──セージにオレガノ、ミントにローズマリー。
多年草ハーブが青々と生い茂る早朝の畑は霧が煙っており、青々とした匂いが凜とした空気いっぱいに充満していた。
もうすぐ日の出の頃合いだ。霧の合間から陽光が金糸のように射し始め、爽やかな一日の始まりを告げる。だが、薬草畑でせっせと雑草むしりをするベルティーナの面持ちは鉄仮面の如く硬い無表情だった。
庭園暮らしは物心付いた時から。朝の薬草畑の手入れが彼女の毎日の日課だが、これだって今日が最後だった。
雪解けの春を過ぎ去り、草木が萌ゆる初夏。本日、ベルティーナは十七歳の誕生日を迎えた。つまり、自分が翳りの国へ嫁ぐ日である。
ベルティーナからすれば婚姻は大した問題ではなかった。特別に気がかりな事など特に無い。強いて言うのであれば、育ての母である賢女から受け継いだ庭園の花々や薬草畑の行く末だけが心配だった。
……とは言っても、ここは王城の敷地内だ。
きっと城に遣える薬師か庭師が面倒を見る。だから要らぬ心配に違いない。そう思い正したベルティーナは焦茶色のワンピースの裾を翻して、優雅な所作で立ち上がった。
王女という身分でありながら、城に入る事を拒絶されたベルティーナは物心着いた時から、この庭園でひっそりと暮らしている。はじめこそは王城に遣える薬師の老婆と暮らしていたが、彼女が他界したのは五年も昔。それっきり一人でベルティーナはこの庭園で暮らしてきた。
だが、その生活に不便は無かった。
毎日、庭園の入り口にはパンやミルクや腸詰め肉の他、様々な食材を使用人達が置いていく。それに庭園内の畑で作物も幾らか育てているもので、食べ物に困った事は皆無に等しかった。
古ぼけた
流石に書物は全てを読み終えているどころか、何周も読み返しているものだから、内容は全て頭に全て入っており、いい加減に飽きてしまう程だった。
それでもベルティーナは本が好きだった。何せ、本は外の世界を知れる唯一の存在に違いないからだ。
冒険や恋愛を綴った架空の物語にしても、異国の詩集にしても、その文から読み取れる様々な情景を想像する事だけは心が躍った。
たとえば春の訪れた街の華やかさ。軒下で〝猫〟という気まぐれで可愛らしいふわふわとした動物が日なたぼっこをする様や、爽やかな風が吹き抜ける夏の葡萄畑を駆ける〝犬〟という忠誠心の強い動物の姿。これらを細やかに想像する事は感情が乏しいベルティーナでも楽しいと思えたし、興味が惹かれるものだった。
庭園を囲う柵から外の景色は一応拝めるものだが、外の世界の細々とした部分はベルティーナは知らなかった。
羨望は当然のようにあった。
幼い頃に庭園を抜けだそうと試みた事は幾度がそれは全て失敗に終わっている。だが、大人になるに連れて、この庭園を抜けだそうという気持ちは無くなってしまった。
庭園の出入り口は冷たい鉄柵の門。そこは硬く施錠されている。それに、柵の向こうは断崖絶壁だ。落ちれば当然、命もない事もあるだろう。
だが、何よりもの理由は『いくら外に憧れようが、この国の全貌なんて見たくもない』という嫌悪が芽生えたからだろう。
……確か、賢女はこう言っただろう。
『この国は、戦争を繰り広げて近隣国の領地を奪っては吸収して成り栄えた』と……。
話によれば、賢女の故郷は半世紀以上も昔、ヴェルメブルクに吸収された小国だったそうだ。その戦火によって故郷だけではなく、親も恋人も仲の良かった友人達も……何もかもが消えてしまったとベルティーナは聞いた。
『そりゃね。悔しかったし憎かったさ。とは言っても、逆らえぬ時代の流れさ。今でも憎くないと言えば嘘になるが、こうして仕事を貰えて、遺された私がここまで長く生きられた事に対しては嬉しく思うさね』
散った命を哀れむように語った賢女の言葉は今もベルティーナの心の中に染みこんでいた。
更に母国への嫌悪に拍車をかけたのは、自分が呪われた理由もやはりこの国の戦が火種だった事を知った事もあるだろう。
翳りの国に通ずるとされる北部に広がる神秘の森を焼き、妖精達が報復と言わんばかりに自分を呪ったそうだが……呪われた当人でさえこの報復は当然だと思った。
