春もなかばとなったテュシア王国の王都カロス――その一角にある壮麗な屋敷には、王宮の大庭園にも見劣りしないほど広い中庭がある。古今東西の植物を集め、見事に調和させた作品のような中庭だ。
そこに、一人の少女が立っている。
ややくすんだ藍色の髪と、春の陽気をつめこんだ新緑色の瞳。齢十九という、やや行き遅れた歳の割には幼い顔つきだが、その造形は職人が丹精込めて作り上げたビスクドールのようだった。
彼女は、名をルゥルゥという。この屋敷を所有するクレイディ伯爵家の一人娘であり、庭を管理する主でもある。
そんな少女の目の前には、すさまじく大きな檻があった。
人が三人は立ったまま入れるような檻だった。まるで自然そのものの環境の中に、無骨な鉄製のそれがどどんと置いてあるのだ。違和感極まりない。
だが、檻の目の前に立つルゥルゥもまた、奇妙な出で立ちをしているのだった。
ぴんと伸びた背筋は美しく、身に纏う淡い色のドレスは落ち着いた意匠ながらも質の高さを感じさせる。彼女自身も、一歩を踏み出すときですら音もなく動く。まさに見た目は貴族の娘のそれだ――しかし、何故か少女の頭の上には、一匹の黒猫が乗っているのだった。
「こら、あんまり身を乗り出すと落ちてしまいますよ、ヨル」
柔らかくたしなめると同時、猫はみぃあう、と高く鳴いた。はっしと獣の両手で頭を鷲掴みにされているが、少女は気にした様子もなく笑っている。
不意に、檻の中からからガアン! とすさまじい音がした。少女はさっと檻に視線を戻す。
「ああほら、大丈夫ですよ、こっち、こっち」
綿毛のような声を出しながら、檻の中に手を伸ばす。
瞬間、後方でか細い悲鳴が上がった。
「お、お嬢様……! ルゥルゥお嬢様……! 危のうございますよ、離れてください!」
「そうですよ! そんなもののそばに行ったら死んでしまいます!」
限りなく声を細めて諌めるのはクレイディ伯爵家の侍女たちだ。中庭と屋敷とを繋ぐ回廊の柱に身を隠しながら、ちらちらとルゥルゥを見ている。
だが、彼女は檻から目を離さず、朗らかに笑って言った。
「大丈夫ですよ、この子は優しいですもの」
「何が大丈夫なんですか! 死にますって! 虎ですよ!?」
悲鳴のような声が上がる。そう、彼女の前にある檻の中にいたのは、一匹の虎だった。
全身が雪のように白い虎だ。毛並みには汚れ一つなく、澄んだ青空のような目が、陽光を受けて瞬きのたびに輝く。それだけを切り取って見れば美しい虎だ。
しかし、何故かその額には一本の黒々とした角が生え、鋭い牙を生やした口からはだらだらと涎が垂れている。白かった毛並みは徐々に黒く染まっていき、唸るたびに体がみしみしと音を立てながらふくれ上がり、瞬く間に檻の中を埋めつくしていく。どう見ても普通の虎ではない。
だが、ルゥルゥはまるで怯えることなく手を伸ばして言った。
「あなたをそこから出したいので……ええっと、もう少し近づいていただけますか? 体をふくらませるのでも構いませんが……」
「よくありません! 檻が壊れたらどうするんですか!」
至極当然の悲鳴を聞き流して、ルゥルゥはにこにこと笑っている。侍女たちは頭を抱えた。
「ああもう、お嬢様の猛獣狂い!」
「アイシャさんもなんとか言ってやってください!」
彼女たちが視線を向けた先には一人の女がいた。中庭の壁に背を預けて悠々と立ち、戦士のような出で立ちをしている。元傭兵である彼女は、癖なのか、立ち姿にも一切の隙がない。
わけあって、今はルゥルゥの護衛である彼女は、ざんばらに伸ばした髪を揺らして笑った。
「無理言うんじゃないよ。お嬢にそんなこと言って、聞いた試しなんかなかっただろうさ」
快活に笑うアイシャに、侍女たちは言葉をなくす。
「あ」
そのとき、ルゥルゥがふと声を上げた。
「取れました……! これで貴方を出せますね」
彼女はその手に檻の鍵を握っていた。虎の首輪にかかっていたものだ。虎を檻から絶対に出さないために、虎自身に鍵を守らせていたのである。
全く悪趣味なことをする……と思いながら、ルゥルゥは躊躇なく檻の鍵を開けた。
「お、お嬢様!」
侍女たちが今にも倒れそうな悲鳴を上げ、虎の目がぎょろりとルゥルゥを向く。瞬間、虎は弾丸のように檻を飛び出し、前足でルゥルゥを押し倒した。地面にばらりと藍色の髪が広がる。
ずらりと並んだ牙が光り、ぐるぐると喉が鳴る。彼女の顔のそばにぼたりと涎が落ちた。
あ、ダメだ、食われる――と侍女たちが思ったときだった。
「あなたたちは本当に綺麗ですねえ」
少女はふんわりと笑って、虎の頬を撫でた。そのままぎゅっと首に抱きつき、喉の下を撫でる。
