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2 憎悪と孤独の怪物

 その後、ハンナに連れられて、ベルティーナは自室へと戻った。

 確かにこの二週間程は働きっぱなしだっただろう。

 別に無理なんてしていなかったが……休んで良いと分かると、自然と身体が重たくなってくるもので、早々に湯浴みを済ませ戻ってきた。

 とは言っても寝るには未だ早い。漆黒のナイトドレスを纏った彼女は、ソファに項垂れ読書を始めた。

 しかし、やはり疲労の所為か瞼が重かった。ベッドに行くべきだろう。と、思うものだが、どうにもそんな気力も沸かず、ベルティーナ本を抱えたままソファの上で船を漕ぎ、そのまま眠りに落ちた。

 ……それから幾何か。意識が薄れつつある頃、誰かが自分を呼ぶ声を訊いた。

 しかし何を言っているのかは、はっきりと聞き取れない。

 何事か──ベルティーナは瞼を持ち上げるが、そこは自分の部屋とは違う場所。真っ暗な闇に閉ざされた世界だった。

 否や瞼を開けたにも関わらず、未だ目を閉じているような気がして仕方ない。しかし、瞼を幾度持ち上げようが、それは変わらなかった。

 ────何よ、これ。夢かしら?

 ベルティーナは唇を拉げて、一つ舌打ちを入れた。

 当然のように不安は思う。だが、不安になって取り乱してしまえば、冷静さを失うなんて考えずとも分かるもので、ベルティーナは取り繕ったように腹を立てて、一つ舌打ちを入れる。

 その合間も誰かが自分を呼んでいる声がした。しかし相変わらず、何を言っているかは分からない。

「誰よ」

 毅然としてベルティーナが言うとその声はピタリと止まった。だが一拍も立たぬうち

「あぁ……やっと来たのね?」

 と、静謐の中に少しばかり高慢そうな声が降り注ぐように落ちてきたのだ。

  声は明らかに聞き覚えのあるものだった。いや、聞き間違える訳が無いだろう。その声は自分自身と全く同じの声なのだから……。

 ──まさか。これが、ハンナの言った自己幻視ドツペルゲンガーか。

 ベルティーナは一歩後退りをした。しかし、胸の紋様だって今は熱くなかった。こんな前触れもなく訪れるものなのか……。そうは思うが、どうすれば良いかも分からない。もう初めからそういう運命なのだから、抗う事無く受け入れる他無いとは思えるものだが……それでもベルティーナは戸惑いを覚えた。

「もう充分の筈。私を認めなさい、早く私を……ここらから」

 ──出しなさい? と、自分でも苛立つ程の上から目線の命令を言われたと同時、足首を何かに掴まれたような感覚がしたのだ。

 ハッと視線を下げると、自分の足首には夥しい蔓草が絡みついていた。

 やがて、何かを引き摺るように近付く音が聞こえてくる。ベルティーナは戦慄きながらも目をやると、そこには薄紫の釣り上がった双眸が光っていた。だが、その光る目の明るさで自分を捕らえたもののがはっきりと見えてしまった。 

 それは何とも形容しがたい怪物だった。ミラン達のような竜にも見えるが、体に毒々しい花を咲かせ、背から夥しい蔓草を生やす恐ろしい姿だったのだから……。

「早く、早くして頂戴……私をさっさと、ここから出しなさいよ?」

 そう告げるなり、怪物はゴゥと咆哮を上げてベルティーナに牙を剥く。

「きゃあああああああ!」

 今まで悲鳴なんか出した事も無い。あまりの恐怖にベルティーナは戦慄き、その場でヘタリと崩れ落ちた。

 途端に脳裏に駆け巡るのは、まるで呪いのような言葉の数々だった。


 ────ベルティーナ、貴女は飛んだ腑抜けね。何を甘い夢なんて見ているの。貴女は永遠に独りよ。貴女なんか誰も愛さない。偽りよ。幸せなんて望むなんて馬鹿らしい。忘れたなんて言わせないわ。復讐こそがあんたの生きる意味でしょう? 憎悪を忘れて幸せなんて望むの? 貴女、ヴェルメブルグを赦せるの? 私は赦せない。絶対に……赦さない。


