彼からの罰──
ミランと共に過ごす昼間を数えるだけでもう五度目程だろうか。ベルティーナは、ミランが朝食にと置いていったサンドイッチを口いっぱいに頬張りながら、ぼんやりと目を細めて塔の中を眺めていた。
……罰なのだから、仕方ないと思うが如何せん暇だった。
しかしながら本当に不健全な生活だと思う。無論、幸せだとは思えるものだが……そろそろ赦して欲しい頃合いだとベルティーナは思っていた。
たとえこっぴどくドヤされたとしても、城を壊した事を女王に詫びるべきだろうとは思う。それに、森林火災の負傷者達の様子だって見に行きたいと思う。ハンナや双子の猫侍女達に随分と会っていない気さえもして、少しばかり寂しいとベルティーナは思った。だが、同じくらい気がかりに思えた事は庭園だ。
ハンナや双子の猫侍女達が仕事の合間を縫って、様子を見に来てくれているだろうとは思うが、それでも自分の目で見ていないのだから不安しかなかった。
しかし、よく考えれば……今自分が居るこの塔は庭園の高台に佇んでいるのだ。だが、外から施錠されている所為もあって自ら出る事は叶わない。
どうにか出る事が出来ないものか……。と、ベルティーナは頤に手を宛てて思考を巡らせていた途端だった。
塔の扉から
「ベルティーナ様! ベルティーナ様!」
外から聞こえた声は間違いなくハンナのものだ。ベルティーナは慌ててサンドイッチを飲み込み扉に歩み寄った。
そうして施錠音がしてから間もなく扉が開き、案の定そこにいたのはハンナだった。しかし意外な事に、その隣にリーヌの姿もある。
「……久しぶり、ね? ハンナ。それとリーヌ」
魔性に墜ちてから会うのは初めてだろう。ハンナは驚いた表情のままベルティーナの方をじっと見つめていた。
しかし、彼女の
「え、どうしたのよ……そんな、まるで本当に生きてた! みたいな顔で」
まさにそんな風に見えてしまったのだ。そっけなく言うが、途端に強い力でハンナに抱き寄せられて、ベルティーナは目を丸くして泣きじゃくる彼女の背を撫でた。
「ちょっと何を泣いてるのよハンナ……」
「だって、だって……ベルティーナ様こんな場所に幽閉されて。使用人達の間では本当は正気に戻らなかったとか……近々葬るだなんて噂もあった程で」
「ちょっと待って。ミランから何も聞いてないの? 理性は取り戻してるわよ。これは彼に課された罰。ただの仕置きよ?」
驚いてベルティーナが告げると、ハンナは直ぐに首を横に振った。
しかし、ベルティーナの発言を聞いたリーヌは目を細めたまま頤に手を当てている。
「……いいえ、何も聞いてません。心配で心配で……無礼も承知で毎日のようにミラン様に聞いたのです。それにリーヌ様にも。でも何も知らないって。……ですが、先程即位の決闘に出向かうミラン様が観念して私に
全てを言い切ると、ハンナはリーヌの方を一瞥するが、リーヌは未だ腑に落ちないような表情を浮かべていた。
考えれば考える程に頭が痛くなってきた。まさか、とは思うが……ミランは自分を塔の中に閉じ込めている事など誰にも言っていなかったのだろうか。確か、仕置きを自分の手で下すと告げると言っていたのに……。
「ねぇ……リーヌ。もしかして貴方も私が理性戻した上で、ここに居る事を彼から聞いてなかったのかしら?」
リーヌに問うと、彼は目を細めたまま無言で頷いた。
「……え、じゃあ。どういう事なのこれは。彼から何て聞いたの?」
「〝決着はついた。少しベルの容態が良くないから、庭園の塔に閉じ込めて様子を見てる〟……と。それで、ベル様の理性が戻っているかを何度も聞いたものですが、何も答えなかったもので……」
