ステファノの目線は地上3メートル位の高さにある。換気口の高さが地上2メートル程なので、1メートル下に見ている格好だった。
「距離は大体3メートルか」
塀までの距離が約1メートル、そこから換気口のある外壁までがさらに2メートル。
「普通の手段じゃ無理だよね。やっぱり魔術か……」
食肉貯蔵庫の外側には何の異常もない。ここから眺める限りでは毒を用いた痕跡は発見できなかった。
ならばこの木の上はどうか? ステファノは跨っている枝の前後を詳しく調べた。
「ん? あそこ、
70センチほど前に進むと、枝の表面上向きに穴が開いていた。穴があると、人は中を覗きたくなる。
「んー。上から見ようとすると陰になって見えないな」
ステファノは暫く考えた後、ポーチからピカピカの銀貨を取り出した。
「鏡の代わりにならないかな?」
洞の縁にかざして陽の光を当てようとする。小さな円が闇の底を照らした。
「何か黒っぽい物が見える? それに茶色い粉?」
ステファノは取り出した手拭いをペン軸の先に巻きつけ、穴の奥をなぞってみた。
抜き取ったペン軸を見ると、先端の手拭いに案の定グレーの粉と茶色の粉が付着していた。慎重に匂いを嗅ぐ。
それは過去に嗅ぎ馴れた匂い。むしろ懐かしい物だった。
「魔術に
魔術を用いて毒を施したのであろうという所までは想像していたが、ステファノは魔術の専門家ではない。実際にどのように魔術を用いたらここから肉に毒を施せるのか?
「でも、関係ないとは思えない。こんな所で使うからには……」
ステファノは考え込みながら2メートル半先の換気口を見る。目線の先に一頭の揚羽蝶が飛んで来た。
蝶は塀の上に留るように見えたが、その寸前、滑るように横に流されて行った。
「ああ、少しだけ風があるのか。気がつかなかった……。うん? 風魔術……」
風は目に見えない。毒を風に載せたとして、どこに運ばれるかはわからないのか?
「目に見える風……。色をつける? いや、それでは跡が残る? 目に見える風……。雲……。そうか!」
ステファノの中で洞に残された粉と風魔術とが結びついた。
「雲に乗る蝶。それが魔術の正体だ! うわっと!」
急に身動きしたせいで、ステファノは枝からずり落ちそうになる。慌てて幹にしがみついた。
「危ない、危ない。高い所で考え事なんかしちゃいけないな」
ステファノはほっと息を吐き、ペン軸と手拭いを仕舞ってから慎重に木から降りた。
「ふう。今日の所はこれで十分かな? 折角だから散歩の続きをしようか」
事件のことなど忘れ去ったように、ステファノは森の小道を散策して行った。
「随分時間が掛かったわね」
小道をぐるりと一周し、館に戻ったステファノを腕組みしたエリスが待ち構えていた。
「館の周りを一回りして来たもんで」
手拭いで汗を拭いながら、ステファノは微笑んだ。
「静かで気持ちのいい散歩道ですね」
「散歩って……。一体何しに行って来たのよ!」
「散策ですよ。ソフィア様にお許しも貰いましたし」
「はあー。あんたってほんとに暢気ね。もういいわ。一旦昼食を食べて頂戴。午後からソフィア様がお話をなさりたいそうよ」
まともに相手にしていたら疲れるとばかり、エリスは追及を止めて用件だけを告げた。
「それから、顔を洗った方がいいわよ。
顔を赤くしたステファノを見て、エリスは留飲を下げたようだった。
ステファノは厨房に戻り、隣接した奉公人用の食堂で昼食を取らせてもらった。ケントクの賄いは簡単な炒め物だったが、驚くほど旨かった。