ザザ……と、音を立てる波は行ったり来たり。
波打つ水面に一直線に描かれた月明かりの道に満天の星。それは圧巻の光景としか言いようも無い。
「ねぇ……この海はいったい何処まで続いているの」
浜辺を歩みながら、ふとした疑問を言うとミランは立ち止まり水平線の彼方へ視線を向けた。
「それは俺にも分からない。ベルは知っているか知らないが、ナハトベルグの裏側にあるヴェルメブルグ周辺にこんな近くには海なんて無い。地形は似ているが、何をもって先祖達はこんな近くに海を設けたのかもわからないがな」
「そう、貴方でも知らないのね」
ベルティーナも同じように三日月の浮かぶ水平線の彼方に視線を向けた。
「ただこんな逸話があってな……」
そう言ったミランに、ベルティーナが眉をひそめて一瞥すると彼も僅かに視線を向けた。
「俺が子供の頃、叔母のマルテさんから、この海の果ては表にある人の世界ヴェルメブルグの〝何処か〟と冥府に繋がる二つの門があるってそんな逸話を聞いたよ」
ミランの言った言葉にベルティーナは更に眉をひそめた。
「まぁ逸話だから事実でも無いでしょうが。海に門? 確かに、ヴェルメブルグに向かう道が一つだけとは限らないから、それはあり得そうね。だけど冥府だなんて……」
──冥府とは死者の向かう場所。それは人間も共通の認識を持っている。そこで冥府の王の審判を受け、天国に昇るか地獄に墜ちるかと言われているものだ。
同じ信仰でもその諸派によって、考え方も違うものらしいが、特定の神に対する信仰が無く、夜や闇を信仰する魔性の者達にもこの概念があったのかと思うと、少しばかり不思議に思えてベルティーナは小首を傾げた。
「当たり前のように俺達にだって死はある。人間は死ねば天使になるだとか星になるだとか言われてるみたいだが、俺達の死後は夜空に瞬く星になると言い伝えられている。魔性の者は死んだら、まずは死者の向かう先、冥府に辿り着くものだとされている。俺達先祖は元々人間と同じ世界に住んでいたもんだし、冥府の概念があるのは、その名残かも知れない」
それを聞いて、ベルティーナは納得してしまった。しかし、一つだけ疑問は残るもので……。
「そんな人間を貴方達ってどう思うの?」
率直な疑問を投げかけてみれば、ミランは驚いたのか幾度も瞬きをした。
「どうって……。どうもこうも俺は大して何も思って無いが。戦は決闘に似てるだろうが、殺すまでするのは理解出来ないからな。だから、深く関わるとろくでも無いだろうから二歩、三歩退いてるだけ。何だろう。俺らは俺、あっちはあっち。別に好きにすりゃいいんじゃねぇのって程度で」
「随分適当ね……」
ベルティーナが目を細いて言うと、ミランはクスクスと笑みを溢した。
「まぁ、そういうもんだしな。双方の決定的な違いは、俺らは物事を複雑に考えず、原初的で大雑把なんだろうな。そりゃ実害を与えられりゃ恨めしいだとか思う事もあるもんだが、そっくりな複製世界を真裏に作って、文化を取り入れている時点で尊敬している部分も事実上あるんだと思う」
「なるほどね。だけど正直、尊敬するようなものでも無いとは思うわ……」
さっぱりと言ってベルティーナが目を細めるとミランは直ぐに首をゆるゆると振った。
「いいや。まず、俺達が本来の姿じゃなくて、決闘時以外は魔力を少し抑えた半人の姿で過ごしているのは、人と共存しようとしていた過去の歴史があるからこそだと思う。人間に憧れを持たなきゃ、服を着てこんな姿で生活しないだろうしな」
そう言い終えると、ミランはシュネーバルの入った袋を砂上に置いた。そうして、腰を下ろして長靴と靴下を脱ぎ始め……。
「……何をしているの?」
いきなりの行動を不可解に思ってベルティーナが思わず聞けば彼は首を傾げた。
「何って。折角海に来たのに、あんまり難しい話を続けてもな。ベル、海初めてだろ? 靴を脱いで裸足になったらどうだ? まぁもう夏だし大丈夫だろ。それでも多分少し冷たいとは思うが、海の水に触れてみろよ?」
長靴を脱いだミランは立ち上がり、波打ち際に歩み始めた。
しかし殿方の前で裸足を晒すと……。
もはや、片方の大腿を大胆に露出している時点ではしたない云々は今更ではあるが、それでも僅かに抵抗がある。それに、風呂でも無い場所で水に足をつけたような経験も無いもので……。
