カツカツ、カラカラ……と、小気味の良い蹄の音と車輪の音が車内に響いていた。
その馬車を引きずるのは馬……ではあるが、一本の角を持つ奇妙な生き物だった。
しかし、庭園暮らしのベルティーナは鳥類や虫以外の生き物をろくに知らないだから、それに違和を覚えやしなかった。
車内で会話は皆無だった。
今は真夜中だ。車窓から見える外の景色は真っ暗闇に包まれているもので、特に面白いものなど無い。退屈なものだとベルティーナが一つ息を吐き出したと同時だった。
突如として、女王は御者に馬を止めるように命じたのである。
やがて小気味の良い蹄の音は止まり、馬車はピタリと止まった。
いったい何事か……。とは思うが、ベルティーナは動じる事も無く、真正面に座した女王に視線を向ける。
「さて。ベルティーナ王女の侍女とやら……」
女王はゆったりと切り出し、ベルティーナの隣に座したハンナに視線をやる。
突然、名指しされて驚いたのだろう。ハンナは
「あの空気だった。先程は承諾せざるを得なかったものでな。様子を見ておれば分かるが、お前は無理矢理、我が国に送り込まれるようなものだろう。それにこの件、呪いが解けぬと分かった時点で王女を引き取れば良かったものだからこそ私にも責任がある」
──お前が人の世界に留まる事を望むのであれば、今ここで下車させる。と、女王は続けて本題を述べた。
確かに女王の言う通り、呪われた時点で赤子の自分を翳りの国に連れて行けば、こんな事にはならなかっただろうとは思った。何故か──と、その件をベルティーナが突けば、女王は「息子の子育てにあまりに忙しかった」と恥じらいながら溢した。
……何やら、翳りの国では乳母はおらず、女王であろうが我が子の面倒は自ら見るそうだ。また「自分の種族でこれは当たり前、尚更」と女王は簡略的な説明をした。
不可思議に思う点は諸々あるが、これ以上、訊けば話が長くなるだろう。ベルティーナはそれ以上は訊かずに黙考した。
そうだ。ハンナはこの好機に甘えれば良い。呪われてもいないのに、みすみす人でなくなる必要なんて無い。ベルティーナは願うように思う。しかし、ハンナは直ぐに首を横に振った。
「お心遣い感謝致します女王陛下。ですが、結構です。私はベルティーナ様にお仕えする為、共に翳りの国に参ると意を固めました」
ハンナの返事にベルティーナは彼女を睨み据えた。
「……貴女、本当に愚かね。これがきっと最後の好機でしょうに」
冷たく吐き捨てるように言ってやると、ハンナはまた首を横に振るう。
「ベルティーナ様。先程言いましたよね? 私には帰る場所がありません。私の母国がヴェルメブルクに吸収されたのは割と最近。この国の民と認められるには恐らくあと数十年と時間がかかるでしょう。ましてや、王城から逃げた者だと割れれば打ち首です。バレずとも普通に暮らせる筈が無いです」
「だからと言って……他国に亡命するなり手段があるのではなくて?」
尤もな事を言えば、ハンナはまたも首を振るう。
「……ベルティーナ様、ご存じですか? 現在のヴェルメブルクの領地はとてつもなく広大です。国境には関所を設けてあります。海を渡るにしても身分を証明するものや莫大な資金も必要となります」
ハンナの言葉に、ベルティーナはとうとう困窮してこめかみを揉んだ。
……本当に、どうしようも無い国だと思った。その国の君主と自分が同じ血が流れていると思うと、吐き気さえ催す。しかし、全く無関係な人間を巻き込むなど自分としても気分が悪い。目を細めたベルティーナはやれやれと首を横に振るう。
「……私の場合は、物心ついた時からこうなのよ? 魔に墜ちる呪いは解けぬと聞かされた。だから行く末に覚悟がある。だけど貴女は違うわ。それにね、私だって翳りの国が如何な場所かも分からなければ、魔に墜ちる事が如何なものかも分からないのよ」
「ええ。事実、自分がいつか人で無くなる事はとてつもなく怖いと思いますよ。だけど、先に呪いを受けたベルティーナ様も同じ。そう思うと、そこまで怖くありません。一人では怖いでしょうが、二人なら怖くない理論です。それに私は……」
──貴女なら信頼出来そうだと思えたので、付いて行こうって思えたのです。なんて、ハンナが真摯に付け添えるものだから、ベルティーナは更に目を細めた。
「全く……本当に愚かよ。出会って間もない年下の小娘をよくもまぁ信頼出来るものね。本当に意味が分からない」
