そうして、ベルティーナは彼の袖を引っ張ったまま高台にある東屋へ向かった。
東屋には屋根がある。直射日光は防げるもので、少しはこれで視界もマシになるだろうとは思ったが……その憶測は正解だった。
「ああ、だいぶマシ。ベルの顔がよく見える。さっきのお前、目も口も無かったけどな……」
普段通りの精悍な面持ちに戻った彼は苦笑いを浮かべて言うものだから、ベルティーナは釣られて笑ってしまった。
「多分、貴方達は人間とは目の作りがきっと違うのね。というのか……目が眩むなら、初めから言って頂戴」
──本当に
「いや、ベル一人を白昼に出すのは流石にな……」
「白昼だからって警備が厚い城に暴漢なんて来ないでしょうに。それに貴方と同じで魔性の者は皆、昼の陽光には目が眩むのでしょう……」
いくら何でも過保護だろう。ベルティーナが呆れつつ言って直ぐ。ミランはベルティーナの頭をぽんぽんと撫でた。
「何で頭を撫でるのよ……」
子供じゃないのよ。と、突っ撥ねるように言うが、彼は優しい笑みを浮かべて目を細める。
「そんなの、可愛いからに決まってるだろ」
そう言われて、ベルティーナは煙たそうに目を細めた。
「可愛いっていうのは……イーリスやロートスみたいな小さな女の子を言うのよ? 私に可愛げなんて無いわ」
「いいや、可愛いよベルは。見た目は美人だけど、少し捻くれた性格がな。それでも清純だ。それら全部をひっくるめて堪らなく可愛い」
……全く自覚無いだろうけど。なんて、言い添えられるが、ベルティーナは彼をお構いなしに庭園に視線を移したと同時だった。彼に突然肩を掴まれたのだ。吃驚してミランの方を向くと、深い碧翠の瞳と視線がカチリと混ざり合いベルティーナは息を飲む。何せ、その表情があまりにも真摯だったのだから……。
「だからこそ心配なんだ。また悪い輩に連れ去られたりしないかって、本当に心配になる。それに、俺との婚姻がやっぱり嫌だって逃げるかも知れないって思うから……」
普段は平坦な調子が多い彼にしては、珍しく自信無さそうな物言いだった。
やはりあの件は彼の中に根深く残っていたのだろう。それに、まさか自分が逃げ出す事を臆していたなんて思いもしなかった。
こんなに背が高い大人の男がそんな事を不安がるなんて思いもしなかった。だが、何だかそれがほんの少しだけ可愛らしく思えてしまい、ベルティーナはクスリと笑みを溢す。
「馬鹿ね。そんな子供みたいな事する訳ないじゃない。貴方との結婚はとっくの昔に決まってるのよ? それに、ここまで来ておいてそれは無いわ。いずれ私は魔に墜ちるものだし、帰る場所なんてもう他には無い事は貴方だって存知よね?」
毅然として告げると、ミランは眉間を揉んだ。
「確かにそうかも知れないが……ベルは俺の事愛してるだの好きだのそんな感情は無いだろ?」
極めて真面目に訊かれて、ベルティーナは口篭もった。
──決して嫌いではないだろう。寧ろ彼に対して興味があるのだから、好きだとは思う。だが、自分はきっと彼以上の口下手だ。しかし、こうもいざぶっつけ本番で言われてしまうと、自分の本心を曝け出すのも恥ずかしいもので……。
「別に──」
──上手く言葉に出来ないけれど、嫌いではない。好きよ。と、ベルティーナが意を決して本心を曝け出そうとした途端だった
ミランはスンと鼻を鳴らして、遠くを睨むように見つめのである。
突然の変貌にベルティーナが驚嘆するのも束の間……彼は、ばつが悪そうに舌打ちを入れた。
「どうしたの急に……」
まるで獣のような瞳だった。それも見た事も無い程の険しい面で……。
「風の強さに嫌な予感がしてたが……やっぱり俺、ベルに着いてきて正解だった」
何故に風が嫌な予感か、着いてきて正解とは……。
ベルティーナは彼の意図を読み取る事が出来なかった。
「嫌な予感って……」
復唱して訊けば、彼はベルティーナを一瞥する。その表情はどこか焦燥さえ感じるものだった。
「……確か、前に出掛けた時に少しだけ話しをしたよな? ナハトベルグ城周辺は割と穏やかではあるが、この世界は希に災害に見舞われるって。それがこれ」
「……風が?」
ベルティーナが首を傾げて問うと、彼は頷いた。
「ベル、お前は早急に城戻って使用人達を叩き起こして欲しい。それで城門を開いておくように伝えてくれ」
そう言われるものだが、依然として微塵も状況が飲み込めていないもので……。
「待って、どういう事なの……」
彼の袖を掴んでベルティーナが問うとミランは、吐息を溢してこめかみを揉んだ。
「いずれは分かる事かも知れないが、表の世界から来たベルにこれをハッキリと言う事は……」
「