呆れた溜息を一つ吐き出してリーヌは目を細めるが、ベルティーナも全く彼の意図が理解出来ずに目を細めた。それから数拍置いた後、リーヌは吐息を溢し緩やかに唇を開いた。
「……さて。僕が想像出来る、ミランの思考の予想を良いですか?」
「ええ、構わないわ。どうぞ言って頂戴」
きっぱりとベルティーナが告げると、リーヌは一つ咳払いをした後に話を切り出した。
「……魔に墜ちたベル様と対峙したミランはかなりの手負いでしたよね? ベル様は理性を取り戻していた。で、誰にも言わずこんな手段に出るのは、早く確実に自分のものにしたかったっていう……あの拗れた独占欲故の行動としか思えません」
──それで、ベル様を絶対に逃がさないようにする為にこうして既成事実でも作り、女王との決闘に死ぬ気で勝ちに行こうと鼓舞する為としか思えないもので。と、全てを言い切ると、リーヌはまたしても深い溜息を溢す。
「そもそもですけど、初対面で僕がベル様に
──酷い拗らせぶりだとリーヌはやれやれと首を横に振った。
それを聞いてベルティーナは更に頭が痛くなってきた。過去にした事といえば……彼を助けただけだ。たったそれだけの事で……本当に拗れているだろう。普段はあんなにすました顔をしているというのに……。
「ええと、殿方にこんな事を殿方に訊くのはしたないかも知れないけど……魔性の者って婚前に関係を持つ事って普通なのかしら?」
困惑しつつこめかみを揉んだベルティーナはリーヌを一瞥して訊くと、彼は顔を真っ赤に染めてブンブンと首を横に振った。
「……そんな訳無いじゃないですか! 基本的には正式なつがいとなってからです。ましてや決闘の前にもっての他。直系の王族はこの辺りは守って当然のしきたりです。ふしだらですよ流石に……」
その言葉を聞いて、ベルティーナの思考は完全に停止する。だが、頬に滞った熱はたちまち弾けて、尋常ではない熱さを生んだ。
……つまり、自分はミランに騙されたのだ。
そう思うと、恥ずかしさの中にも苛立たしさが芽生えるもので、ベルティーナはたちまち唇を拉げた。
「それで……今日が即位の儀で決闘の日? ミランはどこにいるのかしら? リーヌ、私をミランの所まで連れいきなさい。決闘の勝敗なんてどうでもいいわ。それが終わったら一発でいいから、あの人をひっぱたいていいかしら?」
そう言ってベルティーナはリーヌを一瞥する。すると彼は「どうぞどうぞ」と、軽い調子で言ってベルティーナに
ミランは割と口数が少なくぶっきらぼうだ。それでも心根が優しいもので、強い信念を持つ。しかし、決定的な悪い部分はその不器用さが災いし、大事な事を言わず誤解を生む事だろうとベルティーナは思う。
ハンナとリーヌに連れ出されたベルティーナは、不機嫌そのものの面を浮かべて、王城内へ入っていった。
流石にナイトドレスのままで厳粛な決闘の場に赴くのは如何なものかとは自分でも思った。だからこそ、一度王城の自室へと戻ったのだ。
大破した壁はそのままだった。それでも雨風を防げるようにと、麻布を貼り付けてあり外が見えないようになっていた。更に幸いに思えた事は、部屋の中の被害は殆ど無く、目立った傷は特に無い。
「さて、ベルティーナ様。ドレスはどうしますか?」
そう訊かれて、ベルティーナは直ぐに破廉恥に思えるあの紫色の変形バッスルドレスを指さした。
「なるべく動きやすいやつよ、一発……いいえ、二発。出来れば蹴りまでお見舞いしたいくらいだわ」
──だから早く着せて頂戴と促せば、ハンナは衣紋掛けからドレスを外して着付けを手伝った。
