ナギの言う通り、その建物はあちこちが奇妙な構造をしていて、ルゥルゥはもはや感心していた。通常の屋敷のような造りをしているかと思えば、階段を上がった先の回廊が吹き抜けになっていたり、かと思えば回廊をまたぐように斜めに階段が走っていたりと、まるで異空間のような雰囲気がある。
確かにこれは初めて来たら迷うだろうと思いながら、ルゥルゥは足を止めずに走った。ナギは従者として己を律しているのか、はたまた、身長差がある二人で手を繋いでいるせいで上手く走れないのか、ルゥルゥの後ろを追うように走っている。
彼が右や左と言うのに合わせて足を進めて、しばらく経ったときだった。
「次の角を曲がれば殿下の部屋です!」
「はい、ありがとうございま……」
お礼を言いながら勢いよく回廊を曲がった瞬間、目の前に壁が出現した。
「きゃあっ!?」
今まで全力で走っていたのに急に止まれるわけがなく、ルゥルゥは額を勢いよくぶつける。どん! という衝突音がして、彼女の体が後ろに傾いた。
あ、倒れる。
反射的にそう思ったが、刹那、素早く二の腕が掴まれる。ぐんと体勢を無理やり立て直され、ルゥルゥは壁だと思っていたものが人間の胸元であったことに気づいた。
「まあ、ありがとうございま……す?」
顔を上げたルゥルゥは、そこで呆然と言葉を止めた。
目の前に立っている人間が、異様な色彩を放っていたからだ。
高くひとつに結わえられた髪が、窓からの陽の光を浴びて、まるで銀糸のように煌めいている。おそらく元は少し青みがかった色なのだろう。時折、髪の隙間が暗く光っている。
やや病的な肌からはおよそ血色が感じられず、指や腕も、引き締まってはいるものの骨が浮いていた。目の下にもうっすらと隈があり、寝不足なのかもしれないと思う。
だが、ルゥルゥが釘づけになったのは、その顔にはめこまれた、一対の瞳だった。
眩むような琥珀色の瞳。人間とは思えない色のそれはやや鈍い光を反射して、ルゥルゥをまっすぐに見据えている。
そして本来、白目であるはずの部分が、墨を流しこんだかのように、黒い。
光と影が同居したような存在だった。ぞっとするような深い闇が、彼の瞳から這い出てくるようだ。
「あなた、は……」
「殿下! 部屋で待っててくださいって言ったでしょう!」
後方から響いた叫びに、ルゥルゥは目を丸くする。
ナギが、この場所で殿下と呼ぶ存在は。
「あなたが、ヴァリス・テュシア殿下なのですか?」
男は答えなかった。ルゥルゥの腕を掴んだまま、気だるげに彼女の後方を見やる。
「おい、ナギ。こっちに近寄れ」
「は?」
「いいから来い」
粗野に言い放つ彼に、ナギはやれやれという顔をして近づく。
「なんですか……」
そのときだった。彼との距離が数歩まで近づいた瞬間、ヴァリスはナギの腰にあった得物の柄を握り、一気に引き抜いたのだ。
「は?」
すらりと得物がその身をあらわにする。通常の剣に比べて細すぎる銀の刃だ。両刃で重量がある剣とは異なり、それは片刃で、片手でも扱えそうなほどに軽く見える。ルゥルゥは以前、父の部屋の書物にあった図録を思い出した。
東方で扱われる、刀と呼ばれる武器だった。
ルゥルゥを片手で捕まえたまま、男はその武器を構える。
ルゥルゥの喉元。急所である頸動脈に当てて。
「な……にしてんですか!」
「黙ってろナギ……おい、答えろ。女」
額に手を当てたナギを無視して、男はぎろりとルゥルゥを見やる。
「お前、本気で俺と結婚する気があるってのか? 父親の地位固めのためか、あるいは金目当てか? 言っとくが、俺は俺に怯える女と結婚なんざ殺されてもごめんだからな。反吐が出る」
