「風魔法の本質が『熱』だと?」
ドリーには受け入れがたい命題であった。「熱」を司るのは「火魔術」ではないか?
「そして『熱』の本質とは運動であり、振動であります」
「待ってくれ。わたしにはついて行けない」
ステファノはにっこりと微笑んだ。
「これで最後です。振動を我が物とした者が風を自在に操るということです」
(この少年は何者だ? いったい何を言っている?)
ドリーには黒い道着を着てどこにでも行く田舎者の少年が、急に得体の知れない存在に思えてきた。
「それを教えてくれるもの、それが科学です。魔法とは科学の応用なのです」
だから、「万能科学総論」なのだ。ドイルはそれを教えに来た。
間違った魔術を正すために。
「
「魔法師」である自分は、それを実践する者でなければならない。ステファノはそう考えた。
「この『箱』は急いで作った試作品です。音を捕えて発する媒体は糸よりも膜の方が良いと思います。太鼓の皮のような」
ステファノに手渡された小箱を、ドリーは手の中でひっくり返して検分した。見た目には何の変哲もない木箱であった。木綿糸にも変わったところはない。
しかし、「蛇の目」に意識を集中すれば箱の内側とぴんと張られた糸に風の魔力がまとわりついていると感じられた。訓練によって魔力の属性を感じ分けることができるドリーだが、ステファノのように「色」で見分けることはできない。
(
それはステファノが魔法の実演を目の前でしてみせた時のことだ。
『
この不思議な少年はそう言って、光を発し、イドを操ってみせた。
その背中に、7頭の蛇「
日々瞑想修行を鍛錬に組み入れているドリーであったが、まだ自分一人で「アレ」を再現するには至っていない。
ステファノが言う「
『なぜ、わたしにこんな秘密を教えてくれたのだ?』
ドリーが問うと、少年は何事もないように微笑んだ。
『信用してますから』
そう言ってステファノははにかんで見せたのだ。世界を変えてしまうかもしれない、この少年が。
『簡単に人を信用するな』
言いつつ、ドリーの腹の内に重い塊が生まれた。ドリーはその塊の名を知っている。
「責任」だ。
もし、ドリーが魔法の秘密を悪用することがあればステファノはその罪を黙って背負うだろう。
それが人を信用するということだ。少なくともドリーにとってはそうだ。
そして、ステファノにとっても。
「信用」には「責任」が伴う。それは信用した者にも、された者にも、等しく生まれる重荷である。
その重さに耐えられるものだけが、次の重荷を背負わされるのだ。
人の幸せは、世の中の繁栄は、数多くの重荷を背負った人間たちが作り出したものだ。
重荷を背負わぬ者たちが混乱と争いをひき起こす傍らで、重荷を負った人々が営々と汗を流し続けた結果が今にある。安寧と平和と、充足がそこにある。
重荷を背負える人間でありたいと、ドリーは思う。重荷に耐えうる力を持たねばならない。
自分の成長はこれからなのだ。
それを田舎者の少年が教えてくれた。
「箱の内側と、張られた糸に風の魔力を感じる」
「はい。箱の方は受けた音を糸に伝えるためと、糸が発した『振動』を反射するために魔力を籠めてあります」
「糸の振動が『声』になるのか?」
ドリーにとっては不思議なことであった。糸が震えるだけで、なぜ「言葉」が生まれるのか?
「声であるかどうかは糸にとっては関係ありません。豆が煮える音であろうと、人が喋る言葉であろうと、糸に伝わるのは空気の震えなのです。箱はそれを伝え、糸はそれを再現するだけです」
「あ、そうか。遠い山に声が当たって跳ね返るのと同じことなのか?」
「そうです。言葉だと思うから山が喋っているように感じますが、当たったものが返って来るだけです」
しかし、見た目には何の仕掛けもない。
「これだけのことであれだけ大きな音が出せるのか……」
「音を大きくする部分にはイドを利用しています」
「イドだと? イドとは長時間体から離れた物に残せるものなのか?」
ドリーは思わず木箱の表面を指でさすっていた。そこに何かが感じられないかと言うように。
「この場合は『木箱のイド』に働きかけました」
「……お前のやることはわけがわからん」
確かに
「複雑なことはできませんよ? 振動を受けたらそれを押し返すように、
「どうしてそんなことができる? いや、できると思ったんだ?」
「何となく?」
ドリーは天才と呼ばれている。幼い頃は神童とも呼ばれた。
中にはやっかみの声もある。「天才は楽で良いな」などと、揶揄されることもあった。
「天才の考えることは理解できない」
今、ドリーがステファノを前にして途方に暮れていた。「物と自分のイドを混ぜる」などと、どうやって思いつく?
そんなことが可能だとなぜ信じられる?
どうして実現できる?
「わたしはお前が嫌いかもしれんな」
「えっ?」
わけがわからず目を丸くするステファノを見て、ドリーはため息を吐いた。