ハンナが目を覚ましてから三日……ミランは変わらず、部屋を訪れる事は無かった。
しかし、彼が部屋に来たからと言って何か話す訳でも無いのだ。ベルティーナからしてみれば、困った事など何一つとして無かった。
片や、ハンナと言えば、経過は良好で早くも昨日から侍女の仕事に戻っている。困った事など無いのだから、もう少し休んでいれば良いと言ったが……以前よりも調子が良いとの事。そんなハンナと今、ベルティーナは畑作業を手伝っていた。
「ベルティーナ様ー! こんな具合で宜しいです?」
溌剌としたハンナの声にベルティーナは作業する手を止め、顔を上げる。少し離れた先、ハンナがひらひらと手を振っていた。
先日の件で少し花壇が荒れてしまった。だから今日は、その手直しをしていたのだが……喜ばしい事にベルティーナの花壇作りがあまりにも本格的な事から、もっと自由に使って存分に楽しめば良いと女王が直々に言ってきたのである。
その為に新たな花壇作りにハンナが励んでいたものだが……本当に仕事が早いものだとベルティーナは感心してしまった。
「仕事が早いわね。貴女、本当に無理して無くて?」
つい先日まで寝込んでいたばかりだ。少しばかり心配になってハンナに訊くと彼女は直ぐに首を横に振るう。
「寧ろ絶好調ですよ。力が有り余っている程で……」
そう言って、彼女はまたブンブンと尾を振る。
……犬や狼の生態は本の中でしか知らないが、彼らは嬉しいと尾を振るらしい。そんな知識がベルティーナにもあるが、明るい面持ちや目を輝かせている様を見るからにあながち間違いでは無いように思う。
しかし……双子の侍女もモフモフとして触り心地が良さそうなものだが、ハンナも負けず劣らず。否や、モフモフ加減だけで言えば、ハンナの方が強いだろう。
ピコピコと動く大きな耳やふわふわと背後に揺れる尻尾を見つめながら、ベルティーナは生唾を飲み、生唾を飲みつつ自然と指先を動かした。
「どうしたのです? 何か、私の耳についてます?」
不思議そうに言われて、ベルティーナはすぐにブンブンと首を横に振るう。
「別に何でも無いわ。ただその……」
「どうしたのです?」
「……そのふわふわな尻尾とか耳、ちょっと触ってみたいって思っただけよ」
恥じらいながら心の内を告げると、ハンナは目を丸く開いた。
「や……嫌なら別に良いのよ!」
──どうしてもって訳ではないわ! と、そっぽ向いて言うと、彼女はクスクスと笑いを溢すが……。
「そう言うのなら、いくらでも」と、優しく言って彼女はベルティーナの手を取り
そうして、背の高い彼女は頭を下げ、ベルティーナの手をピンと立った耳に宛がう。
「…………!」
その感触に、ベルティーナは目を丸く開いた。それはまるで上質な絹の如く。滑らかな毛質で想像以上に柔らかかったのだ。
それはもういくらでも触っていられそうな程で……。
「自分で言うのもなんですけど……結構触り心地だけは良いって思いますね」
────ふわふわ! もこもこ! さ……最高じゃない!
心の中で思うが、思わず顔にも出てしまいそうになる。自分の唇がひどく緩んだ事を自覚して、ベルティーナは一つ咳払いをすると、彼女の耳から手を離した。
「……あ、ありがとう。最高の触り心地ね」
そう言って、また一つ咳払いするとハンナはクスクスと笑みを溢した。
「ベルティーナ様のそこまで嬉しそうなお顔、私初めて見たかも知れません。またいつでも言ってくださいませ。耳を触りたいなどお安いご用ですし」
「──い、いつでも、ですって!」
言われた言葉を復唱してベルティーナはぱくぱくと唇を動かす。
しかし、自分でもなんという反応をしてしまったのだろう……と、自覚するのは直ぐで、ベルティーナは顔を真っ赤にして俯いた。
確かに、ふわふわしていて気持ちが良い。それに、何だか心が綻び癒やされる気がする。それをいつでも触って良いと……夢のような話ではあるが、他人の身体の一部だ。
自分が触れられるのを異常な程に嫌う癖に、何とも矛盾しているだろうとは思う。
「別に女同士ですし……減るものでもないですし」
そう言ってハンナは微笑むが、ベルティーナは額を押さえて首を横に振るう。
「だめよ。そんなモフモフ日常的に触ってたら……きっと私はダメになるわ」
「大袈裟ですよ。それで息抜きになったり、ベルティーナ様の機嫌が良くなるなら私は一向に構いませんけど。と、いうのか……ベルティーナ様、年相応の女の子みたいに可愛らしい部分がちゃんとあるんだって分かって逆に安心しました」
「失礼ね。聡くある事が言いつけだからそれを大優先して従ってはいるだけよ。私だって……若い娘が好むような恋愛物語だって読むし、綺麗なドレスも甘いお菓子も好きよ」
──全く似合っていないでしょうがね。と、啖呵まで切って。ふんと、一つ鼻を鳴らして言ってやると、彼女は噴き出すように笑いを溢した。