しかし、呪われているとは言え、その影響は皆無と言っても良い程だ。
見てくれも何もかも至って普通。別に人間離れした能力など持ってもいない。それでも、年に一度だけ様子を窺いに来る魔道士に『年々魔力が強まっている」と言われるものだが、そんなものは全く自覚出来なかった。
確かに物心ついた時から、胸元に褐色の
何ともない、見てくれはただの人間と──とは言っても周囲には忌まれているのだろう。
実親である王とその后はベルティーナに会いに来た事は一度たりとも無かった。
……詮ずる所〝臭いものには蓋をしろ〟という理論に等しいのだろう。
略奪と制圧を散々に繰り返したこの国の君主だ。いくら我が子であろうが、呪われた子に情けや愛など無いと、ベルティーナはいつからかそう思うようになっていた。
それに、十年程前に賢女から伝い聞いた話によれば、自分には弟と妹が居るそうだ。
王位継承権があるのは男児のみ。顔も知らぬ弟が次の王になると想像は容易い。
同じく顔も知らぬ妹に関しては、自分と同じように他国の王族なり貴族と結婚し、この城を出て行くのだろうと想像出来る。
ただ自分に関しては異界だが……。そう思って、ベルティーナは目を細めた。
そもそも、男児が生まれた時点で〝第一子など初めから存在しなかった〟という扱いになっていると思しい。
けれどベルティーナはそれを悲しいとも悔しいとも思わなかった。
抱く感情と言えば、憎悪と呆れくらいしか持ち合わせていない。だからこそ、彼女は翳りの国に嫁ぐ事に微塵も抵抗が無かった。
そんな嫁ぎ先……翳りの国とは、ヴェルメブルク周辺地域で昔から言い伝えられる異界だ。
人間が住まう世界を表で「日向」とするならば、そちらは裏で「日陰」とされているもので「対」の世界と多くの書物に綴られている。
何やら遠い昔、その者達と人間は同じ世界で生活していたものだが、価値観の違い等から争いが絶えず、彼らは裏側に自分達の世界”翳りの国”を築いて、そちらに住まうようになったと言われている。
住人は人で非ず──魔性の者達。つまりは怪物と思しい。
夜半、気まぐれに人の世界に遊びに来る者も居るとは言われるが、今日では彼らは人間との接触を避けているそうで、その姿を見た者は殆ど居ない。居たとしても、姿を変えているか眩ましているだろうとの事。
陸生・水生の動植物の特徴を持つ半人や妖精として描かれる事が多く、神聖なる天使や精霊とは反対の悪しき存在とされている。しかし、彼らは人同様に高い知性を持つ者が多いと言われているそうだ。だが、これは本の中の情報で真実など分からない。
それでも、これまでの話を全て繋ぎ合わせてしまえば、きっと見かけ倒しで、案外真っ当ではないのかと思える節があった。
何せ、翳の女王は呪われた自分を哀れみ、呪いを解けないものかと訪れたと言うくらいなのだから、案外人間よりも真っ当な神経を持っているようにベルティーナは思った。
────行ってみないと分からない。なるようにしかならないでしょうけどね。けれどきっと、こんな腐れた国より幾分もマシな場所よ。
そこに行けば、自分も普通の存在になれるのだろうか……。と、僅かな期待を胸に秘めて、ベルティーナは天を仰ぐ。
しかし、いつも通りの穏やかな朝だからだろうか。どう考えたって、今日が嫁ぐ日など実感なんて沸きやせず、アイスブルーの瞳を細めたベルティーナは、やれやれと首を横に振った。
その日はいつもと変わらず穏やかに過ぎ去った。
朝食をとってから掃除をして、乾燥した薬草で薬やお茶を拵えた後、少しばかり荷造りをした。それから午後は窓辺のソファで微睡みながら読書をして、夕暮れ時には庭園に出て草木に水やりをした。
……そうして、遅い日没と同時に夕食をとり、今先ほど食べ終えたばかり。
ベルティーナは食器を片付けている最中──コツコツと塔の下層から扉を叩く音が聞こえた。
迎えに来たのだろう。と、分かって前掛けを外すと、彼女は足早に下層へ続く階段を下る。
その合間もしつこくコツコツと扉を叩く音が聞こえるもので、少しばかり苛立ったベルティーナは一つ舌打ちを入れてドアノブを捻った。