「あなたは東の部族の中で、処刑の道具に使われていたと聞きました。無理やり人を食わされて、言うことを聞かなければ鞭で嬲られて、最後には呪に侵されて……檻の外で、どうやって生きたらいいか、分からないのですよね?」
虎が一瞬困惑した様子で動きを止めたが、ルゥルゥは構わず虎の毛並みを撫でくりまわした。
「生きるために人を襲ったのではなく、自分の意思で呪に侵されたわけでもないのなら……あなたは自由になれます。私があなたを生かします」
言って、少女は身を起こすと、懐から指先ほどの大きさの一枚の宝石を取り出した。それは薄く加工されており、向こうの景色まで見えるほどに透き通っていた。
彼女はゆっくりと腕を持ち上げ、虎の黒い角にとんと宝石を当てた。短く息を吸い、朗々と言葉を紡ぐ。
「安息香 椿 ひなげし 山丹花」
滔々と言葉を落とす。歌のような、詩のような、叫びのような何かだ。
瞬間的に、その場にぶわりと風が吹いた。誰もいないのに、何もないのに、明確に何かがいる、とその場の全員が思った。さらさらと揺れる植物の葉が、擦れて散って、ひそやかな笑い声のように響いている。
誰もが彼女の言葉を待っている。春の、麗らかな風のごとき言葉を。
「青い波 薄暮 爛漫 花あかり――狭間のように、笑って、六花」
とぉん、と角を叩く。虎は一度ゆっくりと瞬きをした。じわじわとその毛並みから黒が消えていき、目に光が戻っていく。
「ほら、大丈夫」
みゃあう、と猫が鳴く。虎はじろりとそちらを見たが、黒猫は爛々とした目で虎を見つめるばかりだった。
「ヨルもそう言ってます」
虎はもう一度ぐるりと喉を鳴らして、ルゥルゥの手に頬をすりつけた。押し倒していた前足をどかし、まるで彼女が自分の主かのように、ぺたんと座って見下ろしている。
侍女たちは一気に力が抜けたらしく、全員へなへなと座りこんでしまった。
「よ、良かった……今度こそ本当に死ぬかと……」
「お嬢様、なんであなたはそう考えなしに混ざりモノに突っ込んでいくんですか!? 馬鹿なんですか!?」
「あっはっはっは!」
アイシャが堪えきれずに笑って言う。
「お嬢が馬鹿なのだって今に始まったことじゃない。お嬢は混ざりモノが好きすぎるからな」
「心外ですねえ、ヨル?」
ルゥルゥは立ち上がると腰に手を当て、目を尖らせた。みゃあう、と同意するようにヨルが鳴く。
「この子たちは呪に侵されているだけで、それ以外は普通の虎とあまり変わらないじゃありませんか」
テュシア王国の土地からは、日常的に「呪」と呼ばれる瘴気のようなものが染み出している。呪の濃い場所にはほとんど人は住んでいないが、その代わり、自然の動物と呪が結びつくことがある。それらは混ざりモノと呼ばれ、普通の獣よりもはるかに凶暴で、時には理性をなくすこともある――が、それだけだ。
「ほら、目なんてとても可愛らしいですし。ねえ、ハル?」
「ぎゃう」
「それが可愛い動物の鳴き声かねえ? というかお嬢、もう名前つけたのか」
「呼び名がないと不便でしょう? 春真っ盛りのときに私のところで来てくれたのですから、この子はハルです。ねえハル、これからは自分の意思で、好きに立って歩いて食べて飲んで構いませんからね。私が全て許します」
「侍女の許しも得てやりなよ、お嬢」
呆れたように言うアイシャに、侍女たちが血走った目でこくこくと頷いた。何か期待するように見られているのはなんとなく分かったので、しばし首を傾げて考える。
ハルと顔を見合わせたのち、彼女はにっこりと微笑んだ。
「皆さん、この子のご飯は三食、昼寝つきでお願いしますね」
「ぎゃう!」
「あっはっはっは! 全然違う」
侍女たちは全員が頭を抱え、アイシャは盛大に笑う。何か変なことを言ったかと、ルゥルゥはさらに首をひねった。
するとそのとき、回廊の向こうから侍女頭が走ってくる。
「お嬢様、またこんなところに……って虎ぁ!?」
「虎は虎ですが、この子の名前はハルです。覚えておいてくださいね」
「そういうことじゃないと思うけどな、お嬢」
「おっ、お嬢様! 聞いてくださいまし、旦那様がお戻りになられたのですよ!」
ルゥルゥはきょとんと瞳を瞬かせた。
「お父様が?」
「ええ、大事な話があるからと、お嬢様をお呼びでございます」
ルゥルゥはアイシャと顔を見合わせる。ルゥルゥの父であるクレイディ伯爵家当主、キオン・クレイディは、王宮で人事を司っている。春先など最も多忙だろうに、何があったのだろう?
ルゥルゥは顎を引き、にっこりと微笑んだ。
「分かりました。案内していただけますか?」