せせら笑うような言葉とは裏腹に、彼の瞳はぎらぎらと憎悪に燃えている。気に入らない言葉を聞いたが最後、彼の持つ刃がさっくりとルゥルゥの命を奪う――そんな雰囲気が漂っている。
だが、ルゥルゥは答えられなかった。目の前の双眸があまりに衝撃的で、言葉も出ない。
「あ? お前、この目が気になんのか? ……ハハハッ! 怯えて声も出ねぇか……」
目が全く笑っていない。地獄の底から響いてくるような声で、男は首の皮ギリギリに刃を押し当てる。
「ふざけんなよお前。俺のことが怖いなら結婚なんざ承諾してんじゃねえよ。どいつもこいつも目ぇ見た瞬間逃げやがって……なんで俺がお前らみてぇな、礼儀も何もねぇ奴らに敬意払わなきゃならねえんだ。兄貴の言いつけじゃなきゃ、全員呪い殺してる」
つらつらと語られる言葉はまるで王子とは思えず、ナギはとうとう頭を抱えた。
だがそのとき、ルゥルゥが緩やかに手を伸ばす。
「その、目……」
「あ? ……おい」
自分が首に凶器を押しつけられていることなど目にも入らないと言わんばかりに、少女は男の頬に手を伸ばした。ヴァリスは咄嗟に眉をひそめる。
だが、彼女の手は止まらず、とうとう彼の頬をぴったりと挟んで言った。
「すごく、綺麗……」
「……あ?」
「それは……どうなっているのですか? どうしてそんなにくっきり黒くなっているのですか? いつからそうなのですか? 痛みはないのですか?」
「おい……」
矢継ぎ早に投げかけられる質問と共に、ルゥルゥが一歩踏み出す。当然それは、刃に首を押しつける行為だ。男のほうがぎょっとして、咄嗟に凶器を引いた。
「てめえ、何して……!」
「こんなに美しい目をしている人、今まで見たことがありません……!」
瞬間、ヴァリスが息を呑んだ。瞬時に刀をがらんとその場に捨て、ルゥルゥの両肩を掴む。顔をぐっと覗きこまれて、視界いっぱいに金と黒が広がった。
「てめえ……本気で言ってんのか?」
「? こんなことで嘘はつきません。その瞳はどうなさったのですか?」
「ハッ……お前、相当の馬鹿か、それとも箱入りが過ぎんじゃねえのか? 俺は生まれたときからずっと呪われてる。その証の一つがこの目だ」
ルゥルゥは言葉を詰めた。つまり、呪われたことで、白目が黒く……?
ヴァリスはそんなルゥルゥを見て、むしろ嬉しそうに笑った。
「なんだ、今さら怖気づいたってか?」
「……それは痛いのですか?」
「……何?」
「痛みはありますか? 視界に何かおかしなものが映ったりは? 視野が狭くなったり、ぼやけたり、視力が急激に落ちたりしましたか?」
またしても矢継ぎ早に問うルゥルゥに、ヴァリスが睨むようにして問う。
「なんなんだ、てめえ」
「あなたの婚約者です、殿下」
にっこりと微笑む。
「ご挨拶が遅れてしまってすみません。私、クレイディ伯爵家の娘、ルゥルゥ・クレイディと申します。お会いできて光栄です、ヴァリス・テュシア殿下」
「……お前、そんな変な名前だったのか?」
「私のことをご存知なのですか?」
「釣り書みたいなのをそこのナギに押しつけられた。適当に見ただけだからお前のこともほとんど顔しか知らねえ」
「この……馬鹿殿下が……」
底冷えのする声で刀を拾い上げ、鞘に収めたナギが言う。
「あんた、礼儀ってもんがないんですか! 婚約者の方は丁重に扱うようにって俺言いましたよね!?」
「丁重に扱ってどうなんだよ。大抵の奴らは逃げるだろうが。下手に出るだけ時間の無駄だ」
「そこのご令嬢は逃げなかったでしょうが!」
ヴァリスがぐっと言葉に詰まる。ルゥルゥはにこにこと笑って、ヴァリスの腕を掴んだ。
「はい、逃げません」
「何を笑ってんだてめえはよ……」
「だって、こんなに美しい方だとは思いませんでしたから。逃げるわけがありません」
