翳りの国──ナハトベルグに来て、早い事二週間近くが経過しようとしている。
昼夜逆転の生活の始めは、体調が芳しくなかったものだが、それでも一週間も経過してしまうと存外慣れてしまうものだった。
……しかし、その生活は途方も無い程に暇を持て余していた。
特にこれと言ってやる事が何も無いのだ。方や夫となるミランは、ほぼ毎日仕事があるもので……聞く話によれば、夜の帳が落ちる頃に城を出て、夜明けと共に帰って来るそうだ。
果たして、彼がどんな仕事をしているのかベルティーナは知らなかったし、訊く気にもなれなかった。
なぜなら、彼がこの婚礼を望んでいないという点もあるだろう。
あの日、ベルティーナは体調が優れなくなったと嘘をついて、直ぐに自室へと戻った。
その日の夜半、ミランが部屋に様子を伺いに来たが、ベルティーナはベッドに伏せたまま。特に会話を交わす事も無かった。それでも、彼は幾何かベルティーナの様子を見ていたそうで、明け方に部屋を出て行ったそうだ。
そんな話をハンナから聞いたが、彼の行動は何とも不可解に思える。
更に恐ろしい事に、その後毎日ミランは夜明け前に必ずベルティーナの部屋を訪れるのだ。
大した会話も交わさず、ただ一緒に呆然と座っているだけ。そうして幾何か、どちらかが欠伸をした頃に「おやすみ」と告げて自分の部屋に戻っていくのである。
望まぬ婚約者を相手に、全くもって理解不能な行動だとは思う。
いったい何の目的でそのような行動に出るかは分からず、裏が読めないのだ……。
だが、一つだけ考えられる事と言えば……自分と親密な築き、上手い断りを入れて婚約破棄する気だろうかと思う。
そうなれば、ヴェルメブルクと翳りの国で交わされた和平は破綻するだろう。どうなるかは不明だが、最悪の事態と言えば両国が全面的に争う事となる。それは、母国を滅ぼしたいと望むベルティーナからすれば結果だけ見れば悪い事で無いと思った。
だが、婚約が破綻すれば……当然、この城に居れる筈も無いだろう。
それは自分だけではなく、連れ添う事になったハンナもきっと同じ事だ。ただでさえ惨めな目に遭ってきた彼女に、追い打ちをかけるような真似はしたくないとベルティーナは思った。
……無論、自分だって出来る事なら路頭に迷いたくはない。
願わくば無事に婚姻に至らせ、報復は自分がいずれ魔に墜ちた時にすれば良いと思った。
だが、何時になったら魔に墜ちる事が出来るかは見当が付かない。
各々発動に条件が違うとは聞いたが……〝足りぬものが満たされた時〟と言っただろう。
果たして自分に圧倒的に足りないもの──と、ベルティーナは思考を巡らせる。
幸福……と、直ぐに浮かぶものだが、それは、ありとあらゆるものがここから細かく分類する。そもそも、満たされていない事自体が不幸でもあるのだから……。
────苛々するわ。早く魔に墜ちられないものかしら。
ベルティーナは読んでいた薬草学の本を閉じてこめかみを揉む。相当苛立っているからだろう。彼女は親指の爪をギリと噛んだ。
魔に墜ちる事もそうだが、無事に婚姻出来るか考える程、苛立ちは増す。
事実上婚約しているが……正式な夫婦となるのは、彼の即位後になるらしい。その期間は予定では大凡三ヶ月以上になると最近聞いたが……その合間に彼がリーヌと駆け落ちする恐れさえ沸いてくる。
考える程に胸の中の不快が膨らみ破裂しそうになる事を自覚して、ベルティーナは思考を止め、ソファの背もたれにもたれかかった。
────そもそも、こんな事を延々と考えていられるなんて、私……本当に暇ね。
ベルティーナは瞼を伏せて溜息を溢す。
本当に毎日代わり映えが無さすぎる。城の敷地内であれば自由に歩き回って良いと言われたが、至たる場所で声を掛けられる事など目に見えている。それでは更に気疲れを起こしそうに思えて、殆ど部屋から出なかった。
土いじりでも出来たら退屈も凌げそうだが……と、そんな事を思い立ったと同時、ベルティーナはパチリと目を開いた。
────そうよ、そうすれば良いのよ。
何かを思い立ったものの、無表情のまま。ベルティーナはムクリと立ち上がり、颯爽と部屋を後にした。
──ミントにセージにカモミール。
それらハーブ苗が入ったポットの群れに混ざり、ニオイスミレにジギタリス。トリカブトやベラドンナの苗が混ざっている。
それらを見下ろすベルティーナは、無表情でありながらも心の中ではほくそ笑んでいた。
今日のベルティーナの装いは、奇抜に華美なドレスではない。ハンナや双子の侍女の纏うものと同じお仕着せエプロンドレスを纏っていた。
事は数日前に遡る。
