矢継ぎ早に言うと、彼は勢いよく扉を開け、部屋を出ていってしまった。
ルゥルゥはそのときふと思い出した。かの第二王子は、自身の呪いを解きたがっていながら、呪いについての話が嫌いなのだと。
実の母親に、呪いをかけられたから。
「どうしましょうね、ツクシ」
指の間をするすると這う蛇は、慰めるようにルゥルゥの頬をつつく。
「お前がついていても気休めにしかならないなんて……殿下は、どれほど強い呪いを受けているのでしょうか」
明らかに正常ではなかった彼を思う。ルゥルゥはあの目を知っている。傷ついた獣と同じ目だ。
するりと蛇が頭をもたげて頬にすり寄ってくる。ルゥルゥは小さく笑った。
「そうですね、ツクシ。諦めるわけにはいきません。私、殿下の婚約者ですから」
蛇の頭をちょいと撫でて、ルゥルゥは決意の宿る目で、彼の消えた方向を見つめた。