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1 魔に墜ちる感触

 ベルティーナは発光球体が織りなす幻想的な夜景を東屋でぼんやりと眺めていた。 

 夕刻から数時間。こうして毎日のように庭園に出て作業をしている訳だが……毎日のように丁寧に手入れしていればさほど雑草も生えない。それに苗を植えて未だひと月も経っていないのだから特に代わり映えも無い。

 まず、栽培するハーブをお茶や薬にするにしても、もう少し苗が成長しない事には意味が無い。だから、あとは育つのをひたすらに待つだけではあるが……。

 ────また退屈になって来たわね。

 心の中でぽつりと独りごちつつ、ベルティーナはテーブルのカップを摘まんで紅茶を一口飲んだ。

「ベルティーナ様、何だか浮かないお顔されてますね。どうされたのです?」

 少しばかり心配そうに聞かれて真正面を向くと、狼の大きな耳をくたりと下げたハンナが浮かぬ面持ちで見つめていた。

「別に大した事でも無いわ。収穫だって未だ出来そうに無い。これといってやる事も無いから次の退屈凌ぎを考えていただけよ」

「確かにそうですねぇ。こんだけお手入れをしているので、お庭も綺麗ですし」

 そう言ってハンナは庭園を眺望する。だが、直ぐに何かを思い立ったようで、彼女はパチリと手を合わせて、再びベルティーナに向き合った。

「そうですよ。ベルティーナ様って読書好きですよね? 本が好きであれば城の地下にある図書室に行くのも良いかも知れませんよ?」

「図書室があるの?」

 それは初耳だ。そもそも城に地下があった事だって初耳で。ベルティーナが少し興味を持って訊くと、ハンナは頷く。

 ええ、私も使用人達から聞いただけですけど。リーヌ様ってなかなかに読書家だそうで、暇があれば図書室によく行っているとか……そんな話を聞きましたね。

 ハンナは柔らかく笑むが、その名を聞いてベルティーナは少しばかり居心地悪そうに眉根を寄せた。 

 自分はつい最近まで、彼を女性だと思い込んでいた。それも……ミランの恋人だと。

 その勘違いをミランはきっと言わないだろうとは思っていたものの……あまりに面白かったのか、彼は本人に言ってしまったのである。 

 その結果、拉致騒動の翌日リーヌはベルティーナの部屋にミランを引き摺って訪れてたのであった。

 ────酷いですベル様! 僕を雌だと思い込んでいただなんて! この逞しい角! どこからどう見たって雄じゃないですか!

 確か、そんな風に捲し立てられただろう。ミランと言えば、その背後でプルプルと震えながら笑いを堪えるのに必死そうで……。

 そんなこんなで、自分が勘違いしていたミランとリーヌの禁断愛の話は城中に蔓延してしまい、ベルティーナは赤っ恥をかくことになった。

 しかし、なぜにいちいち当人に言ったのか……。

 それを明け方に訪れたミランに憤慨して問い詰めたところ、あまりにその勘違いが可愛らしかったからだと言われてしまった。それに、自分達の関係性の潔白を証明出来るからと……。

 しかし、雄同士で幼馴染みという間柄にしては、いくら何でも仲が良すぎるように今でも思う。それもお揃いの指輪までして……あの態度だ。勘違いして当然。と、一連を思い出してしまったベルティーナは一つ溜息をつき目を細めた。

「確かにリーヌ様って男性には見えませんよねぇ」

 浮かぬベルティーナの心中を察したのか、ハンナは吐息と共に溢した。

「いちいち掘り起こさないで頂戴……」

 恨めしげに睨むと、ハンナは慌てた様子で顔の前で手を振った。

「え、ええ……でもでも私だって魔に墜ちる前までは〝臭い〟で判別なんて出来ませんでしたし、リーヌ様の事は男装令嬢とばかり思っていましたもの! 未だ殆どが人間のベルティーナ様に分かる訳ないじゃないですか」

 必死になってフォローを入れられるものだが、ベルティーナは依然として腑に落ちない様子で更にジトリと目を細めた。

「そうね……魔に墜ちればきっと変わるでしょうけど」

 そう言って、ベルティーナは再びカップに口をつけて紅茶を啜る。

 しかしながら、未だ自分は魔に墜ちられていない。時より胸の紋様が熱くなる兆候らしきものがあるが、それでも未だ何か満たされていないのか変化は微塵も無かった。

 ……だが事実、兆候が訪れる頻度は確実に多くなっただろう。魔に墜ちられる事は喜ばしい事の筈ではあるが、ベルティーナの心の内では畏怖の感情が膨らみつつあった。

 ハンナのように”夜に祝福”されれば良い。だが、祝福されなければ葬られる事を知ってしまった事もあるからだろう。それに目の前でハンナが魔に墜ちる場面を見てしまった所為で、あのような苦しみを自分も味わうものかと不安は尽きない。

 ベルティーナは紅茶を飲み干した後、周囲を軽く確認するように辺りを見渡す。

 今はハンナと二人だけ。イーリスとロートスの双子の猫侍女に関しては、今日は部屋の掃除を行っているそうで姿は無い。

 誰も居ない。二人きり……それを確認して、ベルティーナは少し躊躇いながらも切り出した。

「ねぇハンナ。少しだけ聞きたい事があるのだけど……」

「改まってどうされたのです?」

 途端に声を掛けた事に驚いたのだろう。ハンナは黄金きんの瞳を丸く開いて、小首を傾げた。

「その……魔に墜ちた時、貴女とても苦しかったわよね。どんなかんじなのかしら。あまり記憶に無さそうだけど、何か覚えて無くて?」

 ベルティーナは声をひそませて訊くと、ハンナは頤に手を当てて瞑目した。

「ううん……そうですねぇ。あの時の事……」

「ほんの些細な事でもいいの。どんな感じだったか覚えている事があれば教えて欲しいわ」

 あくまで、毅然と。表情を変えずにベルティーナが聞けば、ハンナは何か思い出したのか、パチリと黄金きんの瞳を開く。

「ええ……そうですね。とてつもなく苦しかったですよ。これは確実に死ぬと思いました。骨が砕けるような……でも骨なんか砕けた事も無いのでたとえですけど。全身が痛かったです。ですが、あまりに苦しくて痛くてそこで意識が途絶えたものですけど……」