フンと、ベルティーナが鼻を鳴らすが、ハンナは柔らかく微笑んだ。
「ええ。愚かでしょうね。事実、ベルティーナ様の言葉には棘が多いとは思いますけど、根はとても温かい方だと思いましたから。そんな貴女をもっと知りたいと思いましたし、ヴェルメブルク城に留まるより、側でお仕え出来た方が、私はきっと幸せだろうと思いましたので」
毅然と告げたハンナの言葉にベルティーナはまたも唇を拉げた。
──温かい? 全くもって心当たりも無い。それどころか、薄汚いこの国に報復を与えてやろうと目論み始めているのだ。
確かに、彼女の境遇には同情はした。だが、それを優しいと判断されるのもおかしいだろう。少しばかり煙たく思ってベルティーナが舌打ちを入れた途端──今の今まで傍観していた女王が一つ咳払いを入れ、鋭い視線を二人に向けた。
……翳りの国と魔性の存在を非難しているように聞こえたのだろうか。確かにあまり良くは言っていなかったとは思う。そうは思うが、気の利いた言葉など言えやしない。ベルティーナは女王から視線を反らし、車窓に腕を乗せ頬杖をつく。
「大変申し訳ございません。翳りの国を悪く言う気はございませんが……自分が魔に墜ちる事を不安に思う事は事実で」
ハンナは素直な詫びを入れるが、女王は直ぐに否定した。
「そう思う事が普通さ。〝魔性の者がヴェルメブルクに踏み入れば呪いを受け、魔力を失いやがて弱々しい人間に成り果てる〟だの言われたら、私だって同じような反応をするだろうさ。全く気になどしてなどいない。ただな……夜が明ける前に帰りたく思ってな」
女王は少しばかり目を細めて窓の外を一瞥すると「結論は出たか?」と吐息混じりに言った。
「ええ、私も参ります」
完全に吹っ切れたのだろうか。ハンナの顔色は明るくなりつつあった。それに、瞳にも精気を取り戻し、本来の活発であろう表情が僅かに見える。
「安心しろ。悲しい事に私の城は使用人不足だ。ベルティーナ王女の世話以外にも、嫌というくらい仕事は与えてやろう。だが、その分安定した生活は必ず約束する」
そう言った女王の言葉に安堵したのだろう。ハンナは頭を垂れ感謝を述べた。
……しかし、不思議に思う。人は魔性の者を怒らせるような事を行ってきたのだ。それにも関わらず、何故に女王はこんなにも慈悲深く人を嫌う事も無く受け入れるのだろう。と、ベルティーナは少し不審に思う。
だが、片っ端から不審点を聞き出すのもおかしいだろう。それに、流石に眠たさの限界を超え、気怠くなってきた。ベルティーナは真っ暗闇の車窓の向こうを見つめ目を細めた。
──翳りの国は、人の世界とは真逆の生活と女王は言う。
つまり、明るくなり始める今これからが、人で言う夜の時間に当たるそうだ。「遠出したのもあるがね。だから少し眠たいのさ」なんて、女王は欠伸混じりに言った。
そうして、馬車に揺られる事幾何か。空が白み始める寸前──空間が藍に色づき、景色の輪郭が見え始めた頃、馬車はハンナの故郷付近の針葉樹林に辿り着いた。
木々が生い茂る道を進んで間もなく。外の景色は一寸先も見えない闇に包まれた。
だが間もなくすると、ぱっと車窓の外の視界は開け、その肥沃な地の輪郭が映し出される。
青々と茂る肥沃な地に朝霧が僅かに煙っていた。しかしミルク色の霧ではない。その色は薄いラベンダー色をしていた。
……しかし、丘陵地帯一面の葡萄畑といい、何となくで既視感のある景色だと思う。そう思った矢先、同じく外の景色を眺めていたハンナはぽつりと「ヴェルメブルク城周辺と同じ地形」と溢した。
「そうなの?」
思わず訊けば、ハンナは直ぐに頷いた。
「木々や道、建物などは違いますが地形に関しては殆ど同じで……」
ハンナが言うや否や、正面に座した女王はクスクスと笑いを溢し、窓の外に視線をやった。
「何を、当たり前の事さ。こちらはヴェルメブルクと鏡合わせ。裏にある世界だからな。ほら、少し前方を見てみるが良い」
言われるがまま、ベルティーナとハンナは視線を向ける。すると、小高い丘の上には黒砂岩に紫水晶の結晶を混ぜて積み上げたかのような立派な城が見えた。
「ヴェルメブルク城と同じ位置に……お城が。ヴェルメブルク城と姿は全く違いますが……」
驚いたハンナがぽつりと溢すと、女王は唇を綻ばせた。
「そうさ。あれが我が城、ナハトベルグ城さ」
「……ナハトベルグ?」
