空が、咽び泣いている。
「……はっ、はっ……」
荒い呼吸、脈打つ鼓動が、やけに近い。
「ジュリ……しっかり、ジュリ!」
「……かあ、さん」
打ちつける冷たい矢が、必死に掻き抱いた身体から、無情にも熱を奪ってゆく。
言葉を失った。人は、これほど体温をも失えるものなのかと。
「聞こえますか、リアンさん……!」
「……リアンは、私が……」
「無茶はダメです、ヴィオさん……!」
ほとんど意識のない妹を自身の上着で包んだ彼女も、顔面蒼白で泥濘に片膝をついている。
立ち上がる余力もないことは、明らかだった。
「あなただけでも……行きなさい。お願いよ、セリ……いい子だから」
「オリーヴ……っ!」
あぁ……まただ。
あたしはまた、何もできない。
大切な人を、誰ひとり、助けられない……
「どうして……なんでよぉっ……!」
もう嫌だ、こんな悪夢は。
早く覚めて、あたしの前から、消えて……!
──とん。
声にならない悲鳴を上げ、頭を掻きむしりながらうずくまるあたしの肩に、ふれたものは。
* * *
「ね、なんでオレたちをここへ連れて来たの? ──わらび」
まさかのキーパーソン。いや、キーモンスター。
思いがけない展開に、この場にいた誰もが足を止め、あたしを……あたしの肩に乗ったスライムを、痛いほどに注視した。
「やはり、おかしいと思っていたのだ」
真っ先に口を開いたのは、ヴィオさんだ。
「我々に気取られず跡をつけていたことも、複数人をここまで一度に転移させたことも、ただのスライムではなし得ぬ業──貴様、何の目的で、セリ様に近づいた?」
ペリドットの瞳は厳しく細められ、不信感が色濃くにじんでいる。
「わらびが、あたしたちをこんな目に遭わせてる犯人だって言うんですか!?」
「可能性は、あります。正体はわからないにしろ、この森に棲んでいたモンスターに違いはありませんから」
「リアンさんまで!」
「人の魔力は、モンスターの大好物です。この森が『魔の森』として避けられるようになり久しい。そうした中、ようやく見つけた美味しそうな餌を、腹ぺこさんたちが見逃すはずがありませんものね」
「そんなぁ……!」
信じられない。信じたくなかった。
でも、それを訴えたくても、声にならなかった。そうと断言するに足る証拠を、持ち合わせていなかったから。
あたしがそう思うから、なんて不確かな理由では、ヴィオさんもリアンさんも、到底納得してはくれないだろう。
「セリ様の魔力が狙いならば、昨夜のうちに襲われていたはずでは?」
張り詰めた緊迫感の中、言葉を継いだのは、ゼノだった。
「けれど一夜明け現在に至るまでに、ひと雫たりとも力を奪われた痕跡はない。そうですよね、ジュリ様」
「だね。母さんに何かあったなら、どんな些細な異常でも、オレにはわかる」
「私も同様です。セリ様のドールですから。ただ空腹を満たすことがこの者の目的なら、とうにそうしているはず」
「仲間と分け合うつもりだったとも、考えられるだろう」
「仮にそうだとして、先ほどから我々がモンスターを倒すさまを、何故黙って見ていたのですか? そもそも同じ種族ならともかく、知能の低い低級モンスターに涙ぐましい仲間意識があるかというと、甚だ疑問ですね。直接的に害された事実がない以上、こちらからいたずらに害する理由もないはず。違いますか」
「ゼノ……」
はじめてだ。彼がこんなにも主張する姿を見るのは。
夜空に浮かぶ月のごとく静かなようで、その声音の奥には、たしかに灯った熱がある。
あたしを、庇ってくれているんだ。
「ヴィオ、リアン。こちらへいらっしゃい」
ふいの声の主は、オリーヴ。穏やかな声が静まり返った森に響く。
「……母上」
「お母様……」
口を開きかけたふたりだったけど、食い下がることはしなかった。
そろって歩み寄ったふたりに、オリーヴは手を伸ばし──ぺち。
申し訳程度の平手が、それぞれヴィオさんとリアンさんの左頬と右頬を打った。
4粒のペリドットが、にわかに丸みを帯びる。
「わたくしがどうしてこんなことをするか、わかるわね? ヴァイオレット、リリアナ」
オリーヴの声音は穏やかであって、有無を言わせぬ凄みのようなものを秘めていた。
その心情の移ろいは、あたしなんかよりふたりのほうが、よほど理解できるだろう。
「魔力と同じように、負の感情も悪しきモンスターのご馳走よ。軋轢を生んだって、何の解決にもならないわ。忘れないで。わたくしたちが平和を愛し、幸福を願う、誇り高きウィンローズの民だということを」
「……過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません」
「ごめんなさい、お母様……」
うつむくふたり。ふと表情をほころばせたオリーヴは、丸まったその背中へ、そっと腕を回した。
「わたくしたちのことを心配してくれているのよね? わかるわ。あなたたちは、優しい子だもの」
「……母上、」
「可愛い可愛い、わたくしのこどもたち。焦らなくていいの。みんなで助け合いましょう。きっと大丈夫だから」
「っ……はいっ……」
──あぁ。
肉親のいなかったあたしでも、わかる。
時に厳しく、それ以上に陽だまりのようなやわらかさで包み込んでくれる、心地よいぬくもり。
これが、母の愛。
なんて、まぶしいものなんだろう。