髪も結い、簡単に化粧も済ませ。完全に用意も調うと、ベルティーナはそそくさと部屋を出る。すると、そこにはもうリーヌが待機しており、ベルティーナに
「さぁベル様、参りましょう」
「ええ、頼んだわ」
その手を握り返し、ベルティーナが連れてこられた場所は、閑散と開けた城のバルコニーだった。
そこでリーヌは目を伏せる。するとたちまち黒い闇に覆われた彼は赤い竜の姿に変貌した。それに倣い、ベルティーナも瞼を伏せる。すると瞬く間に、その身は闇に包まれベルティーナは妖しくも華々しい竜の姿へと変貌した。
『王族の決闘の場は西の海の近くです』
ゴゥと咆哮を上げたリーヌに答え相槌を打てば、その声は甲高い咆哮となる。それでも一応は分かっているのだろう。リーヌはベルティーナの方を一瞥して頷くと、翼を広げて空へと飛び立った。
自ら竜の姿になる事も空を飛ぶ事だって自分の意志では初めての筈。それでも自分の手足が動く事と同様に、それは意志のままにそれは叶った。
城下の街を越え、川を渡り、やがて差し掛かるのは、青々とした
その長い並木道を抜けると、ぱっと視界は開けて、星屑と月明かりが煌々と光る夜の海に辿り着く。そこでリーヌは旋回し、緩やかに下降した。
その途端だった。下の方から低い咆哮が轟いたのである。
それは間違いなく、ミランのもので……。
ふと、下方に視線を向けると、闘技場のような建物がある。その中心でそっくりな姿をした黒い竜が二匹戦っている様が目に映る。大ぶりな竜が小ぶりな竜に首根を噛まれ、夥しい血を流してるのが見えて、ベルティーナは目を瞠る。
間違いなくヴァネッサ女王とミランだろう。
────ミラン!
ベルティーナは急下降し、砂埃を巻き上げて闘技場に着地するなり、竜の姿を破り人の姿に戻った。
その様に驚いたのだろう。夥しい観客はどよめき、次々に声を出した。
「──ふざけるんじゃないわよ! あんな馬鹿みたいな嘘を吐いて! しきたりまで破って! 大事なもの奪って。貴方、何て事をしてくれたのよ! 負けたら……負けたら私、ミランの事を絶対に許さない!」
憎悪でも吐き出すようにベルティーナが声を張り上げた途端だった。
『分かってる!』と、咆哮と共にミランの声が響き渡ったのである。
その途端だった。彼は、尾でヴァネッサ女王の身体を叩き付け、身を翻して空に舞う。
そして、彼が息を吸った途端だった。彼の口からは碧翠の炎が揺らぎ、それは大きな火球となる。
刹那──彼は劈く程の咆哮を発した。同時に火球は地面で構えるヴァネッサ女王に直撃し、彼女は吹き飛ばされた。
しかし女王は、真っ直ぐに息子の姿を見据えて、かろうじて立ってはいる。だが女王直ぐによろけた──その途端に、彼女は半人の姿に戻った。
ヴァネッサ女王はあまりにもボロボロだった。青光りする漆黒のドレスも所々破れており、彼女は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「ヴァネッサ女王!」
ベルティーナは直ぐに、女王の元へと走り、その身を抱いて起こし上げる。
「ああ、ベルティーナ王女か。何だ、しっかり夜の祝福をうけておるではないか……」
──綺麗な色になったもんだ。と、毛先に行く程に薄紫に色付いたベルティーナの髪を掬ってヴァネッサ女王は優しく微笑む。
だが、ベルティーナは何も答えずに首を横に振り、背後に待機していた女王の護衛を呼んだ。
負けたら赦さないと、ミランに言ったものだが、やはりこうも重傷だと気がかりだった。 それに自分の壊した城の事もそうだ。ベルティーナは心配気な面で女王を見下ろすが、彼女は首を横に振って、鋭い牙を覗かせてまたも優しく笑んだ。
