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4 惨めな程に薄い存在意義

 その日の明け方、ミランは部屋を訪れなかった。否や、その次もその翌日も彼が来る事は無かった。

 少しばかり気がかりには思った。だが、あの怪我だ。治癒に専念しているのだろうと思えて、ベルティーナは彼の状態を双子の侍女に聞かなかった。

 それに、四日も経過しようとしているにも関わらず、ハンナは未だ眠ったまま。目を覚ましたという知らせも無く、あらゆる点でベルティーナは気が気ではなかった。

 それにあの日の翌日から雨が続いているもので、ベルティーナは庭園に赴いていない。

 やる事と言えば、読書に費やすくらいで他に特にやる事もなく暇を持て余していた。

 ベルティーナは、お気に入りの薬草学の本を閉じ、窓の外で降りしきる夜雨を眺めて、随分と長い溜息を漏らした。

「ベル様、本当にあれから元気が無いです。大丈夫です? イーリスは心配ですよ」

 そう言って、イーリスはハーブティーを並々注いだカップを置き、心配気にベルティーナを見つめる。

「ハンナはじきに目を覚ましますよ。大丈夫です、直ぐに戻って来ますって。それまではロートスとイーリス二人でしっかりベル様にお仕え致しますから」

 片やロートスは焼き菓子の乗った皿を置き、イーリスと全く同じ表情を貼り付けて、ベルティーナを見つめていた。

「別に大丈夫よ、ありがとう」

 そっけなく言って、ベルティーナはカップを手に取りハーブティーを口に含んだ。

 今日のお茶はレモンバームとローズマリーを掛け合わせたものだろう。レモンによく似た、爽やかな香りの中にほろ苦くも華やかな香りがした。

 素直に美味しいとは思う。それでもなかなか気が晴れないもので、ベルティーナはカップを置くと、深い吐息を溢した。


 それから数時間後──部屋で一人、夕食を取り終え、ベルティーナが食後の紅茶を飲んでいる最中、慌てた叩扉こうひが響いたのである。

 給仕をしていた双子が出た所リーヌが立っていた。

 何やら、ハンナがようやく目を覚ましたようで……ベルティーナは直ぐに彼女に連れられ、下層にある使用人室へと向かった。

 しかしながら、リーヌと二人きりはやはり胸が詰まる。

 別に彼女は何も悪くない。それどころか、理性を失ったハンナから守る為に城まで逃がしてくれたもので恩さえ深い。だがそれでも、あの時のミランの言葉を思い出してしまうもので、ベルティーナは彼女と会話を交わす事も無く、その後ろ姿だけ眺めていた。

「さて、着きました」

 紳士的な所作で、彼女はベルティーナを先に昇降機から下ろすと再び先導する。

 それから、深紅のカーペットが伸びる廊下を歩む事間もなく。一つの部屋の前でリーヌは立ち止まった。

「起きていると思います。昇降機の起動に困るでしょうから、お時間を伺ってまた参ります」

 そうしてリーヌは紳士的な礼をした後、足早にその場を立ち去った。

 リーヌが立ち去った後、ベルティーナは恐る恐る叩扉こうひした。すると、直ぐに扉の向こうからハンナの朗らかな声が響く。

 ……ハンナとはあれっきり会っていない。

 あの時、助けを求める彼女に自分は何も出来なかった。そもそも、魔に墜ちる事に腹を括っていたとは言え、自分について来たから彼女はこうなったのだ。会って、拒絶されても仕方ないだろうとは思う。ベルティーナは扉を開ける事も出来ず、立ち尽くしたままでいたが……。