「どうした? もしかして怖いのか?」
そんな言葉をミランに投げかけられてベルティーナはムッとして彼を睨んだ。
「そんな訳ないじゃない」
臆病者のようにされた気がして少しばかり腹が立った。鼻を鳴らしたベルティーナは、躊躇いながらも靴とガータリングに吊されたストッキングを脱ぐ。
完全な素足だ。羞恥は当然にあるが、それでも裸足で地面を歩くなんて初めてなもので新鮮に思えてしまった。
裸足で踏みしめた砂の感覚は少しばかりこそばゆい。その感触はひんやりとおり、サラサラとしていて肌触りが良いと思う。
ミランの長靴の隣に靴を置き、ベルティーナは恐る恐る、彼の方へ歩み始めた。
しかし、波は寄せては返すもので、どの頃合いでそちらに向かえば良いかも分からない。 そう戸惑っていると……「ほら、おいで」と、彼は手を差しのばすものだからベルティーナはその手を取る。すると、強い力で引き寄せられ足は水に浸かり、ベルティーナの頬は彼の胸に当たった。
「ひゃ……冷たっ」
それに、波に動く砂が足元を擽るように撫でるものだからこそばゆい。なんとも言えぬ感覚で、思わずミランの上衣を掴んでしまう。すると案の定、彼はクスクスと笑みを溢した。
「わ、笑う事ないじゃない! 私、海は初めてなのよ!」
やはり笑われるのは不服である。ベルティーナはミランの上衣を掴んだまま下から睨み付けると、彼は優しく笑みながらも視線を下げた。
「俺の婚約者は言葉だけじゃなくて反応まで可愛いなって思っただけだが」
きっぱりと、それも目を見てきちんと言われた事にベルティーナは硬直した。二人きりの時、相手をジッと見つめる事は求愛と……。それをふと思い出したベルティーナは自分の頬が焼けるように熱くなる事に気付き、直ぐに彼から視線を反らした。
「何で視線反らすんだよ? 少し前まで人前だろうが俺の事をジッと見ていたのに」
「……な、何でって! それはそんな習わしを知らなかったからよ!」
本気で恥ずかしくて堪らなかった。知っておきながらこんな事を言うのは意地が悪いだろう。ベルティーナは慌てて直ぐに顔を背けた。
「ベルは俺から求愛されるのそんなに嫌?」
甘やかに言われて、ぞっとしてしまった。しかも、今は海辺に二人きり。自分は彼の上衣を掴んだまま。未だ曾て無い程に距離が近過ぎるのだ。
流石に近すぎるだろう……。ベルティーナが彼の上衣から手を離し、一歩後退しようとした。だが、途端に腰に腕を回されてしまい抱き寄せられたものだから、ベルティーナは驚いてハッと彼を見上げてしまった。
「嫌か?」
同じ言葉を甘やかにミランは言う。しかし、本当にどう答えて良いかも分からない。それに、こんなにジッと見据えられる事も、この行動の意味も分かる今だからこそ、恥ずかしくて仕方ない。耐えきれずベルティーナが瞑目すると、彼はクスクスと笑いを溢す。
「……何。キスされたいの?」
全く思いもよらぬ言葉だ。ベルティーナは直ぐにカッと目を見開いた。
「なっ……何でそうなるのよ!」
それもしきたりのひとつなのか。全くもって理解出来ず、ベルティーナが真っ赤になってプルプルと震えればミランはニヤリと狡猾に笑む。
「だって、見つめ合った後に目を瞑られたらそういうもんじゃないの普通? 人間でも共通じゃないのか。そこは」
何だ違うのか。と、物凄い残念そうに言われて、ベルティーナは目を細めた。
しかし、また彼の新しい一面を見てしまった気がする。比較的単純な自分に対して、本当に彼がどういう人物なのかベルティーナは未だ掴めていないように思った。
「……十七年も幽閉された世間知らずに聞かないで頂戴。人間の場合なんて知ってる訳ないじゃない。でも貴方、私が貴方達の習わしなんて知らない事は存知よね?」
呆れて言ってやると、ミランは大きな溜息を一つ溢しつつ、ベルティーナの髪を撫でた。
「それでもベルは天性的な魔性だよな。堪らない程に良い臭いで俺をどこまでも誘惑する。それじゃあ〝取って喰って下さい〟って言ってるみたいに無防備過ぎて」
──蜜月は朝も夜も抱きしめたまま離さない気で居るから覚えてろよ。なんてボソボソと付け添える。きっと彼は聞こえない程度に言ったのだろうが、ベルティーナはそれを確かと聞いてしまった。