 完全に魔性に墜ちた瞬間の事は全く覚えてもいない。と彼女は言い切った。だが、途端に何かを思い出したのか「あっ」と言葉を発する。

「……ただ、何でしょう。自分の心に住まうもう一人の自分に会ったようなかんじはありました。何というのか……醜い心を持つ自分といいますか……」

「もう一人の自分?」

 ベルティーナは眉をひそめて復唱するとハンナは無言で頷いた。

「ええ……こう。今だから言えますけど……。取り乱した私の背を優しく摩って下さったベルティーナ様のお人柄を知って、翳りの国に来る事に私も腹を括りましたが、当然のように魔に墜ちる事に畏怖はありました。人間じゃ無くなるんですもの。その畏怖を魔に墜ちる苦しみの中で思い出し……」

 そこまで言ってハンナは話を止め、ベルティーナを不安気に一瞥する。

「い、今はそんな事は思ってもいませんよ? ベルティーナ様の所為なんて微塵も思ってもいませんから。どちらかというと自分の運命を呪ったというのか……」

「分かってるわよ。いいわ、気遣わず話を続けて頂戴」

「何でしょう。あれが自己幻視ドツペルゲンガーとでもいうのでしょうか。ここで幸せに生きていこうと思う私の思いや感じた幸せ。それをもう一人の自分が全て否定するのです。ですが……」

 ハンナは複雑な面持ちで言葉を止めた。だが、表情を見るからに何かを必死に思い出そうとしている事が目に見えて分かった。

「忘れてしまったなら、無理に思い出さなくてもいいわ」

 ベルティーナはさっぱりとした口調で言うと、ハンナはヘコリと頭を下げた。

「ごめんなさい……。本当にもう記憶も朧気で……」

 ──自己幻視ドツペルゲンガーらしきものが消えた途端、意識を取り戻し目が覚めたようなものだった。と、ハンナは言い切ると深い溜息を溢す。

自己幻視ドツペルゲンガーね……」

 確か、超常現象の一つとして書物の中で見かけた事があっただろう。

 それを当人が見ると死ぬと言われているが、もう二度と人間に戻る事も出来ない呪いだからこそ、あながち間違っていないように思える。

 ……しかしハンナの話を聞き、全てを繋ぎ合わせると、邂逅した自己幻視ドツペルゲンガーに打ち勝つ事が夜の祝福になるのではないかと憶測が過ぎる。と、なると……自我を失っている状態は自己幻視ドツペルゲンガーが自分の身を支配した状態と言えるのだかろうか。そんな憶測が過ぎるが、真相は分からない。

 しかし、痛みと苦しみの果てに待ち構えるものが自分だと考えると、何だか少しばかり気楽に思えてベルティーナはやや安堵した。

 自己幻視ドツペルゲンガー──それは自分の複製のようなものだと仮定出来る。

 つまり、自分を相手にする事になるだけだ。否や、自分の場合は複製になんて負ける気がしなかった。偏屈な賢女に育てられた毒花の王女とさえ言われた娘だ。当人の方が屈折している可能性だって無きしも非ず。複製にみすみす負ける訳が無いだろうとさえ思った。

 それに、自分の事は自分が何よりも理解している筈だ。だからこそ、確実な勝ち目はあるだろうと思えて、ベルティーナは胸を撫で下ろした。

 ────だけど唯一怖いと言ったら、やっぱり苦痛よね。けれど、私はいったいどんな魔性の者に成り果てるかしらね……。

 そんな事を思いつつ、食べやすいようにカットされたバームクーヘンをデザートフォークで突いた途端だった。

『ベル様ーベル様ー! いらっしゃいますー?』

 遠くから双子の猫侍女達のかしましい大声が響き渡り、ベルティーナはたちまち眉を寄せた。

 何用だろうか。いい加減にこのかしましさには慣れたが、静謐の中でいきなり大声で呼ばれれば未だ目眩を覚えてしまう事もある。ベルティーナは呆れた視線で声のした方を探ると、二人はトコトコと走りながら庭園に入ってきた。

「あら。あの子達、もうお掃除が終わったのかしら?」

 ハンナは立ち上がって庭園に二人に向けての方に手を振るとどうやら気付いたようで、彼女達はブンブンと両腕を振ってキャッキャと笑い声を上げてこちらに向かって来るのが見えた。

「……貴女、まるでお姉様ね」

 駈け寄る双子の猫侍女を横目に、溜息交じりに言うとハンナはクスクスと笑みを溢した。

「確かにそうですね。未だ少しばかり稚いですし全く可愛らしいですよ。でも先日の拉致騒動の件と言いベル様も人の事言えないんじゃないですか?」

「貴女、随分と言うようになったわよね。私にはそんなモフモフの耳も尻尾も無いわよ」

 呆れた調子で突っ撥ねるように言ってやるが、ハンナは依然として優しい笑みを向けていた。

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