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今、何が起きているかミランは当然のように理解出来ていた。しかし、ここまで苦しむ様にはやはり冷静にはなれなかった。
以前より随分と感情が豊かになったとは言え、さして表情が変わらない彼女が苦しそうに顔をしかめ、藻掻く様には焦燥ばかりが募った。
魔に墜ちる呪いとは……心が満たされた時に発動するものとは聞いていた。だが、彼女は何を満たしたのかも分からない。ただ、自分が夢に魘される彼女を起こした時、まるで人が変わってしまったかのように弱々しく孤独を語ったくらいで……。
────まさか。
ミランの中で一つの憶測が過ぎった。
満たす。安直に幸福を覚えるのではなく、心に秘めた本心を初めて言葉に出した事によって彼女は満たされたのだろうと。確かに条件はそれぞれ違うとは言うが……。それしか考えられなかった。
「──しっかりしろ! ベル! ベル!」
ミランは床に崩れて発狂した彼女を抱き寄せようとした途端──彼女はとうとう魔に墜ちた。
こればかりはどうする事も出来ない。ミランはベルティーナを傍観する他無かった。それでも、彼女の名を幾度も叫ぶが、完全なる異形に成り果てた時にはもう、その声は届かなかった。
そこに佇む彼女だったもの……。それは、恐ろしくも美しい怪物だった。
──花弁によく似た薄紫の鱗に覆われた皮膚に、蝶の翅に似た鮮やかな翼膜。腕から突き出た三本の翼角はまるで大きな花弁を寄せ集めたかのような鱗に覆われており、背中を突き破って無数の茨の蔦が躍るように萌えていた。更に際立つのは胸元や脚に巨大な花が咲き誇っていた事だろう。
爬虫類に哺乳類……と、幾らかの動物と植物を掛け合わせた姿ではあるが、特徴からして自分と同種──竜と思しい。その体躯は本来の自分の姿よりも幾分か小柄ではあるが……それでも半人の姿で見れば、巨大に違いなかった。
「ベル……しっかりしろ、おい!」
叫ぶように彼女の名を呼ぶが、ベルティーナだったものは狂ったように甲高い咆哮を上げるばかりだった。
「──ミラン!」
騒動を直ぐに察したのだろう。寝間着姿のリーヌや彼女の侍女達が慌てて部屋に入るものだが、誰もが、その姿を見た途端に言葉を失い唖然と立ち尽くした。
だが、一拍も立たぬうち──狂乱状態の彼女は尾で窓硝子と壁を壊すなり、空へと飛び立って行った。
※
…………どうして、どうして認めてくれないの? どうして私を独りにするの? 私は要らない存在なの? 憎い、憎いわ。そう、全てを無に返してしまえばいいのよ。
自分が言っている訳ではない、悲嘆めいた己の声に促され、ベルティーナは穏やかに瞼を持ち上げた。
そこはやはり、真っ暗な闇に閉ざされていた。目を開いた筈なのに、やはり目を開けているのだか閉じているのだか分からない。しかし、先程のような鮮烈な痛みは既に無く身体が幾分も軽かった。
だが、不安は消えた訳では無い。ベルティーナは眉を下げて辺りを見渡すと間もなく、何かがこちらに近付いて来る足音を聞こえてきた。
間違いなく
「……おかえりベルティーナ。私を認めてくれる気になったようね? 少しだけ時間与えて、私が正しいって思い知ったのかしら?」
高慢に言って、姿を現した者──それは、紛れもない自分自身だった。
ナイトドレスを纏う自分に対して、彼女は少しばかり破廉恥に思えるあのバッスルドレスを纏っており、髪を結って化粧もしっかりと施していた。
しかし、亜麻色の筈の髪の毛先が仄かに薄紫に色付いている。瞳の色も自分の持つ筈のアイスブルーの色素とは違い、ラベンダーに色付いている他、耳の形も少しばかり尖っていた。それ以外にも、腰のあたりから無数の茨の蔦が萌えており、それが踊るようにくねくねと蠢いているもので……。
これが、魔に墜ちた自分の姿。と、何となくでベルティーナは理解した。
「私を返して頂戴……」
震えた声でベルティーナが告げるなり、彼女は顎をそびやかして鼻でせせら笑う。
「寝てもいないのに何を寝言みたいな事言ってるのかしら? 貴女は私、私は貴女よ?」
──馬鹿言わないで頂戴。と、冷たくあしらって、
その視線に臆したベルティーナは二歩三歩と後退る。