眉をひそめてベルティーナが復唱すると、女王は頷く。
「人間はこの世界を〝翳りの国〟と呼ぶな。だが、美しき夜に祝福されて生きる魔性の者達は皆……この国をナハトベルグと呼ぶのさ」
「現地ならではの呼び方みたいなものかしら?」
ベルティーナがそっけなく聞けば「そうとも言える」と、女王は頷いた。
「さて、もう空が白み始める頃だ。我が息子も帰って来てはいるだろう」
自分の城を見ながら女王は少しばかり眠たそうに告げた。
息子……つまり、自分の婚約者だが、果たしてどんな人物かベルティーナには想像が出来なかった。だが、この女王の子息と考えると、きっとおぞましい怪物では無いだろうと憶測は容易い。
────顔はきっと悪くは無さそうね。彼と上手くやりつつ報復を考えなくては。
心の中でぽつりと独りごちて。近付きつつある紫水晶の城をベルティーナはジッと見据えた。
予定通り、空が白み始めた頃合いにベルティーナ達はナハトベルグ城に辿り着いた。
「長旅ご苦労様です」
労いの言葉を言って、御者の男は馬車のドアを開けて女王に手を差し出す。
女王はこれまた優雅な所作でその手を取り、馬車から降りた。
そうして御者は今度はベルティーナに手を差し出すが……。
「いいえ結構よ。降りられるわ」
直ぐさま拒んだベルティーナは、ストンと馬車から降りた。
「これまた失敬」
それだけを告げると、御者は今度はハンナに手を差し出し、彼女を下ろした。
「さて。細々とした話は後日で良いか。お前達も疲れているだろうから今日は早くに休むと良い。だが、我が息子とお前につけるこちらの侍女だけは……」
と、女王が話している最中だった。
『女王様ー! おかえりなさいませー!』
随分と元気溌剌とした少女の声が二つ重なって聞こえた。
ベルティーナとハンナは、声がした方に同時に顔を向ける。だが、その声の主達の姿を見てベルティーナの思考はピタリと止まってしまった。
手を振って駆け寄ってきたのは、漆黒のエプロンドレスを纏った二人の少女だった。
──ふわふわと長い髪は、夏の夜空に似た藍色。それを緩く二つに結っており、星屑のような
年齢は自分より三つ四つ年下と思しい未だ稚さを含む可憐な少女達だった。
だが、ベルティーナの目を一番に惹いたのは全く別の部分だった。
彼女達の頭頂部には獣の耳らしきものがツンと立っており、臀部からはモフモフとした尾が揺らいでいるのだ。何の生き物を主体としているのはベルティーナには分からない。だが、とてつもなく愛らしいと思えてしまう。
(な、な……なにこの生き物は!)
全くもって初めて見る生き物だ。眠い眼を限界まで持ち上げたベルティーナは慌ててハンナの方に視線をやる。
「ね、ねぇ貴女。あのモフモフの耳と尾の生き物って……」
──何かしら。と、小声で訊くと、ハンナは小首を傾げた。
「どう見ても猫だと思いますが……」
「……ね、猫ですって?」
その名は幾度も本の中で見かけただろう。
気分屋ではあるが、甘えると喉を鳴らす愛らしい仕草を見せる生き物で……。一度で良いから見てみたいと思い続けていた生き物で……。
────猫、猫。これが猫?
興味は高ぶり鼓動が高鳴るが、それでも表情に出さないように。ベルティーナは彼女達をジッと見据える。しかし、その視線に直ぐに感付いたのか、彼女達は直ぐにベルティーナとハンナの方に視線を向けて、ニッコリと無垢な笑顔を咲かせて控えめに手を振った。
「見てよロートス! 本当に人間の王女様だ! 私達よりもお姉さん! とても綺麗!」
「凄いわイーリス! 王女様だけじゃなくてもう一人、人間のお姉さんが居る!」
キャッキャと無邪気にはしゃぐ二人を見て、ベルティーナは直ぐにまたにハンナの方を向く。
「ベルティーナ様、どうなさったのですか。何だかソワソワして……」
「……どんな反応したら良いか分からなくて、妙に不快に思って困っているのよ」
こんな胸が高鳴った事などあっただろうか。落ち着け……とベルティーナは自分に言い聞かせながら俯いて間もなくだった。
「はしゃいでないで、部屋に案内しておあげなさい! 人の世界では先程までが夜。王女と付き人は恐らく、ろくに眠ってさえいない。急ぎ入浴と就寝の準備をなさい!」
少しばかり凄みのある声を出して女王はピシャリと言う。すると、二人の少女は慌てて、ベルティーナとハンナの元に駆け寄って来た。