そんな和やかなやりとりをしている最中だった。少女達が自分達を呼ぶ愛らしい声が聞こえてきた。声を探すと、東屋に双子の侍女の姿がある。彼女たちは手を振り「休憩にしましょう!」なんて口々に騒いでいたのである。
その背後に聳える
庭園に来る都度思っていた事だが、蔦の絡みついた頑強そうな塔はどこか自分の住んでいたヴェルメブルグ城の塔にもよく似ているだろう。尚、こちらもこちらでそこそこの年期を窺えるもので……。
「ねぇハンナ。あの塔って私が住んでいた塔に似てるわよね……色は違うけれど」
突然話を振った事に驚いたのだろう。ハンナはピョンと耳を動かしてベルティーナの方を向く。
「ええ、まぁ確かに。庭園にある事もそうですが蔦が絡みついてますからね……でもあの塔。使われていない調度品をしまっておく倉庫として使われているそうですよ?」
同じような事を思っていたから、使用人の長に聞いたなんて付け添えて、ハンナはクスクスと笑んだ。
「そうなの……」
……しかし、本当に良く似ている。そう思いつつ、ベルティーナはゆったりと東屋に向かって歩み始めた。
小高い丘の上に佇む東屋まで着くと、直ぐに双子の片割れは椅子を引き、そこに座るように促した。彼女達と関わる事にはだいぶ慣れたものの、やはりこのような丁重な扱いには未だ慣れぬものである。
「貴女達、それが仕事でしょうが……人が見ていない場所なら馬鹿と丁寧な扱いなんてしなくて結構よ」
──好きなよう振る舞って頂戴。と、いよいよはっきりと告げると、双子は少し困ったような顔をした。
「そう言って貰えるのって、とっても嬉しいんですけどねぇ……それが癖になっちゃうと人前でもそうしちゃいそうでイーリスちょっと怖いって思うんです」
「ロートスもイーリスと同じ意見です」
そう言って、二人は顔を見合わせるなり、ほぅと同時に息をつく。
「貴女もそう?」
続けてハンナに訊けば、彼女は苦笑いを浮かべながらも頷いた。
「そうですねぇ。慣れは怖いと思いますよ? 確かに自然体で好きに振る舞って良いなんて言われる程に嬉しい事って無いですけど」
──そんな発言が出来る王女様らしからぬベルティーナ様だからこそ私は大事にお仕えしたいものだと思います。なんて付け添えて、ハンナが柔らかな笑みを向けるものだから、たちまち頬に熱が上がった。
……家族も居なかった。友達も居なかった。話し相手だって居なかった。孤独な自分が孤独では無くなったとそれを改めて悟ったのだ。確かに王女という身分だが、どうして彼女達がそこまでしてくれるかもやはり分からない。
根は優しいからこそ仕えたくなった。とハンナは言ったが、自分は全くそうは思わないのだ。しかし、自分が本当にこんなに幸せな気持ちを持って良いものか……。
そう思った途端に、胸元の紋様がひどく熱くなる。だが、それはほんの一瞬で……。ベルティーナは紋様のある胸元に手を当てて、深く息を吐き出した。
「ベルティーナ様……?」
その様子に見かねたのだろう。ハンナが心配そうに顔を覗き込むものだから、ベルティーナは慌てて首を横に振る。
「いいえ、何でも無いわ……」
「お庭のお手入れに張り切って疲れちゃったんですかね。それに最近色々ありましたし」
「楽しいのは分かりますけど、ベル様は人間。身体が脆いのです。休憩はちゃんととらないとダメです! さぁさ、座って下さい」
そう言って、双子の猫侍女に無理矢理座らされてベルティーナは一つ溜息を溢した。
幸せだと思った。だからこそ紋様が疼いたのだろうと安直に理解出来る。これが積み重なる毎に自分はいつか魔に墜ちるのだろうか……。
魔に墜ちる事は、復讐を目論む自分からしても喜ばしい事ではある。だが、怖くないと言えば嘘になるだろう。こう言ってはハンナに失礼だが……やはり一度目の前で見てしまうと、尚更にそう思うようになってしまった。
ハンナは理性を取り戻し、夜に祝福されたものだが……祝福されなければ、この世界でも生きる事が出来ないのだ。そんな不安がざわめけば、自然と心の縁に翳りゆく。
────そもそも、私は婚約者の眼中に無い。それに夜に祝福されなければ……。
ベルティーナはすっかり冷めた胸元を押さえて俯いた。
この世界で幸せになりたい、憎き母国へ復讐したい。これらは”あまりに極端”と、今更ながらに思ったと同時、ベルティーナは自分が何て傲慢な女かを悟った。
────どちらも取るなんて……やっぱり欲張りなのかしら。だけど……。
カップに注がれたハーブティーを覗き込むと、酷く落胆した面を貼り付けた自分の顔が映って尚更に気分が滅入ってきた。
「ベルティーナ様? 本当に大丈夫ですか?」
間近から響いたハンナの声に、我に返ったベルティーナはカップを取りながら首を横に振った。
「ええ、少し考え事をしていただけよ。大した事で無いわ」
そっけない嘘を吐き。ベルティーナは目を細めて庭園を見下ろした。