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2 咆吼の産声

 日没間近から作業を初めて数時間。

 すっかり夜の帳が落ちるが……近くの木々に煌々とした光が沢山くついている事から、視界も良好で不便なく作業は進んだ。

 あれを初めて見た時は、木の至る場所に燭台がくっついているのかと思ったが……大地の含む魔力で灯る発光球体が付けられているそうだ。翳りの国では、このような明かりが至る場所についており、ほんのりと闇の世界を照らすそうである。

 ならば、日中に活動した方が良い……と思うのに。この国は、夜と影──闇を愛する不思議な世界だとベルティーナは知った。

 ある意味、夜を信仰しているように捉える事も出来る。

 ──恵みの星、母なる月、全てを包む慈悲深き闇。なんて言葉を幾度か聞いたが、そこに神という存在は無いらしい。つまり、この世界に教会という宗教的建造物は一切無いそうだ。

 それでも、この世界の夜型生活に慣れ始めて、夜を信仰する意味を分かったような気がした。何せ、本当にこの国の夜は本当に美しいのだから。

 空を見上げると、満天の星。闇を際立たせる魔力の光で彩る夜景。それは何度見たって息を飲む程に美しい。

 ベルティーナは額から滲む汗を拭い、闇を照らす木々の明かりを見上げた。

「綺麗ですよね……。翳りの国はとてつもなく陰気で怖い場所とばかり思い込んでましたが、見当違いでした」

 ハンナはベルティーナの隣に立ち、同じように木々を見上げてぽつりと言う。

「そうね。魔性の者が住まう世界ですもの。情報なんて何も無い。私だってそう思っていたけれど、とても美しい場所だと思ったわ」

 淡々とした調子で言って、ハンナに視線をやると彼女は嬉しそうに目を細めた。

「……それはさておき。貴女、意外と力があるのね?」

 そう言って、ベルティーナは先程まで作業をしていた花壇に目をやった。

 侍女達……主にハンナが大いに活躍した事もあり、地は耕され植え込みも終わった。

 だが、そこには既に双子の侍女の姿無く、ベルティーナは辺りを頻りに見渡す。

「あの二人でしたら……湯船のお湯とお茶を用意すると、つい先程行きましたよ」

 本当にいつの間にやら。全く気付きもしなかった。そんな風に思いつつ、再びハンナの方を向くと、彼女は少しばかり照れ臭そうに笑んだ。

「私、やっぱりベルティーナ様に着いて来てよかったって思いました」

「いきなり何を言うの。野良作業手伝わされて、侍女の仕事の範囲外でしょう」

 きっぱりと言ってやるが、彼女は噴き出すように笑い出す。

「確かに侍女の仕事じゃ無さそうですけど。全く苦ではありませんから。王城に仕えていた時より断然、楽しいですし。身体を動かすのは大好きです」

「……貴女、本当に変わってるわね」

 呆れてベルティーナが半目になって言うと、ハンナはクスクスと笑いを溢し、再び木々に視線を向けた。

「変わってるのはベルティーナ様も同じではないですか。毒花の王女ベラドンナ──そんな名で呼ばれた貴女です。初対面は、本当に怖そうな女の子だって印象が強すぎましたけど」

 それを聞いて、ベルティーナはすぐに眉を寄せた。

「ベラドンナ? どういう事」

 そんな話は初耳だ。ベルティーナは小首を傾げると、ハンナはハッとした面をして、慌てて両手を振るう。

「あ、余計な事を……そのすみません」

「構わないわ。その話、少し気になるわ。話してみなさいよ?」

 彼女を見据えて訊けば、いよいよ観念したのか……。ハンナは一つ吐息を溢した後、緩やかに薄い唇を開いた。


 ────人の愛の暖かさも知らぬ呪われた王女は、誰に対しても辛辣にするもので使用人達にも恐れられた反面、哀れまれた存在でした。

 呪われた王女は美しい。ですが、その性質をたとえるのであれば、薔薇の茨などでは生ぬるく「毒」とさえ言われました。ましてや、名の綴りが毒花ベラドンナに似ている事から、いつからか使用人達には「美しき毒花の王女」と暗喩されるようになりました────


 ハンナは全てを言い切ると、消え入りそうな声で謝った。だが、ベルティーナは直ぐに首を横に振るう。

「別に謝る事じゃないわ。とてつもなく光栄よ。ベラドンナは私が好きな花の一つだから」

 ──美しい花に限って棘や毒を持つ。好きな花にたとえられる事は嬉しい。と、素直に打ち明けると、ハンナは安堵したのか胸を撫で下ろした。

「確かに、毒と薬は紙一重と言いますからね。初対面のベルティーナ様は、確かにおっかなそうな印象がありますけど、単純に……聡く気高く美しいだけだと思います。口とは裏腹に心根は温かいもので……」

 ──そんな貴女にお仕え出来る運命、本当に幸せです。と、笑みながら彼女が告げた途端だった。ハンナは大きく目を瞠り、しゃがみ込むなり断末魔のような悲鳴を上げたのである。