蜜月。朝も夜も抱きしめたまま……。
想像出来る事は甘やかで淫靡な事しかない。 海水に浸かったままの足元が冷たかった筈だった。だが、もうそれも感じられない程に足の先まで熱く感じてしまう程。羞恥が身に暴れ回り、ベルティーナは顔を真っ赤に染めて震え上がる。
「……貴方にとって私は子孫を残すだけの相手かしら?」
魔性の者だ。人間とは異なる生き物だ。繁殖を中心に考える事だっておかしくないとは今更のように思う。それに、先程聞いた彼の父親とヴァネッサ女王の話を聞くと、強き遺伝子を残そうとしたように窺える部分もあるもので……。
「どうせそうでしょう」なんて言い添えると、ミランはきっぱりと否定を入れた。
「そんな訳ないだろ。俺はお前をずっと待ってたからな。絶対に一人にはさせないって、ここでは絶対に悲しくて寂しい思いをさせないって……俺は、生涯お前だけを愛し続けるってベルに初めて会った昔から心に誓ったから」
頭の上から降りてきた言葉にベルティーナは目を瞠った。
……昔から? 一人にはさせない? 何故にそんな言葉が出てくるのかだろうか。しかし思えば、初めて会った時彼は「俺を覚えているか?」と言っただろう。
「ねぇ……前にも貴方は私に〝覚えているか?〟なんて言ったけれど……私をどうして知っているの? 私は貴方に会った事があるの?」
ベルティーナが彼を一瞥して聞けば、ミランは直ぐに頷いた。
「ああ、会ってるよ」
「でも、いつ……? 私はずっと庭園に幽閉されていたのよ?」
思わず彼の顔をジッと見てしまう。だが、それでも視線は反らせない程に気になって仕方ない。何せ、それらしき記憶なんて微塵も残っていないのだ。否や、彼が闇に姿を眩まして塔の中で暮らす自分の事を見ていたのかも知れないが……。
「……まぁそれは、いつかベルが思い出してくれたら嬉しい」
──あれを俺が言うのは、少しばかり抵抗があるもんだから。なんて付け添えて。彼はばつが悪そうに視線を反らし、浜辺へ向かって歩み始めた。
浜辺に着き、脱いだままの靴の隣にミランは腰掛けた。しかし、彼に続き水面から浜にベルティーナは立ったまま。それに見かねたのか、ミランは自分の隣の地面を叩き「おいで」と言う。
「ドレスが汚れるわ」
多分怒られやしないだろうが、気がかりである。それもなかなかに上質な布で出来ているとは目見えて分かるからこそ抵抗を感じてしまうもので……。
「立ったままでも別に構わない」とベルティーナが言おうとした途端だった。
「……じゃあ、俺の膝に座るか?」
と、ミランが真顔で言い出すものだから、ベルティーナは目を丸く広げて硬直した。
「ベルに触れられるのは俺としても嬉しいし、ドレスが汚れない。どう考えても、一石二鳥で両方が幸せな方法だろ?」
本当に、どうすればこんな考えに行き着くのだろうか……。阿呆なのだろうか。
そんな風に思いつつ、ベルティーナが目を細めた途端だった。
ミランは腰を少しばかり起こした。すると瞬く間に腰に手を回され、膝の裏に手を回される。そうして一瞬のうちに抱きかかえられたベルティーナが悲鳴さえ出す事を忘れてぽっかりと口を開いた。
「ほい。じゃあ座るか」
と、彼は暢気に言うが、ベルティーナは目を白黒とさせる。
「ちょっと、どうして! 合意もしてないわよ!」
「別に厭らしい事するわけでもないし……膝に座るくらい困った事でも無いだろう?」
「それでも貴方、私の臭いが良いとか変な事言うし! 貞操の危機を感じるわ!」
ベルティーナが捲し立てるが、それをもお構いなしにミランは座り、膝の上で暴れるベルティーナを押さえつけるように抱き寄せた。
「ほら。暴れて砂の上でも転がってみろ。ドレスのあちこちが汚れたら、侍女に誤解されるかもな? 支度中にハンナだかがそんな事を言ってただろ?」
──部屋が隣だから筒抜け。だなんて目を細めて言われて、ベルティーナは硬直した。
「聞いてたの……」
「ああ。でもベルの言葉を聞いて、俺って割と信用されてるなとは思ったが」
「分かったわ。大人しくする。貴方を信用しているから、だから本当に変な事だけはしないで頂戴」
彼を一瞥もせずにベルティーナが言うと、ミランは合意に頷いた。