ヴァリスはとうとう気色の悪いものを見る目になって、ルゥルゥの体を上から下まで眺めた。
「……お前、何言ってんだ?」
どうやら理解を諦めたらしい。彼は一歩後ずさるが、腕を掴んでいるので距離が離れるわけがなかった。ルゥルゥはずいと顔を寄せ、彼の黒い目をじっと見つめる。
「本当に綺麗に染まっていますね……呪いは生まれてまもなく受けたものと聞きましたが、そのときから黒いのですか?」
「てめえ、喧嘩売ってんのか? でなけりゃこんなとこに閉じこめられてるわけねえだろうが」
ルゥルゥは首を傾げた。それは、彼の呪いが
「それが不思議なのですが……今まで、殿下の周りで、殿下と同じように目が黒くなった方はいたのですか?」
「そんなやつがいたら今頃俺は絞首刑にでもなってるだろうよ」
「では、それは伝染る可能性がごく低い呪いなのでしょうね」
あっけらかんと告げたルゥルゥに、彼は眉をひそめる。
「何?」
「対象を広く取った呪いの場合、同じ症状が複数の人に出ることはあります。ですが、そこまで特徴的な症状が周りに広がっていないのなら、その呪いに大した感染力はありません。その証拠に、ほら」
ルゥルゥはまるで躊躇なく、ヴァリスの剥き出しの手をきゅっと握った。彼が瞬間的に硬直するのを見ながら「ね?」と微笑む。
しかし、その手は素早く振り払われ、代わりに片手で頬を雑に挟まれた。
「いひゃいでふ、でんふぁ」
「どういうつもりだ? 俺に取り入っておけとでもお父様に言われたかよ? 目が綺麗だのなんだの、心にもないこと言って楽しいか? 薄っぺらい好意でも向けときゃ、俺がすぐに懐くとでも思ったか?」
ぎらぎらと輝く瞳の中にあるのは怒りだ。だが、ルゥルゥにはなんとなく、彼が泣いているように見えた。
彼の手を掴む。熱湯でもかけられたかのようにはねる指を握って、頬から手を外した。
「いいえ、殿下。私、嘘は言いません。あなたの目は綺麗ですし、あなたに触るのも好きです。あなた自身のことも、これからもっと好きになれそうだと思います!」
「……お前、頭わいてんのか? 根拠はどこにあんだよ」
「勘です!」
「馬鹿なのか?」
言って、彼はびしりとルゥルゥの額を指で弾いた。視界の端でナギが頭を抱えている。
だがそのとき、不意にヴァリスが弾かれたように顔を上げ、素早く後ろに飛び退いた。
瞬間、今までヴァリスがいた場所にびゅんと一振りのダガーが飛んできて、床に斜めに突き刺さる。
「は……?」
「お嬢に何をしてる、このケダモノが」
地を這うような声で言ったのは、窓から上半身を出したアイシャだった。どうやら外壁をよじ登ってきたらしい。ルゥルゥが唖然と声を上げる。
「アイシャ、ヨルたちはどうしたのですか?」
「そこらにあったマタタビと猫じゃらしとあたしの上着を囮にしてきたよ。さて、お嬢……後で説教だ」
「それは……ちょっと遠慮したいですね」
曖昧に微笑む。アイシャの説教はそこまで怖くはないが、ひたすら長いのだ。
しばし考え、ルゥルゥはヴァリスの腕を掴んだ。
「逃げましょう、殿下」
「は? お前の護衛かなんかじゃねえのかあれ」
「だからです。アイシャの優先順位には私がいるだけで、地位とか立場とかいう言葉はないんです。このままだと良くて殿下が瀕死になります」
「お前とお前の周りに常識とかいう言葉はねえのか?」
「殿下が言うんですかそれ」
ナギが呆れた顔で肩を竦めた。
「随分と悠長だ、なぁ!」
窓の枠を蹴りつけ、アイシャが素早く跳躍する。振り上げられたダガーがヴァリスを狙うが、その前に素早く入った影があった。
がきん! と金属が擦れ合う音がして、ナギが抜いた刀がアイシャのダガーを防ぐ。