「……ハンナ?」

 ベルティーナは彼女の唐突の変貌に息を飲む。

 いったい、この瞬間で何が起きたのか理解出来もしなかった。顔色だって悪くなかった。つい先程まで至って元気そうだったものだから……。

「しっかりなさいハンナ。どうしたの!」

 悶え苦しむハンナにベルティーナが近付こうとした途端だった。

「────いやあああああ! 熱い! 苦しい! ベル……ティナ、様ぁ助け……」

 助けて。と彼女が縋るようにベルティーナに手を伸ばした途端だった。

 彼女の皮膚から灰色の毛が吹き出すように生えたのである。

「え……?」

 呆然と立ち尽くすベルティーナの影。それと対面するハンナの影は次第に巨大なものへと変貌し、やがてハンナの呻きは、獣の咆哮に似た荒々しいものに変わり果てた。

「ハ……ハンナ……?」

 目を見開き、ベルティーナは背筋を震わせた。 

 あまりの恐怖に、足は崩れ動く事を許さない。そんなベルティーナの前には、牙を剥き出し狂ったように吠える獣がいた。

 ──その獣は、彼女の頭髪と同じ灰金の毛に覆われた巨大なものだった。耳は大きくピンと立ち。尾は双子の侍女達に比べ幾分も太かった。その口は大きく、鋭い牙があり……本の中で見た犬や狼を連想させる姿だった。

 魔に墜ちたのだと分かる。しかし、そんな予兆なんて全く無かったもので……。

 果たして彼女は何を満たしたのか……。

 それを思ったと同時、ベルティーナは彼女の発言が脳裏に巡る。

「お仕え出来る事、本当に幸せです」と、彼女は確かにそう言っただろう。

 恐らく存在意義の幸福。それが彼女の呪いの引き金だと……。即座に悟ったベルティーナは顔を青くして、彼女を見上げた。

「ハンナ、ハンナ……しっかりなさい……」

 その声に気付いたのだろう。ハンナだったものはベルティーナに牙を剥きゴゥと鳴く。 

 何かを訴えているのだろうか。しかし、獣の咆哮にしか聞こえず微塵も言葉を理解出来ない。

 ベルティーナに目を瞠るばかりだったが……。

「何事──!」

 途端にやや掠れた少女の声が響く。その声に視線を向けると、赤髪の少女と自分の婚約者の姿があった。

「……っ! ベル様お怪我は!」

「あ……ぁ、リーヌ?」

 リーヌは駆け寄るなりベルティーナの身を起こし上げ、ミランはハンナだった獣の前に立つ。

「もう大丈夫です。この者はベル様の付き人ですよね……魔に墜ちたばかりで?」

 対して「ええ」と返事した自分の声は、情けない程に震え上がっていた。

「……案の定、理性を失ってるな。俺が引きつけて対峙する。リーヌはベルを城に」

 ──ベルの事を頼んだ。と、ミランは振り向かずに言い添える。その口調はいつもの平坦なものではなく、示唆に慣れた尊厳たるものだった。それにさえ驚嘆してしまうが……「理性が消えてる」「引きつけ対峙する」という言葉が嫌に引っかかる。

「ハンナを……ハンナをどうするの!」

 ベルティーナはミランの背中に叫ぶが、彼は何も答えなかった。

「説明は後で。兎に角、貴女は逃げましょう。ここに居ては危険です」

 リーヌは毅然と告げると、ベルティーナの腕を強引に引いて駆け出した。


 ──リーヌに連れられ、城の中に戻ると酷い騒動が起きていた。「何が起きたか」「無事だったか」と、使用人達がリーヌに問い詰めるものだが、彼女はそれを遮り、無言のままベルティーナを部屋まで連れて行った。

 部屋に付くなり、先に戻って茶支度をしていた双子の侍女達はぎょっとした表情で出迎えた。

「ベル様! この騒ぎは何ですの!」

「ハンナはどうしたのです!」

 双子は次々に捲し立てるが、ベルティーナは言葉が出せなかった。

 ……魔に墜ちたのだと思う。と、伝えようとするが、頭が混乱するばかりで言葉が出ない。すると、リーヌが代わりにハンナが魔に墜ちた事実を伝え、二人に退席するように言った。

「ベル様、まずは落ち着いて聞いて下さい。ただの人が魔に墜ちると、まずは理性を失います。それで理性を取り戻す者も居れば、そうでない者も居ます。ミランは彼女に頭を冷やしてもらう為に真っ正面から対峙しています」

 双子が去ると、リーヌは緩やかに語り始めた。

「理性が戻らなければ彼女はどうなるの……」

 思ったままを訊くが、彼女は首を横に振るばかりで何も答えやしなかった。

 ただそれだけで、嫌に胸の奥が痛くなった。未だかつて感じた事も無い途方も無い焦燥が暴れ周り、苛立ったベルティーナは彼女を睨み据える。

「──っ! どうなるのと聞いてるのよ!」

 荒々しく言い放てば、リーヌは眉根を寄せて目を瞑る。

「……この世界に祝福されなかったと見なされ、僕達の手で葬ります」

 一拍置いて、彼女が区切り区切りに出した答えにベルティーナは目を瞠った。

 ──葬る……つまり殺すのだと。

 それを理解すると、たちまち指先が冷たくなりベルティーナは身を戦慄かせた。

 次第に身体は重たくなり、ベルティーナは崩れ落ちそうになる。だが、それをリーヌに抱き留められ、ソファに座るよう促された。

「そうならないように祈るしかないです。ですが、彼女の心を……今対峙しているミランをどうか信じてあげて下さい」

 そう言って、隣に腰掛けたリーヌは宥めるようにベルティーナの背を撫でた。

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