「それで? あんたはこの国に来て、人の温かさを知り、婚約者のミランと仲睦まじくなって……随分と変わったけれど。それで望むのは、幸せに暮らす未来がお望みで?」
「……それの何が悪いのかしら。考えは変わるものよ。確かに、私は貴女の言う憎しみも孤独も忘れてはいない。だけど……」
「だけど?」
高慢に言葉を反復されて、ベルティーナは口籠もった。
「愚かね。所詮、皆が自分を手放さないとでも思ってるでしょうね? 自分が必要とされている存在とでも思っているのかしら」
──たいそうなご身分で。なんて呆れて言われるが、まさに自分の心に抱く不安そのものでベルティーナは俯いた。
「だけど、所詮は口約束よ。そんなもの信じられるのかしら? また貴女が孤独になる未来だってありえなくもないでしょうに」
──たとえば、ミランが決闘で負けた時。王座に着けず、貴女が要らぬ者となる可能性もありうるわ? それに何より、貴女がこんなに醜い復讐心を持った悍ましい化け物だと分かった時ね。なんて、続け様に付け足すと、彼女は高らかに笑う。
まさに的確過ぎた。だからこそ、言われた事に反論の余地なんて無かった。
黙ってしまうと彼女は対面して座り、真っ正面からベルティーナを睨み据える。
「だからこそ私を認めなさい? 貴女が希望なんて持ったところで無駄よ」
「そんな事……私は私は……」
ベルティーナは言葉を探る。だが、それ以上は出てこないもので、彼女はまたも口を噤む。すると
「いい事? 私を受け入れれば、貴女にとって最高の復讐を叶えてあげるわ?」
鋭い牙が覗く程に彼女が口角を釣り上げて言った途端だった。
微かではあるが、どこからかミランの声が響いたのだ。
ベルティーナがハッと目を見開くと脳裏にその光景が浮かび上がる。
そこはつい数週間と前に訪れた場所──人間の世界と冥界へ続くとされる門のあると言われる海だった。
風も無く、凪いだ水面はまるで鏡のようだった。遠浅の海なのだろう。駆ける自分の身体は全く海水に浸かっていなかった。
しかし、自分は果たして何処に向かっているのか……。呆然とそんな事を思った途端──背後から心臓まで響く程の低い咆哮が轟いた。
ふと、背後に視線を向けると底には真っ黒な鱗に覆われた竜──ミランの姿が映った。
ただの咆哮ではあるが、不思議な事に彼が自分に何を訴えているのかベルティーナは直ぐに理解できた。
──止まれ。俺はお前を屠りたくなんか無い。戻ってこい、ベルティーナと。その言葉が確と心に響きベルティーナは目を瞠った。
呪いの有無を関係なしに人は魔に墜ちれば理性を失う。そこで、夜に祝福されなければ葬られる。そんな話は聞いていた筈だ。当然のように自分だって彼に殺されたない。ベルティーナは首を横に振るい「嫌だ」と金切り声を上げて叫んだ。
対して、真正面に座る
「残念だけど止まるのは無理よ? 貴女を動かす怒りの動力源は忌々しい故郷。表の世界ヴェルメブルグよ?」
──だからきっと、そこに向かっているのだと言って、彼女は満足そうに目を細める。
「……貴女が今、私の身体を支配してるの?」
「馬鹿ね。動かせる訳ないじゃない。二つの強い意志が混在しているの。つまりは自我を失ってるのよ? まぁ、このままじゃ夜に祝福されなかったと見なされてミランに葬られるのも時間の問題でしょうね」
涼しく言われて、ベルティーナは唇を拉げた。その瞳には一瞬にして分厚い水膜は張り、大粒の涙が溢れ落ち──
「そんなの嫌! 私は嫌よ! 認めないわ!」
大きく首を横に振るって、ベルティーナは叫ぶ。しかし、対峙する
「貴女、私の話を聞いていたわよね? まず、こんなにも汚い本心を知られたら、どう思われるかしらね? 自分の事だから分かってるけど、貴女は彼の事が好きなんでしょう」
問われて、ベルティーナは俯いた。確かに、惹かれてはいるだろうと思う。
拉致騒動の際に助けに来てくれた事、自分だけを愛すると告げられた事……彼の行動と言葉一つ一つを思い返してベルティーナは思い起こす。
誰かに想われる事は照れくさいし恥ずかしいと思う事ばかりだが、それでも自分は確かに嬉しかっただろう。しかし、何故嬉しかったのか。それは、自分に向き合ってくれた存在──ミランだったからこそだとベルティーナは思った。