きっぱりとベルティーナが言い放てば、ミランは切羽詰まった顔を背けた。
「……ナハトベルグは表のヴェルメブルグの複製にして鏡合わせ。
きっぱりと言ったミランの言葉にベルティーナは目を瞠った。
……天災の話しは以前の外出時に聞いたが、まさかそれが表の世界、ヴェルメブルグと繋がっていたとは。
だが、その言葉を聞いて納得した。
『時折』『今はだいぶ減った』と……確か、そんな言葉を彼は言っていただろう。つまり、あちらの戦時はこの天災も日常的だったのだろうと。
「だがな、問題はそこじゃない。加えて自然発火で森林火災が発生したんだと思う。木が燃える焦げ臭い嫌な臭いが微かだけどするんだよ」
彼は今一度、スンと鼻を鳴らした後にベルティーナの両肩を掴み正面を向かせた。
「負傷者を見つけ次第、城に運びたい。だから早く戻って知らせて欲しいんだ!」
──お願いだ。と、真っ正面から真摯に言われて、ベルティーナは有無も言わず急ぎ
そうして、ベルティーナが庭園を出たと同時だった。
「ミラン! ベル様!」
リーヌの自分達を呼ぶ声が聞こえて、ベルティーナは、リーヌの名を叫ぶ。声のした方を向けば、糸のように目を細めてヨロヨロと歩むリーヌの姿があった。
まるで平衡感覚を失っているかのようだった。ベルティーナは慌てて、彼の元に駆け寄り肩を貸す。
「……ああ、すいませんベル様」
「気にしないで頂戴。貴方達が陽光の下で目が眩むとは先程ミランに聞いたばかりだったわ。ゆっくりでいいから城に戻りましょう」
そう告げるなり、ベルティーナは顔をしかめた。
同種のリーヌでさえこれだ。陽光の下、目も鼻も無かっただなんてミランは笑っていたが、彼だって相当なものに違いなかっただろう。否や、平衡感覚さえ失わずに歩く事が出来た事に逆に驚嘆してしまい、彼の尋常では無い逞しさをベルティーナは改めて悟った。
「ミランは……」
「森林火災を悟ったみたいで負傷者が居れば救助に行くと……」
言って東屋の方を見上げると、黒い竜──ミランが飛んでいく様が目に映る。
「やっぱり……間違いじゃ無かった。正面塔の見張りが南西部の森で煙が上がっているなんて伝えがありましてね」
リーヌがいよいよ瞼を伏せて告げた途端だった。
ゴゥと低い咆哮が次々に轟き、空を見上げると燦々とした青空の中、大きさも姿形もバラバラな竜達がミランの向かっていった方向へ飛び立っていった。
それから幾何か。城に戻ると、城内は騒然としていた。伝えるべき事も既にリーヌに伝えてある。リーヌは城につくなり、目の調子が戻ったのか、ベルティーナに一礼すると、使用人や城の護衛達に声をかけに行った。
その最中だった。自分を呼ぶ声が聞こえてベルティーナが振り向くと、ハンナと双子の猫侍女の姿があった。
「あら……貴女達、起きたのね」
「この大騒ぎで飛び起きました! それに、ベル様がお部屋にいらっしゃらなくて! リーヌ様にミラン様とご一緒に庭園に行ったと聞いたので良かったですが……」
──とっても心配した。と、耳を下げて双子に言われたものだから、ベルティーナは書き置きを残さなかった事を一言詫びた。
「それで……見るからに使用人総出ってかんじだけど」
周囲を見渡してベルティーナが言えば、ハンナは肩を竦める。
「強い陽光の真昼です。魔性の者達は視覚を失うからこそ、負傷者が沢山運ばれる事が予測されるものらしく……それで私達使用人が看護に回るそうで……。私が昇降機を動かします。ベルティーナ様はお部屋に戻りお待ち頂けますか?」
そう言われるものだが、以前ミランに処置を拒まれた時の事を思い出し、ベルティーナは不審そうに眉をひそめた。
「そう。でも一つだけ質問に答えて。負傷者が運ばれるというけど薬に備蓄はあるの?」
率直に訊くと、双子の猫侍女達は直ぐに首を横に振る。
「処置と言ってもガーゼと包帯くらいです。薬は命にかかる程の重傷でなければ使いません。綺麗なお水で洗うくらいで……。そもそも私達はとても身体の作りが強いですから傷の治りが早いです。それでも傷口から壊死なんてした場合は運が悪かったとしか……」
言われてベルティーナは唇を拉げた。
……この世界ではハーブは殆ど”良い香り”のお茶として飲まれているだけでその効能さえ知られていない。それどころか、ただの観賞用か虫除けにしか使われていない。傷の処置に対しても、舐めておけば直る論が蔓延しているもので、医療の発展はあまりにも原初的なもの過ぎる。
ベルティーナは目頭を押さえつつ、大きな溜息を吐き出した。
「……〝壊死したら運が悪い〟なんて本当にどうにかしてるわ。そもそも論で言うけれど、壊死なんてさせなきゃいいのよ」
