6時からの魔術訓練(ステファノはドリーによる指導を自分の中でこう呼んでいた)を控えているため、ヴィオネッタ先生の用事は早めに片づけておきたい。ミョウシンにもそのことを説明して、この日の稽古は早めに終わった。
上級生のミョウシンは研究棟に行ったことがあるそうで、その場所を教えてくれた。キャンパスの隅の方にあり、学生寮とは対角線上に当たる。
5時を告げる鐘がキャンパスに響き渡った。1日の授業はこれで終了となる時間だ。
研究棟に入ったステファノはヴィオネッタの研究室の前に立ち、ドアをノックした。
「どうぞ、入りなさい」
中からドアを開けたヴィオネッタに促され、ステファノは狭い研究室に足を踏み入れた。
書棚が1つある以外本はなく、壁を埋めているのは何枚もの絵画であった。
小ぶりなデスクの傍らにはイーゼルが置かれ、描き掛けの絵が載せられている。
「座りなさい」
促され、ステファノは机の前に置かれた小さめの椅子に腰かける。
自分は机の後ろに腰を下ろすと、ヴィオネッタは早速本題に入った。
「あなたが描いたのはこの絵です。間違いありませんね?」
「はい」
見間違いようもなくステファノの絵であったし、右下にはステファノの名前が入っている。
「俺が描いたものに間違いありません」
芸術性と技巧を評価すれば、よくて10点中の5点というのがこの絵に対するヴィオネッタの偽らざる評価であった。
今後練習を重ねればステファノは「美術入門」の単位を認めるに足りる力を身につけるだろう。
教師としての経験がヴィオネッタにそう告げていた。
しかし、「問題」はそこではない。
「あなたにはこの絵はどう見えますか?」
どうと問われると、ステファノは何と答えて良いかわからなかった。期待されるものに対して、未熟であることはわかっている。
「あまり上手いとは言えないと思っています。木炭の使い方に不慣れだし、いつもは線画しか書いていなかったので」
言葉を選びながらもステファノは正直に思うところを伝えた。
ヴィオネッタはそれを聞いて頷く。
「そうですね。『芸術』としてこの絵を評価すればそういうことになるでしょう。表現方法も凡庸と言わざるを得ません」
それは納得できることであった。自分に絵の才能があるなどとはステファノは思ってもいなかった。似顔絵程度の小手先技に過ぎない。
「ですが……。そうですか、あなたにはこれが『普通の絵』に見えるのですね」
溜息をつくようにヴィオネッタは言った。
コンコン。
その時、研究室のドアを叩く音がした。
「はい。どうぞお入り下さい」
ヴィオネッタが戸口から迎え入れたのは魔術学科長のマリアンヌであった。
描きかけの絵が架かったイーゼルを脇にどけ、ヴィオネッタはマリアンヌをデスクの後ろに座らせて自分はイーゼルの後ろにあったスツールに腰掛けた。
「お前は……訓練でもしていたのか?」
開口一番マリアンヌの口から出たのはその言葉であった。
「稽古着というのか、それは? 講師の研究室を稽古着で訪れる奴はおらんぞ普通」
「いけませんでしたか?」
「いや、悪いことではない。普通でないというだけだ」
やれやれというようにマリアンヌは首を振った。言葉通り呆れているだけで、怒っているわけではなさそうである。
「で? それが例の『絵』か?」
「はい。ご覧下さい」
マリアンヌがステファノのデッサン画を検分している間に、ヴィオネッタは彼女を呼んだ理由をステファノに説明した。
「あなたが今日描いた絵には魔術的現象が発現しています。いえ、魔術を使ったと責めているわけではありません。恐らくは極度の集中と緊張により、あなたの魔力が活性化していたのだと思います」
「そういうことですか」
確かに初めて尽くしの学園生活でステファノは緊張していた。その中で多少なりとも経験のある「絵」という題材にステファノは没入した。イドの繭が濃さを増していたであろうことは十分に想像できることであった。
「ふうむ。私には平凡な絵にしか見えんな。この絵には感情が乏しく、訴え掛けて来るものがないようだ」
「そうですか……。それは先生に芸術を見るセンスがないからかもしれませんね?」
「何だと!」
思いも寄らぬ無礼な言葉を返したヴィオネッタを、マリアンヌは怒気もあらわに睨みつけた。
「もう一度『絵』をご覧下さい」
「むっ?」
手元の絵に目を向け直したマリアンヌは、驚愕に目を見張った。
「何だ、これは?」
絵の中の横顔は「怒り」を発していた。その顔がみるみるうちに当惑と、驚愕に変わっていく。
「馬鹿な! 絵の表情が変わるだと?」
「先生にもそう見えるんですね?」
ぽつりとヴィオネッタが呟いた。
「良かった。自分の目がおかしくなってしまったのかと、いえ、精神が失調してしまったのかと心配していました」
張り詰めていた肩の力が抜けた。
「あのう、どういうことでしょうか?」
未だに事情が呑み込めずステファノはヴィオネッタに説明を求めた。自分は何かしでかしたのだろうかと。
「その絵はいわゆる『魔道具』ではないかと思われます」
「『魔道具』ですか?」
ステファノが初めて聞く言葉であった。魔術に関わるものであろうが、ステファノは術を使った覚えがない。
「魔道具とは魔力を封じ込めた道具や装飾品などを指します。魔術的効果を発揮するものですが、魔術師が魔力を加えることで発動するものと魔力を持たぬ者でも使えるものとがあると言われています」
ヴィオネッタが説明を続けたが、魔術学に関する内容だけに歯切れが悪かった。
「概ねヴィオネッタ女史の言う通りだ。たとえば教室の黒板だな。あれは魔力に反応して言葉を文字に変換する道具だ。魔力がなくては使えぬ」
やはりあれは魔術的な道具であったのか。ステファノは疑問の1つが解消できて、すっきりした気持ちになった。いずれどうやって動くのか、そしてどうやって作るのか、その仕組みを知りたいと思った。
「お前が書いたこの絵だがな。魔力を持たぬ者が見ても効果を発揮する。そういう種類の魔道具に違いない」
「え? 普通に描いた絵が魔道具に変わったということですか?」
「馬鹿か、お前は? 普通に絵を描いて、魔道具になるわけないだろう!」
時折顔を出すステファノの鈍感さに当たって、マリアンヌは苛立った。
「良いか? 魔道具とは貴重なものだ。そもそも魔力を物に籠めるとは誰にでもできる技ではない。数少ない特殊な才を持つ魔術師が行うものなのだ」
「でも、俺は……」
「良いから聞け! その特殊な魔術師、『魔道具師』と呼ばれる人間でも作り出せるのは『魔力に反応する魔道具』だけなのだ。魔力を持たない一般人が使える魔道具となると、王室か上位貴族の家宝として伝わる古代の遺物しか存在しないのだ!」
「魔道具ってそんなにすごいものなんですか?」
ステファノの惚けた反応にマリアンヌは歯ぎしりした。
「お前と話をしていると無性にイラつくことがあるな。言われたことがあるだろう?」
「はい。ときどき言われます。すみません」
マリアンヌはきっとステファノを睨みつけると、息を吐き出して肩から力を抜いた。
「まあ良い。問題はこの絵だ。この絵には見る者の感情が映る。ヴィオネッタ、それで良いか?」
「はい。私にはそう見えました」
「私も同じだ。私が怒れば絵の中の人物も怒る。私が驚けば絵の男も驚いた表情に見える。こちらの感情次第で絵の表情が変わって見える」
ステファノは驚きに言葉を失った。想像もしていないことであった。意図せずに魔道具が生まれることなどあるのだろうか。