ザァアアア──……
泣き止むことを知らない空。
無数に打ちつける矢が、熱を奪いゆく。
泥の跳ね返る泥濘に跪いた乙女は、細い指を組み、まぶたを閉じる。
さやさやと そよぐふたば
おそらをみあげ ひとやすみ
かぜも ことりも
みんなでなかよく ハミングを
信じられないものを目にした。いや、耳にした。
聞き慣れたオリーヴの声。だけど、違うんだ。
ふわり ふわり あら のばらさん
ほらみて すてきな
おひさまのえがお
ひらり ひらり さぁ ちょうちょさん
あなたも ゆっくり
おねむりなさいな
フルートの音色のようなソプラノが、不協和音に支配された森の中をせせらぐ。
ふわりと届いた花の香りは、気のせいじゃない。
泥の染み入るドレスの裾がふれた箇所から、若葉が目を覚ます。
陥没した地面はみるみると青さを取り戻し、色とりどりの花々が、取り分け鮮やかな真紅の薔薇が、辺り一面を彩った。
乙女の周囲には、陽だまりがあった。
比喩などではなく、彼女を取り巻く大気が清々しく澄み渡り、心地よい光の粒子を伴って、あたしたちをも包み込む。
「う、ん……」
「ジュリ……!」
体動を感じ、我に返る。腕に抱いた我が子の名を夢中で呼ぶ。
返事はない。けれど焦りではなく、安堵を覚えた。
あたしにもたれて脱力する少年の頬に、徐々に赤みが差していたのだ。呼吸は規則的で、穏やか。
体温、ともすれば命さえも奪っていただろう冷気は、衣服を浸食していた水分と共に、春の陽気を思わせる歌声が消し去ってくれた。
「
祈りを終えた乙女は、そっとペリドットの輝きを現す。
生命に満ちあふれた草花に囲まれ、陽光をその身に浴びる彼女は、美しかった。
──これが、神力。
それは、奇跡以外の何物でもない。
* * *
草花だけには留まらない。
流れる水、吹き抜ける風、地中奥深くに眠る鉱石でさえも、魔力を秘めている。
それが、エデンという世界だ。
魔力を持つという点では、人もモンスターも本質は変わらない。
では一体何が、両者をまったく異なる種族として確立させたのか。
「答えは、高い知能よ。文明を発展させてきた叡智が、神より授けられし魔力に磨きをかけ、より優れたものへと進化させてきたの。モンスターにはできなかったことよ」
だからこそ、人がこの世界のヒエラルキーの頂点とは行かないまでも、中心を担うことができているのだと、オリーヴは語る。
「高い魔力を持つことは、エデンにおいて大きな意味を持つわ。……皮肉なことに、ここではそれが、仇となってしまったようだけれど」
高い魔力──そう言われたなら、納得が行く。
突然意識を失ってしまったリアンさん、朦朧としていたジュリ、地面に膝をつき、苦しげに耐え忍んでいたヴィオさん。
原因不明の体調不良に見舞われた人は、たしかに症状の酷い順に、より練り上げられた魔力を扱う魔術師であることと一致していたから。
だけどそうだとするなら、わからないことがある。
「オリーヴは? こどもは、マザー以上の魔力を持つことができないんだったよね。なら、あたしたちの中でオリーヴに一番酷い症状が起こっても、おかしくないんじゃないの?」
「何故わたくしが、この程度の症状で済んでいるのか。あなたの疑問に答えましょう。それはわたくしが、
「マザーだからこそ……?」
「マザーは高い魔力を持つけれど、それだけじゃないの。あなたもよく覚えておいてね、セリ。わたくしたちマザーには、唯一セフィロトから分け与えられた、神力という特別な力も宿っているのよ」
それは初耳だ。正直困惑したけれど、すぐに当然のことだと思い至った。
神力がセフィロトのほかにマザーしか持たないものなら、ジュリが知っているはずなんて、ないんだから。
「神力は本来、こどもを生むため、祈りを捧げる際に使用するもの。強大な力ゆえに、マザー自身にかかる負担も大きいのよ。だから必ず、セフィロトの許しを得なければ使うことのできない力でもあるの」
「その神力が……あたしの身体にも、宿ってる?」
「そう、そうなの。わたくしが言いたかったのは、そのことなの」
人によって魔力量が違うのと同じように、マザーによっても、持ち得る神力と魔力量、そしてふたつの比率は大きく異なるらしい。
ただし、どんなにアンバランスでも、神力と魔力両方を持つことがマザーの鉄則であり、証。
だけどあたしというイレギュラーが、揺れ動く天秤そのものをぶち壊したのだ。
はじめから、魔力なんて使えるはずがなかったんだ。そんなもの、そもそもありはしなかったんだから。
ジュリや、ヴィオさんや、リアンさん、オリーヴですらも、魔力と信じて疑わなかったもの……
あたしの身体に眠っていたのは、混じりけのない高純度の神力であるのだと、オリーヴは声を震わせながら告げた。
あり得ない。前例がない。
だけど揺るぎない事実で、奇跡なのだと。
「魔力の上位互換──それが神力よ。魔力には属性があるけれど、神力にはないわ。神より与えられし天啓そのものなのだから。そして神力は、愛すべき者を守る力──邪悪なる力に抵抗し、消し去ることができる」
「それじゃあ……!」
「えぇ。わたくしがこうして話をできるのは、セフィロトの加護があるからこそ。あなたのおかげでようやく謎が解けたわ、セリ」
ひらり、ひらり。
おもむろにあたしの肩から飛び立ったパピヨン・メサージュが、木々のすきまをすり抜け、舞い上がろうとした刹那、鈍色の空に迸る閃光。
一瞬だった。耳をつんざく雷鳴に貫かれた蝶々は細かな緑色の鱗粉を散らし、雨音に消えてしまった。
「危ないところだった……このままでは、あなたまであんな目に遭わせてしまうところだった。でもわたくしは、もう間違えないわ」
そうと宣言したオリーヴのペリドットが、あたしを映し出す。
打ちつける雨の矢にもう頭は垂れないと、凛然とした輝きを宿して。
「森全体を覆い、わたくしたちを飲み込むこの雨は、より高い魔力に反応し力を吸収するだけでなく、容赦ない攻撃すら仕掛けてくるわ。モンスターが種の生存のために本能的に襲ってくるのとは、訳が違う……これは明確な悪意を持った、邪悪なる力によって引き起こされたものよ。ならば、わたくしのすべきことはひとつ」
オリーヴの心は、すでに決まっている。
それなら、あたしがすべきことは。
「セリ、ゼノ様。あなた方に、お願いがあります。きっとこれは、ふたりにしか成せないことだから」
あれこれ考える必要なんて、なかったよね。
大切な人たちを助けるために、できることがあるなら。