ベルティーナがぽつりと思ったままの言葉を漏らすと、ざわめいている使用人達の声がピタリと止まった。ふと周りを見ると、その場に居合わせた者全てが、ベルティーナの方を不思議そうに見つめている。
「……私は幾らか傷薬や消毒薬は持ってきている。それに火傷の軟膏くらいなら作ろうと思えば作れるし代用策も浮かぶわ。だから、運ばれた怪我人の処置は私にも手伝わせて頂戴」
はっきりと告げると、周囲はざわめき双子の猫侍女は困却したような顔をした。
「でも、でも……ベル様はミラン様の婚約者で……尊きお方。そんな事をする必要は……」
双子の片割れが遠慮しがちに言うが、それが妙に癇に障りベルティーナはたちまち目を釣り上げる。
「……王子が番人として働いているのはアリなのに? おかしいじゃない。何が悪いかしら? 壊死なんてさせないわ。それこそ、薬草学に長けた私の出番でなくて?」
毅然として言ってやると、双子の猫侍女達顔を見合わせるが……。
「分かりました、ベルティーナ様のそのお心、私が使用人の長に告げましょう」
今まで黙っていたハンナは真っ直ぐにベルティーナを見つめて頷いた。
「王城専属薬師に育てられた貴女程、これほど迄に頼もしい存在はありません。心強いものです」
──頼りにしています。と、頭を下げた後、ハンナは颯爽とその場を去って行った。
それから幾何か。負傷者達はベルティーナが想像するよりも多く運ばれてきた。
この強風だ。森は広い面積を焼いたそうで、現在も延焼中だそうだ。
負傷者達は城の広間を解放し、そこに収容した。中でも目を覆いたくなる程の重度の熱傷を負った負傷者は、空いた個室に収容し、そこで容態を見る事となった。
しかし唯一の救いは、死者は今の所確認されていない事だろう。
ベルティーナは個室に入った重度の熱傷を負った者達の処置に当たっていた。
案の定、消毒液や軟膏は自分が持ってきたものだけでは足りなかった。あくまで応急処置ではあるが、蒸留酒を用いて傷口を洗い、軟膏においては、日中に目が利く自分が城下の街に走り、眠る店主を叩き起こし、蜂蜜を三瓶も買ってそれを代用した。
当然のように、医学の乏しいこの世界で、この処置は不審には思われたものだが……それでも、誰もがベルティーナの言う事を拒みやしなかった。
負傷者は痛がり呻きを上げる者達ばかり。その中でも未だ幼い子供が居た事にベルティーナは酷く心が痛くなった。
だがここで驚いたのは、この場に女王が顔を出した事だろう。それも顔を出しただけでは留まらず、ヴァネッサ女王はベルティーナを見つけて直ぐ、処置の手伝いを行いたいから教えて欲しいと申し出たのだ。
民を思い行動出来る現在の国王……。そして、民を思い、いち早く駆けつけた次期王の候補。と……それだけで、自分は〝本当に良い国〟に嫁ぎに来たものだとベルティーナは改めて思った。
……そうして、負傷者全員の処置が終わったのは宵の帳が落ちてからだった。
何やら、小耳に挟んだ話によれば、消火は無事に済んだらしい。しかし集落一つを焼き尽くす程の大火だったそうで、この者達を暫く城に住まう他は無いだろうとそんな話しを聞いた。
しかし、ベルティーナからすれば複雑な心境だった。まさか、ヴェルメブルグでの事がこんな風に反映しているだなんて……。
湯船に浸かったベルティーナは溜息を溢す。
……恐らく戦時は、ナハトベルグは恐ろしい事になっていたのではと想像は容易く、多くの犠牲が出たと思しい。だからこそ、人を恨めしく思い自分を呪いに来た者が居たのだろう。だが、この本当の理由は……やけを起こして双方の世界を滅ぼそう呪ったのだと今ではもうハッキリと理解できた。
何せ”繋がりを持つ”という理論でいけば、表にあるヴェルメブルグが滅びれば、恐らく裏のナハトベルグも滅ぶのだから……。
十七年も昔、翳の女王が自分の所に赴いた本当の目的は……二つの国を存続させる為、未来を繋ぐ為だと今更になってベルティーナは理解する。
しかし、表の世界を乗っ取ればこんな災害に見舞われず暮らせるだろう。とは思う。
だが、その部分は今までのミランの発言を繋ぎ合わせると少しずつ答えが見えてきた。
魔性の者達の祖先は、表にあるヴェルメブルグにそっくりの
つまりは、表に住まう異種の隣人無くしてはナハトベルグは無いのだと……。
しかし、それでも考える程に不毛な世界だと思えるもので溜息しか溢れず、ベルティーナは思考を止めた。
────明日も、負傷者の包帯やガーゼを変えたりと少し忙しくなるわね。眠る前に足りない薬や材料などをメモしておきましょう。
そんな事を考えつつ、ベルティーナは気持ちを入れ替えて湯船から上がった。