 それも自分の声で言われているのだ。ベルティーナは錯乱し、髪を掻き乱し震え上がる。

「違う、違うわ! 確かにそうだけど、そう思うけれど違う! 私は……私は……もう」

 ──そんなのどうだって良い。そんな事すればこの国だって滅びを辿る。未来を紡がなければならない。真実の言葉に出そうとするものだが、それは直ぐに遮られた。

「馬鹿ね。貴女は死ぬまで独りぼっち。可哀想な王女に変わりないのよ? 一石二鳥じゃない。自分を惨めな目に遭わせたこの国だって滅ぼせばしてしまえば良いのよ?」

 ──だから、早く私を認めなさい。と、耳元で高らかに笑われながら言われて、ベルティーナは首を横に振るう。

「やめて頂戴。そんな事……そんな風に、私はもう思っていない! もう何も言わないで!」

 身を縮めたベルティーナはきつく瞼を閉ざした。その途端だった。

 また別の誰かが自分を呼んでる声が聞こえてきたのだ。

『……ル、…………ベルティーナ?』

 ──起きろ。と、鮮明に聞こえた途端視界はぱっと明るくなった。

 ベルティーナは何度も瞬きをして辺りを見渡す。

 そこは、紛れもなく自分の部屋。空は明るく、燦々とした夏の日差しが窓辺から射していた。

「……おい……大丈夫か?」

 聞き慣れた低く平らな声で言われて、妙な安堵を感じた途端、ベルティーナの瞳には分厚い水膜が張った。

 あれは、何だったのだろう。そうは思うが、あれこそが、自分の中に存在する汚い自分であり自己幻視ドツペルゲンガー……と直ぐに理解した。

 ────あれを認めろと……? あれが私……?

 放心したままのベルティーナが、心で呟いた途端だった。感じた事も無い程の孤独感と焦燥感が込み上げ、ベルティーナは手で顔を覆って慟哭した。

「おい、しっかりしろ! ベル、ベル!」 

 やんわりと、腕を掴まれ視界を覆っていた手がはがれる。涙で揺れた視界の先に映るのは……自分の婚約者ミランの顔で。

 まるで幼子のよう。彼に縋るようにベルティーナが彼を呼んだ途端。暖かな手が自分の手に絡む。

「怖い夢でも見たのか? ほら、目の前。居るよ、さっきから」

 ──気付けよ。なんて苦笑いをされて、ベルティーナの頬に口づけを落とす。

 こんな所作をされるのはとてつもなく恥ずかしい筈だが、それでも嫌な気がしないもので……ベルティーナは彼の首の裏に手を回し自分の胸に彼を抱き寄せた。

「独りにしないで……独りはもう、嫌よ」

 ──独りは寂しい。悲しい。と、まるで言葉は土石流の如く。十七年の孤独は全て涙と共に流れ落ちていく。

 小賢しい程に聡明であるように──そう言われていたものだが、本当はいつだってとてつもなく寂しかった。居ない者とされた事、自分の存在価値。結局何もかも見て見ぬフリで諦めて、取り繕って生きてきたのだ。それに改めて自分で気付いてしまったのだ。

「助けて……」

 震えた声でベルティーナが告げて更に強くミランの頭を抱きかかえる。だが、胸元に顔面を埋めているのがあまりに居心地が悪かったのだろう。彼は、自分を拘束する手をやんわりと解き、隣に腰掛けるとベルティーナを強く抱き寄せた。

「大丈夫だ。絶対にさせない。お前を離さないって決めているから。ごめんな、あれから忙しかったのと、ベルも忙しかっただろうから顔を出せなかったんだが……」

「傍にいて。ずっと……もう独りは嫌……私は、ここに居たい」

 ──幸せになりたい。と、ベルティーナが素直な心を曝け出し、言葉にした途端だった。 ジンと胸の奥が焼けるように熱くなった。だが、その熱さこれまでのものとは違う。まるで血が沸騰し煮えくり返るような熱さだった。

「──あ、ぁああ、あああ!」

 アイスブルーの瞳を大きく瞠ったベルティーナは自分の胸を押さえて暴れ藻掻いた。

「……ベル? おい!」

 異変を察したミランは、即座に手を緩めベルティーナの両肩を掴む。

「あ……ぁあ……熱い、熱い! ぁ、あああ! っ……痛い!」

 途端に感じたのは、背の肉が引き裂かれるような烈しい痛みだった。それは気でも狂ってしまいそうな程……。熾烈な痛みにベルティーナは大粒の涙を溢して歯を食いしばる。

「嫌、だめ……認めない。私は、認めない。嫌、認めたくない……! そんなの……!」

 半狂乱になったベルティーナは泣き叫び、彼の手を振り切って立ち上がった。

 だが、当然のように立ってなんていられる筈も無い。

 ベルティーナは床の上でのたうち回るように藻掻き、胸を強く押さえた。

 自分の名を叫ぶミランの声だけは聞こえていた。しかし、段々とそれを掻き消す声が聞こえてくる。

 孤独だ。愛されない。認めろと。その言葉は呪いのように。

「いやぁあああああ!」

 熱さと痛み、呪うような言葉に悶えたベルティーナが金切り声を上げたと同時だった──グシャリと生々しい音が響く。その途端、ベルティーナのアイスブルーの瞳は一瞬にして毒々しい紫色に色付いた。

 陽光に照らされ、床に映し出されたベルティーナの影──その背には夥しい茨が躍っていた。そうして間もなく、彼女はとうとう異形に変わり果てた。

「あ……ぁああ! あぁああ! ミラン、ミラン……!」

 ──助けて。と、叫んだ途端。そこでベルティーナの意識は途絶えた。

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