「愛すべき人の子らよ。我が力の暴走のために、罪なき
──それから、魔力が枯渇し、消滅すら免れないであろうわたしを保護するだけでなく、清廉な水のマナの恵みをも分け与えてくださったことへ、心からの感謝を。
くるりと宙を泳ぎ、尾びれをひらめかせて優雅なお辞儀を見せたウンディーネは、理知的な声音の持ち主だった。
青く透き通る華奢な肢体、アクアマリンを嵌め込んだような瞳、キラキラと光に煌めく、シェルピンクの鱗。
ため息が出てしまうほど美しい。まさに芸術そのもの。
こんなにも気高い精霊が、どうして。
「わたしはかつて、これより東の大地アクアリアにあるミオの泉にて、愛すべき人の子らを見守っていました。けれどあるとき、『異質なる力』を持つ者によって自我を封じられ、かの森へ閉じ込められてしまったのです」
『異質なる力』……オリーヴが言ってた、邪悪なる力のことだよね。今回の騒ぎを引き起こした、元凶。
「一体何者なの……」
「覚えていないのです。その者の姿も、それがいつの出来事であったのかも。……申し訳ない」
「いやっ、やな記憶だと思うんで、無理に思い出さなくて大丈夫ですから!」
「……其方は心優しいのですね、マザー・セントへレム。そう、其方が道を照らしてくれたおかげで、わたしは深淵の闇から戻ってくることが叶いました」
──ありがとう。
綺麗な精霊さんから率直にお礼を言われると、気恥ずかしいものがある。
「かの者に関して、わずかながらわかることがあります。かの者が操っていたものが魔力でも神力でもない、恐ろしい力だということです」
「魔力でも、神力でもない……!?」
「信じられないけど、そうなるんだよね」
あたしとは違い、ジュリはさほど衝撃を受けていないようだった。それは、ほかのみんなも同じ。
「ウンディーネを操っていたのは、『悪意のある』力。それが魔力だとして、精霊を凌ぐほどの魔術師なんてそうそういないはずだし、そもそも野心を抱いて世界に仇なそうとすれば、セフィロトが黙っちゃいない」
「ジュリ様のおっしゃる通り。その時点でセフィロトの天罰が下り、魔力を取り上げられるはずだもの。ゆえにこそ、神力であるはずもない。神聖な存在であるセフィロトが、マザーが、あれほどまでにおぞましい真似をするわけがないわ」
だから、『異質なる力』なのか。
魔力でも神力でもない。そんなものは聞いたことがないと、オリーヴは柳眉をひそめる。
「これはエデンの歴史史上、例を見ないことよ。取り急ぎマザー・アクアリア、マザー・イグニクス、マザー・グレイメアにも、パピヨン・メサージュを飛ばしてあります。わたくしたちマザーが、力を合わせて立ち向かわねばならない問題だわ。まずは情報共有、それから各々の体制を整えなくては」
「そうだね、一度帰ったほうがいいと思う、ウィンローズに」
あたしばかりに時間を割かせて、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないから。
そういう意図があっての言葉だったんだけど、張り詰めていたオリーヴの表情が、ふと和らぐ。
あたしを映したペリドットのまなざしは優しく、そっと取られた手の感触はあたたかい。
「すぐに戻ってきます。体調の思わしくないお友だちを、放ってはおけないもの」
「オリーヴ……」
マザーの地位を確立して久しいオリーヴは、あたしなんかよりずっと大きな責任を担っているはずだ。
にも関わらず、前例のない局面で、この決断力。そして、人を想う心を忘れない芯の強さ──
「そっか……ありがとう」
あぁ、彼女がいてくれてよかったなぁって、心から思った。泣きたくなっちゃうくらい。
「わたしも、アクアリアの地に戻らねばなりません。その前に、マザー・セントへレム」
「……あっはい、何か?」
目頭が熱くなるのを必死にこらえ、ウンディーネのほうへ向き直る。
彼女はこれまで見たこともないくらい、優しく微笑んでいた。
「そう固くならずに。さぁ、おゆきなさい」
「ビヨンッ!」
「んひぃっ!? あぁっ、このひんやり感は………!」
くすりと笑んだウンディーネの背後から勢いよく飛び出し、ぽふんっとあたしの顔面に突撃してきたスライムは、間違いない。
「わらび!」
「ワラビ……そう、ワラビという名をもらったの。よかったですね」
「ビビィ〜」
ひとまず顔面から引き離して、手のひらに乗っけたら、なんか会話してるんですけど……
ウンディーネは微笑ましげだし、わらびは得意げだし。
「えっと……おふたりは、どういった関係で?」
「この者は、パプル。我が魔力のひと雫から分け出でた、水の妖精です」
「妖精!? スライムじゃなかったんだ!」
「よく似ていますが、スライムではありませんよ」
「マジか、ごめんわらび!」
めちゃくちゃ悪いことをしてしまった。犬と猫を間違えるレベルでやらかしたかもしれない。
脊髄反射で謝るも、当のわらびが「???」と、小豆大のおめめをまんまるにしているという。
伝わってなかった! うぅん! それはそれで!
「これはおぼろげに覚えていることなのですが、『異質なる力』に侵される際、反発したわたしの魔力のひと雫から生まれたのが、その者です」
「わらびが……?」
「パプル自体は、そう魔力を有した妖精ではありません。けれど……マザー・セントへレム。其方の神力の刺激を受け、高い知能とそれに伴う感情、そして魔力を、徐々に獲得していったのです」
それが、感じ取れないほど微弱な魔力しか持たないわらびが、一夜経た翌日にはあたしたちを一気に転移させるまでの魔力を得ていた真相。
あの日、あのとき、あたしがあの森を訪れたことは、偶然だったのかもしれない。
だけどわらびは、その一瞬を見逃さなかった。
「……マザーに助けを求めていたんだね。ウンディーネを、助けてって」
あたしたちを『嘆きの森』に転移させたことも、森の奥へ奥へと案内してくれたことも、全部ウンディーネのため。
「やさしいこだねぇ、わらびは」
「……ビ」
目線を合わせてから、すり……と頬を寄せる。
ちいさな身体が震える気配があって、ぽろり、ぽろりと、頬に伝うものがあった。
いけないなぁ。つられて視界が潤んでしまう。
「パプル──いえ、ワラビ。おまえには、己で考え、行動する力があります。他者のためを想う、優しい心があります」
「ビ、ビ──」
「おまえにしか成せぬことが、きっとあります。その力で、敬愛するマザー・セントへレムの助けとなって差し上げなさい」
「ビヨンッ!」
「それって……」
「お別れは、言いません」
くるり。
尾びれを翻し、噴水のへりに腰かけたウンディーネの周囲に、細かな泡が無数に舞い上がる。
「其方と、ワラビと、わたしのえにしは、どこにいても消えることはありませんから」
マザー・セントへレム。
愛すべき人の子──セリに、我が祝福を。
泡が弾けて、煌めいて。
青空に溶け入った彼女を想う胸に、ぽうっとぬくもりがひとつ、灯った。