ヴァネッサ女王と直接話をしたいと申し出た所、女王は二つ返事で快諾してくれた。そうして即日、女王と話す事となり……ベルティーナは「城に庭園があるならば、自分の好きな草花の栽培をしたい」と申し出た所、あっさりと承諾されたのである。
それから双子の侍女から案内を受け、庭園に赴いたものだが……ベルティーナは一目でこの庭園が気に入った。
高台にある城の高低差を利用しているのだろう。まるですり鉢のよう。煉瓦を敷き詰めた棚状の畑がぐるりと囲っており、薔薇を中心に様々な植物が栽培されていた。
緩やかな階段を上がった高台には庭園全体を見渡せる東屋がある他に、その奥では古ぼけた
女王曰くこの庭園は好きに使って良いとの事。しかし原型があまりに綺麗過ぎるのだ。
新たな苗は、空いた場所に植え込もうと考えた。幸いにも底にある噴水周りや高台にある東屋の付近は殆ど手を加えられていない。そこを耕し、畑を作る事から始める事をベルティーナは目論む。
更に嬉しかった事と言えば「欲しい草花を言えば、苗や種を調達するように庭師に言おう」と、女王が話を付けてくれた事もあるだろう。
そこで、ベルティーナはハーブに混ぜて毒を持つ美しい花々を指定した。
指定した毒花は全て紫の花弁を付ける花。ドレスを選ぶ際「紫が好き」と一度公言した事もあるからだろう。それを誰一人としてそれを怪しむ者は居なかった。
だが、ベルティーナとしてはトリカブトとベラドンナを指定するのは少しばかり緊張した。これら二つは猛毒で、人を殺す力を持つ事で有名過ぎたからだ。
……だが此処は魔性の者が住まう世界だ。彼らに毒はそれほどの脅威では無いのか、毒花に対する深い知識や関心が無いのか定かでは無いが、深く詮索されなかった。
────これらの栽培は初めてだけど、野山に自生するような花だからきっと大丈夫でしょう。株を増やし大量栽培。毒の抽出は製油の抽出と同じ要領でいけそうね。それをヴェルメブルク王城の井戸に……この方法なら魔に墜ちる前でも報復を与えられるわ。それも的確に……。
我ながら本当に良い手段を考えたと思い、ベルティーナは目を細めて唇に笑みを乗せた。
「わぁーベル様何だか凄く嬉しそう」
「ねーベル様が笑ってる所って初めて見たかも」
ミランが言い出した事からか、すっかりこの愛称が浸透してしまったのだろうか。双子の猫侍女達が顔を見合わせて言うものでベルティーナは直ぐに二匹を睨む。
「私だって嬉しければ笑うわよ?」
「でも事実、本当に嬉しそうですね。ベルティーナ様はお花が本当に好きなんですね」
二週間前、初めて顔を合わせた時に、過呼吸を起こしかけていたというのに、もうすっかり慣れてしまったのだろうか……。ハンナが微笑ましそうに自分を見るものだから、ベルティーナは煙たげに一つ鼻を鳴らす。
「そうね植物は好きよ。育てれば必ず応えてくれて裏切りやしない。短い命の一年草でも、次に命を繋ぎ種子を蒔いて再び芽吹く。そこが何よりもの魅力ね」
──何より無駄なお喋りもしないし喧しくも無いから。なんて刺々しく付け添えたが、ハンナは依然として優しい眼差しを向けていた。
「……まぁいいわ。さっさと始めましょう」
淡々と告げると、三人の侍女からそれぞれ返事の声が上がった。
……人との関わりは疲れる。そう思ったベルティーナではあるが、不思議とこの三人の侍女にはだいぶ慣れてしまった。
何せ、着付けや給仕を行う以外に、特にベルティーナの世話を焼こうとせず”ある程度は一人でやれる”と言った言葉を尊重してくれた事もあるだろう。
それに一人で静かに過ごす事を好んでいる事を察したのだろう。誰一人として無駄な介入をする事が無かった事もあり、ベルティーナは少しずつ心を許し始めていた。
「で、ベル様? イーリス達は何のお手伝いをすれば良いですか?」
はーいと挙手しながら、イーリスは訊く。
「まずは地面を耕すわ」
「どうしてです? 穴掘ってポンポン~って植えちゃった方が早くないです?」
全く知識が無いのだろうか。双子が顔を見合わせて小首を傾げる様に、ベルティーナは先が思いやられると思いつつ目を細めた矢先だった。
「あら。イーリスとロートスは存知じゃないかしら? 植物だってふかふかなベッドが必要なのよ? 水も行き渡りやすい土壌にしなくちゃ作物や植物って育ちにくいのよ?」
代わってハンナが説明してくれた。対して、双子は納得したようで幾度も頷く。
何とも的確で分かりやすい説明だと感心して、ベルティーナはハンナを一瞥した。
「ハンナ。貴女、草花の栽培の経験はあって?」
「ええ、ベルティーナ様の居た庭園とはまた別所でカボチャの栽培の手伝いを少しだけ」
「……そう。なら頼りにしているわ」
ベルティーナがそっけなく言うが、ハンナは快く返事をした。