だが、惹かれた部分はそれだけでは無い。彼は、身分を越えた友情や絆を大切にする事や、困っている人を放っておけない堅実さと優しさがある。そして何よりも責任感が強い事もあるだろう。だからこそ、この人が婚約者で良かった。この人が自分の伴侶になると改めて知り、ベルティーナは安心していた。
そう……きっと、自分はミランとならば上手くやっていけるだろうと思った。だから、自分も月の満ち欠けのように穏やかに変わり、彼の支えになれるような良き伴侶となりたいと心の奥底で思うようになっただろう。
考えれば考える程に随分と心が凪いできた。やがて、思考はまた強い意志へと変わり、ベルティーナはナイトドレスの裾をぎゅっと強く握りしめた。
……彼に葬られるなんてあってはならない。自分で幸せは掴まなくてはならない。こんなにも強すぎる極端な思いを二つも背負う自分は貪欲過ぎるだろうと思った。だからこそ、どちらか一つを選ばなくてはいけない。否や、自分がそれを認め、醜かろうが本当の自分を知って貰わなくてはならない。
「……そうね好きよ。私はミランに惹かれていると思うわ」
毅然としてベルティーナが告げる。すると、彼女は「でしょうね」なんてほくそ笑んだ。
しかし、この
──でしょうね。と、言えるのは、自分だからこそ出来る切り返しである。
所詮、彼女は自分自身に変わりないのだ。つまりは……彼女だって、ミランに惹かれているのだ。それに自分となれば、姿形が少しばかり違うにしても何も恐れる必要は無い事をベルティーナは直ぐに思い出した。
────そうよ。私の最大の敵は自分。捻くれた考え方で自分の孤独を閉じ込め続けて歪んでしまった自分。それに勝るものは、自分しかいない。
ベルティーナは鼻でせせら笑って、
「何よその顔は」
だが、その反応だって自分らしいものだと思った。
「貴女は私よね? 彼、過去に私に会っているらしいけれど、私は何も覚えてないのよ。気になるわ。思い出したいのよ?」
その他にも気になる事は沢山ある。彼との他愛の無い会話は幾らか重ねてきたものだが、知った事は未だ数少ない。
好きな食べ物に好きな色。好きな花に好きな季節……と、どうでも良い事だって知りたい事は様々ある。
そんな興味は彼に対してだけではない。まるで生け贄のように自分とこの世界にやってきたハンナに対してもそれは聞きたい。それから可愛い双子侍女の、イーリスとロートスも。それに、彼の
そんな素直な思いを口に出せば、
「そんなのどうだって良いじゃない……あんたの本懐は」
〝復讐〟と彼女が言い切る前に、ベルティーナはフンと鼻を鳴らした。
「馬鹿ね? そもそも貴女は私でしょう?」
ベルティーナがあっさりと言えば、
「……私、底なしの
思ったままをあっさりと告げると、
「馬鹿なの?」と、全く感情の篭もらない声で言って、彼女はやれやれと首を横に振るう。
「馬鹿はそっちよ。貴女は私でしょう? ほら。私を取り込むなりどうにか理性を戻さないと貴女も好きなミランに屠られるわよ?」
顎をそびやかして言ってやれば、
「流石は自分自身だわ。本当に高慢で面倒くさい言い方をして腹が立つわね」
そう言うなり、彼女はベルティーナの胸の紋様に手を伸ばした。
「本当だったら希望を知ってしまった馬鹿みたいな貴女を殺してしまいたかったのに……」
──残念だわ。と、彼女がそう言った途端だった。胸の奥がジンと熱くなり、ベルティーナは硬く瞼を閉ざした。
「いいことベルティーナ、私を認めなさい」
その途端、ベルティーナの心の奥底に様々な記憶の断片が浮かび上がった。
──庭園を囲う赤砂岩の柵の向こうに行けなかった事。本当の父や母に会えなくて寂しかった幼少期。本当は会いたかった事。弟が出来たと聞いて、一度だけ庭園を抜け出して怒られて悲しかった事。本当の独りぼっちになってしまった事。誰もが自分を恐れた事。
そして、ふと浮かんだのは、秋の日に見送った傷ついたカラスだった。そのカラスを見送った時の切なさ。表情にこそ出せなかったものだが、あの一週間程は久しぶりに一人じゃなくて嬉しかった。だからこそ、見送った時は寂しかった。
しかし、そのカラスの瞳の色なんて全く覚えてもいなかったが、あの色は……確か、初夏の木々を思わせる碧みを含んだ翠で……。