「その顔、壊した城の事でも気にしてるだろうね。いいさいいさ。それに、これしき大した怪我でも無い。ほら、お前は私の馬鹿息子の所に早く行っておやり」
──また城に戻ったら、私の怪我の状態でも見てやってくれ。なんて、続け様に朗らかに言うものだから、ベルティーナは頷いた後に女王を護衛達に託した。
自分の前方に立つのは大きな黒竜──ミランは夥しい血を流して荒い息を吐き出している。その形相は恐ろしかった。それでも、ベルティーナは臆す事も無く、颯爽とミランに近付くなりキッと目を釣り上げて彼を睨み据える。
「……あっ、ベル。あの……」
少しばかり気まずそうに言って彼が姿を解いた途端だった──その途端に、ベルティーナは腰から伸びた蔦を伸ばし、彼の腹に痛烈な一撃を加えた。
一瞬にしてミランは吹き飛ばされ、地面に転がった。
加減なんて分からない。だが、それでもこれしきで彼にとどめを刺せる筈も無いと分かっている。ベルティーナはつかつかと転がっているミランに近付き、冷たい瞳で彼を睨み据えた。
「いで……」
案の定、大したダメージでも無かったのだろう。彼は腹を抑えて少しばかり、気まずそうに目を反らす。その様にベルティーナは尚更苛立ち、牙が見える程に大きく息を吸い込んだ。
「どうして……どうして周りにあんな馬鹿みたいな嘘を吐いたの!」
剣幕にベルティーナが切り出すなり、ミランは目を丸く開く。
「……私は生まれて間もない時から貴方のものになるって決まっていた! それだって認めていた。なのに、あんな嘘を吐いて、しきたりを破って、あんな事しなくても私は逃げたりしないのに。だって、だって……」
──貴方が居てくれるでしょう……私をもう二度と孤独になんてさせないんでしょう! と、金切り声を上げてベルティーナが叫んだ途端だった。
打たれた腹を摩りながら起き上がったミランは緩やかにベルティーナに近付き、ベルティーナを抱き寄せたのである。
「ちょっと! 私本気で怒ってるのよ!」
ベルティーナが怒鳴って捲し立てるものだが、ミランはそれでもベルティーナを離そうとはしなかった。
「……俺だってな。不安に思う事くらいある。事実ベルは、ヴェルメブルグを滅ぼすだの、そんな気持ちがあって、向こうの世界に行きそうになった。その前に阿呆な小悪党に攫われかけたりもした。俺は口下手だし、どうすれば繋ぎ止められるか色々考えた」
静かに語り始めた彼に、ベルティーナは腰から生やした蔦を縮めて彼の方を向く。
その表情はあまりも真摯でありながらも、少しばかり申し訳無さそうだった。そんな表情をしているとは思わず、ベルティーナは少しばかりギョッとして彼に目をやった。
「だから、何としてでも確実に自分のものにしたかった。ベルの事は何があろうが離さないと誓ってるが、もしも俺が母さんに負ければきっと無理だ。だから離れないように……いいや、負けない為にあんな嘘ついてお前を閉じ込めたんだが……嘘を吐いてベルの安否さえ伝えず周りを騙したのは謝る……」
彼の打ち明けた心の内。それは、リーヌが憶測したものと全く同じだった。
怒り、憎悪、悲しみ、喜び、そして愛おしさ──と、いたたまれない程の感情が暴れ回る。だが、一拍も立たぬうちに「馬鹿!」と、憎まれ口を一つ叩いて、ベルティーナは彼の胸に飛び込んだ。
その途端だった。闘技場にはドッと夥しい歓声が響き渡り、新国王──と、ミランの名が幾つもこだました。
だが、その中には王妃──! と自分の名を呼ぶものがいくつか聞こえてくる。
ふと、ベルティーナがその声を探すと、そこには双子の猫侍女や城の使用人達、ミランの叔母、マルテの姿まであった。