「殿下、今はちょっと本当に逃げてください! この人本気です!」
「マジかよ」
「アイシャはいつでも真剣ですから。というわけで逃げましょう、殿下」
のんびりと呟いて、ルゥルゥが階段のほうに向かって彼の腕を引く。だが、ヴァリスは眉をひそめて大きく嘆息した。
「チッ……面倒だな。おい、そっちだと遅い」
言って、彼は回廊を少し進んだ先にある、部屋の扉の前に立った。右手を素早く扉に当てたかと思うと、ココン、ココココン、コン、と何やらリズミカルに扉を叩き始める。
何度か回数とタイミングを変えてノックした後、彼が扉を開ける。
そこには、何故か外の景色が広がっていた。
「……!?」
「顔だけでもだいぶうるせえなお前」
呆れたように言いつつ、彼はひょいとルゥルゥの体を持ちあげた。抱えるというより、肩に担ぎあげる体勢である。
そして躊躇なく外へと踏み出す。ふわりと腹の奥が浮いたような感覚があった。――ここは四階だ。
「きゃ、あああああっ!?」
「うるせえ!」
いやここ四階――! と叫びかけたルゥルゥだったが、着地は意外と早かった。加えて衝撃も軽い。ちょっと大きくジャンプして着地したくらいの反動である。
咄嗟に後ろを振り向けば先ほどまでいた別棟の壁が見え、近くの兵舎からは打ち合い稽古の音が聞こえる。すとんと下ろされたルゥルゥは目を瞬かせた。
「ど……うして、部屋の扉が外に……?」
「空間やら何やら切り取って、ちょっと飛び降りれば外に出られるようになってんだとよ。つーかナギから聞いてねえのか? ここは昔、解呪師の奴らが残したおかしな仕掛けがそのまま残ってんだよ」
それは聞いたが……
「部屋の扉を外に繋げて、何を……?」
「よく分かんねえが、わざわざ一階まで下りて外に出んのが面倒だとか言ってたな」
「おかしな方向に努力する方がいるのですね……」
どう考えても、空間を切り貼りするほうが面倒だと思うのだが……
そのとき、足元にするりと猫や犬たちが寄ってきた。訝るヴァリスの前で、ルゥルゥがぱっと顔をほころばせる。
「まあ、ヨル! おかえりなさい、よくアイシャを足止めしてくれましたね……! ああ、もちろん、お前たちも偉いですよ。今度ちょっと高めのご飯をあげますからね」
慣れた手つきで猫の喉を撫で、犬の腹を掻き回し、手の中でころころとハムスターを転がす。動物たちは幸福そうな顔でごろりと横たわり、主人からの「褒め」を存分に受け取った。
「お前……俺の敷地に何を持ちこんでんだ」
「あ、殿下も撫でますか? この子たちはですね、ええと、左からヨル、ナツ、ソラ、ツクシ……」
「撫でねえし聞いてねえし長ぇ。何匹連れこむ気だよ」
「気づけば増えているので……二十くらいはいるでしょうか?」
ドン引きするヴァリスの前で、犬たちが「撫でますか? 撫でますか?」という顔で腹を見せている。
「ほら、殿下のこと好きですって!」
「てめえは何がそんなに面白いんだよ、気色悪りぃな……」
瞬間、犬たちが一斉に立ち上がった。一瞬で目に警戒心を宿らせ、ぐるぐると低い唸り声をあげ始める。
「ナツ? ソラ?」
「……何かいるな」
ヴァリスが目を細め、隙のない動作で周りを見回す。黒と琥珀の混ざった瞳がぐるりと辺りを観察し、ややあってある一点を見つめた。犬たちも同じ場所を見ている。兵舎のある方角だ。
ややあって、別棟の影からそれは現れた。
兵士の格好をした男だ。遠征帰りなのか、彼の服はやや薄汚れていて、顔も泥や土汚れが目立つ。
だが、重要なのはそこではない。
目は血走り、口からはだらりと涎をこぼして、屈むような姿勢でふらふらと歩いている。ぎょろぎょろと目を動かしながら、時折獣のように唸っている。ぐるりと首が動いて、男は二人を視界に捉えた。