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*26* 母の愛


 空が、咽び泣いている。


「……はっ、はっ……」


 荒い呼吸、脈打つ鼓動が、やけに近い。


「ジュリ……しっかり、ジュリ!」


「……かあ、さん」


 打ちつける冷たい矢が、必死に掻き抱いた身体から、無情にも熱を奪ってゆく。

 言葉を失った。人は、これほど体温をも失えるものなのかと。


「聞こえますか、リアンさん……!」


「……リアンは、私が……」


「無茶はダメです、ヴィオさん……!」


 ほとんど意識のない妹を自身の上着で包んだ彼女も、顔面蒼白で泥濘に片膝をついている。

 立ち上がる余力もないことは、明らかだった。


「あなただけでも……行きなさい。お願いよ、セリ……いい子だから」


「オリーヴ……っ!」


 あぁ……まただ。

 あたしはまた、何もできない。

 大切な人を、誰ひとり、助けられない……


「どうして……なんでよぉっ……!」


 もう嫌だ、こんな悪夢は。

 早く覚めて、あたしの前から、消えて……!


 ──とん。


 声にならない悲鳴を上げ、頭を掻きむしりながらうずくまるあたしの肩に、ふれたものは。


  *  *  *


「ね、なんでオレたちをここへ連れて来たの? ──わらび」


 まさかのキーパーソン。いや、キーモンスター。

 思いがけない展開に、この場にいた誰もが足を止め、あたしを……あたしの肩に乗ったスライムを、痛いほどに注視した。


「やはり、おかしいと思っていたのだ」


 真っ先に口を開いたのは、ヴィオさんだ。


「我々に気取られず跡をつけていたことも、複数人をここまで一度に転移させたことも、ただのスライムではなし得ぬ業──貴様、何の目的で、セリ様に近づいた?」


 ペリドットの瞳は厳しく細められ、不信感が色濃くにじんでいる。


「わらびが、あたしたちをこんな目に遭わせてる犯人だって言うんですか!?」


「可能性は、あります。正体はわからないにしろ、この森に棲んでいたモンスターに違いはありませんから」


「リアンさんまで!」


「人の魔力は、モンスターの大好物です。この森が『魔の森』として避けられるようになり久しい。そうした中、ようやく見つけた美味しそうな餌を、腹ぺこさんたちが見逃すはずがありませんものね」


「そんなぁ……!」


 信じられない。信じたくなかった。

 でも、それを訴えたくても、声にならなかった。そうと断言するに足る証拠を、持ち合わせていなかったから。


 あたしがそう思うから、なんて不確かな理由では、ヴィオさんもリアンさんも、到底納得してはくれないだろう。


「セリ様の魔力が狙いならば、昨夜のうちに襲われていたはずでは?」


 張り詰めた緊迫感の中、言葉を継いだのは、ゼノだった。


「けれど一夜明け現在に至るまでに、ひと雫たりとも力を奪われた痕跡はない。そうですよね、ジュリ様」


「だね。母さんに何かあったなら、どんな些細な異常でも、オレにはわかる」


「私も同様です。セリ様のドールですから。ただ空腹を満たすことがこの者の目的なら、とうにそうしているはず」


「仲間と分け合うつもりだったとも、考えられるだろう」


「仮にそうだとして、先ほどから我々がモンスターを倒すさまを、何故黙って見ていたのですか? そもそも同じ種族ならともかく、知能の低い低級モンスターに涙ぐましい仲間意識があるかというと、甚だ疑問ですね。直接的に害された事実がない以上、こちらからいたずらに害する理由もないはず。違いますか」


「ゼノ……」


 はじめてだ。彼がこんなにも主張する姿を見るのは。

 夜空に浮かぶ月のごとく静かなようで、その声音の奥には、たしかに灯った熱がある。

 あたしを、庇ってくれているんだ。


「ヴィオ、リアン。こちらへいらっしゃい」


 ふいの声の主は、オリーヴ。穏やかな声が静まり返った森に響く。


「……母上」


「お母様……」


 口を開きかけたふたりだったけど、食い下がることはしなかった。

 そろって歩み寄ったふたりに、オリーヴは手を伸ばし──ぺち。

 申し訳程度の平手が、それぞれヴィオさんとリアンさんの左頬と右頬を打った。

 4粒のペリドットが、にわかに丸みを帯びる。


「わたくしがどうしてこんなことをするか、わかるわね? ヴァイオレット、リリアナ」


 オリーヴの声音は穏やかであって、有無を言わせぬ凄みのようなものを秘めていた。

 その心情の移ろいは、あたしなんかよりふたりのほうが、よほど理解できるだろう。


「魔力と同じように、負の感情も悪しきモンスターのご馳走よ。軋轢を生んだって、何の解決にもならないわ。忘れないで。わたくしたちが平和を愛し、幸福を願う、誇り高きウィンローズの民だということを」


「……過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません」


「ごめんなさい、お母様……」


 うつむくふたり。ふと表情をほころばせたオリーヴは、丸まったその背中へ、そっと腕を回した。


「わたくしたちのことを心配してくれているのよね? わかるわ。あなたたちは、優しい子だもの」


「……母上、」


「可愛い可愛い、わたくしのこどもたち。焦らなくていいの。みんなで助け合いましょう。きっと大丈夫だから」


「っ……はいっ……」


 ──あぁ。

 肉親のいなかったあたしでも、わかる。

 時に厳しく、それ以上に陽だまりのようなやわらかさで包み込んでくれる、心地よいぬくもり。


 これが、母の愛。

 なんて、まぶしいものなんだろう。

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