 途端にキィと扉が開き、ベルティーナは目を瞠った。

「あら、ベルティーナ様」

 ハンナは目を丸くしてベルティーナを澄んだ黄金きんの瞳で見下ろした。

 ……確か、彼女の瞳はヘーゼルだった筈。そんな風に思うが、ふと視線を上げるの彼女の耳にはピンと立つ獣の耳と、ふわふわとした尾が背後にあった。

「入って下さいベルティーナ様」

 優しい笑みを浮かべたハンナはベルティーナに中に入るように促すと、部屋の扉を閉めた。

 使用人の部屋は自分に宛てられた部屋とは比べようも無い程に質素だった。だが、黒を基調とした部屋は変わらず、調度品は豪奢では無いものの、気品のあるものだった。

 そうして、ベルティーナはソファに座るように促され、ハンナはベッドに腰掛ける。

「調子はどうかしら……」

 視線も向ける事も出来ず、ベルティーナが訊けば「お陰様で」と彼女は少し嬉しそうに言う。

 しかし、予想外の反応である。拒絶させるかと思ったが、以前と何ら変わらなぬ調子で。彼女はベルティーナに優しい視線を向けていたのだから……。

「その……ごめんなさい。あの時、貴女が助けを求めたにも関わらず、私は……」

 ──何も出来なかった。と、ベルティーナが心の内を打ち明けると、彼女は直ぐに首を横に振った。

「突然でしたし、あんなのどうにもなりませんよ」

「そうは言っても……」

 ベルティーナは言い淀む。するとハンナは、ほぅと一つ吐息を溢した。

「何だかベルティーナ様がそんな調子だと、私まで調子が狂うので、いつも通りの高慢な感じでいて下さいよ」

 言われて、ベルティーナがハンナの方を向くと、彼女はニコリと笑んでいた。

 高慢……そんな態度だっただろうか。そっけなくて、反応が薄い自覚は大いにあるが……。

「私、そんなに高慢かしら?」

たとえですよ。実際そうでもないでしょうけど、喋り方の所為でしょうかね?」

「……貴女、随分と言うようになったわね」

 目を細めてベルティーナが言うと「そういう所ですよ」と彼女が笑むものだから、何だか無性に恥ずかしくなりベルティーナは紅潮してしまう。

「ベルティーナ様、本当に表情が豊かになりましたね」

 そんな風にまたハンナにからかわれて、ベルティーナは彼女を睨む。

 ……確かに、そうだろうとは思う。他人と関わるようになって、少しばかり自分が変わった自覚はあった。しかし、それは良い事か悪い事かは分からない。

 いよいよ反応に困り黙りしてしまうが、仕切り直すように「そういえば……」と、ハンナが切り出す。

「何より、私が魔に墜ちた事でミラン様が大きな怪我を負ったようで……。リーヌ様が訪れた時にそれを聞き、彼も気にしていないから気に病むなとは聞きましたが」

「そうね。かなりの大怪我だったわ。だけど、その件はミラン王子は全く気にしていない様子だったわ。だから貴女は気に病まなくて良いと思うわ。理性も無かったんですもの。どうする事も出来ないでしょう」

 そっけなく淡々とベルティーナは言葉を並べると、彼女は黙って頷いた。

 そうして、ハンナと幾らか他愛も無い会話をした後、ベルティーナは彼女の部屋から出た。確か、リーヌが待機していると言っていたが……。

「……面会、もういいのか?」

 しかし、ハンナの部屋の前で待っていた者はリーヌではなくミランだった。久しく見ただろう。ベルティーナは彼を見るなり息を飲む。

 もうすっかり傷の状態も良いのだろう。肘まで露出した腕の傷は既に塞がってはいるが、未だ痛々しい赤いミミズ腫れが走っていた。それでも彼がこの時間に城に居るという事は数日仕事とやらを休んでいたと思しい。

「リーヌは?」

「そのうち来るんじゃないのか?」

 彼があっさりと答えて間もなくだった。通路の向こうからリーヌが歩んできた。

「あ、すみません……逆にお待たせしてしまったようで」

 慌てた様子でリーヌが駈け寄るものだから、ベルティーナは直ぐに首を横に振った。

「つい先程出てきたばかりよ」

 事実を述べただけだが、リーヌは心底安堵したような表情で見せる。が、すぐにジトリと目を細めてミランを睨む。

「……で、ミランは部屋を抜け出してベル様の追っかけか? 数日は安静と言いましたよね」

「もう傷の具合だいぶ良い。だって暇だし。ベルの部屋からお前の声が聞こえてきて、ハンナが目を覚ましただとか聞こえたから」

 ──だから一応様子見に。と付け添えて、彼はそそくさと昇降機に向かって歩み始めた。その後ろ姿を睨むリーヌは不服そうに目を細めたままだった。


 帰りの昇降機の中、リーヌはミランに安静にしていない事を延々と咎めていた。

 しかし、その様子ときたらまさに痴話喧嘩の如く。流石にこれには煙たく思えて、ベルティーナは目を細め黙ってそれを聞いていた。 

 ────一応私は婚約者なのに、よくもまぁ……。

 よもや自分の事など見えていないようにさえ思えてくる。

 そう思うと、あの時感じた胸の痛みがぶり返してくるもの、早く上層階に着かぬものかと、ベルティーナが一つ息を吐いた途端だった。

「──どうか、ベル様も何とか言って下さいよ! 本当にミランはいつもいつも……! 僕の言うことを聞かないんです!」

 プリプリと怒り散らすリーヌに話を振られるが、ベルティーナは何も答える事が出来なかった。

 この世界で上手くやり、居場所のある幸せな自分を想像しては僅かに希望を抱いていた。それが、ひたすらに惨めに思えてしまうもので無性に目頭が熱くなる。

 ────私は、きっとこの世界でも祝福されない。自分の存在して良い居場所はきっとここにも無い……。

 ふと、思い立つ言葉はまるで呪いのよう。視界を霞ませ、胸の中に嫌な重みを与えた。

「ベル様……?」

 心配そうにリーヌに呼ばれるが、それでもベルティーナは言葉が出なかった。それに見かねたのだろうか……。

「……ベル。どうした? 具合が悪いのか?」

 ミランの声が間近から落ちてきた。そう思ったのも、束の間。間近に彼のビリジアンの瞳が映り、顔を覗き込まれたと分かった途端、ベルティーナはハッと目を瞠った。

「どうしたベル? 凄い目が赤い……どうして泣いてるんだ?」

 彼は手を伸ばし滲んだ涙を掬おうとした途端──ベルティーナは、ミランの手を払い打った。

 それと、同時昇降機が止まり上層階へ辿り着くベルが鳴る。

「──私に……私に構わないで頂戴!」

 冷たく吐き捨てたベルティーナは、昇降機の扉を掴み開けるなり部屋に向かって駆け出した。


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