「こ……こんばんはベルティーナ様」
ドアの前に居たのは、お仕着せのエプロンドレスを纏ったスラリと背の高い女性だった。
自分より僅かに年上といった風貌だろう。
──艶の無い短い灰金髪に丸いヘーゼルの瞳。肌は白々を通り越して青白い。それでも、何処か活発そうな印象を感じるのは頬にそばかすがあるからだろう。そんな彼女を真っ正面から見据えたベルティーナは、夜の挨拶を返す訳でも無く「何」と短く答えた。
「な、何って……お迎えに上がりました。本日はベルティーナ様、お誕生日で……その今日が、あの。まず
何を言いたいかは分かるが、全くしっかり言えていない。
眉間に皺を寄せたベルティーナは、冷たい視線で彼女を射貫き「そう」と、冷たく切り返す。
新人だろうか。或いはくじ引きでハズレを引いてしまったのか……。
王城の使用人が急用の際、こうして訪れる事が幾度かあったものだが、必ずと言って良い程に前回とは違う者がやって来る。
しかも皆、お決まりのように怯えた表情を貼り付けてやって来るのだ。
ベルティーナからしても、自分が”魔性の者に呪われた王女”だからこそ彼女達が怯えるのはよく分かっていた。
しかし、どう見たって自分は人間だ。それに、使用人を罰する権力さえ持っていない爪弾きの王族だ。いったい自分の何処に恐れる要素があるかも分からないが……流石に毎度コレではうんざりとしてしまう。
ベルティーナは呆れた視線で彼女をジッと射貫いた。
しかしながら、今回の彼女に関してはあまりにも怯えすぎではないだろうか……。
緊張か怯えが災いして、過呼吸を起こしかけているのだろう。しゃくり上げるような息を始めた様には流石のベルティーナも見かねてしまった。
「落ち着きなさい。貴女、名前は?」
訊くと、彼女は青ざめた唇を震わせせながら「ハンナ」と名乗る。
「そうハンナ。無理に喋らなくて結構よ。頷くか首を振るかで応えて頂戴。私はもうこの庭園に戻らないという事で宜しくて?」
淡々とベルティーナが訊けば、彼女は幾度も首を縦に振る。
「荷造りは済んでいるわ。大した荷物でも無いから荷物持ちも要らない。私が庭園の出口まで行くから戻りなさい。調子が悪いなら、他の使用人に伝えて変わって貰う事ね」
──ここで倒れられても迷惑よ。と、刺々しく付け添えて。ベルティーナは冷めた視線を送ると、彼女は一つ会釈をした後、逃げるようにその場を去った。
────全く。
彼女の背を見送った後、ベルティーナは塔の中へ戻り、大きな鞄に纏めた荷物を持ち上げた。
衣類等は向こうが用意するとの事だったので、その中には数冊の本と乾燥した薬草くらいしか入っていない。それでも何か持ち忘れたものは無いか……と、今一度部屋の中を見回すが、特にめぼしいものは見当たらなかった。
だが、部屋の片隅に視線を向けた途端にベルティーナは唇を歪めた。
そこには、古ぼけた杖がある。勿論、これは自分のものではない。背の曲がった賢女がいつもついていたもので……。
コツコツと音を立て、自分に向かって歩み寄って来るその音を聞かなくなってもう五年……。
なかなかに頑固な老婆故に、気の強い娘に育ってしまったベルティーナは幾度となく衝突したものだが、それでも自分にとっては唯一無二の存在だっただろうとは思う。
何せ、育ての親ではあるのだから……。
その合間に物語で見る”家族愛”のような暖かみがあったかは分からない。会話だってさほど多いものではなかっただろう。それでも、毎日美味しい料理を振る舞ってくれた事は確かだ。「子供はたんと食べろ」と、空になった皿にスープをたんまりとよそってくれた事。「小賢しいくらいに聡い娘に成れ」と薬草学を丁寧に教えてくれた事。それら一つ一つを思い返す。
ベルティーナは、賢女の杖の持ち手を撫でて、瞼を伏せた。
────私は、貴女の言う小賢しい程に聡い娘に成れているのかしらね?
心の中で独りごちて。ベルティーナは瞼を持ち上げた。
「行ってくるわね。お婆様」
──今までありがとうございました。と、消え入りそうな声で付け添えて。杖に向かい会釈したベルティーナは、燭台の炎を吹き消した後、塔を下った。