三階のほとんどは闇に包まれていた。一部だけ月明かりの差し込む場所に、
「人間という生き物は、愚かだと思わないかね?」
振り向かずに〈赤目〉は背中で問いかける。
京也は黙ったままその後ろ姿を見つめていた。漆黒のコートを羽織った男の右腕はない。目の前に立つ男が、京也の父親を殺した〈魔〉なのだ。全身が緊張する。
「……答える口を持たないというのは、君が愚かだと言う証拠だな」
〈赤目〉はゆっくりと振り向いた。整った顔立ちには、目が片方しかない。〈赤目〉は紅の瞳に京也の姿を捕らえると、驚いたような表情になった。
「ふむ。あの少年を退けたのは君か。あれほどの憎悪の対象でありながら、よく無事でいられたものだ」
「やはりお前か。
「ほう。私のことを知っているのか。やはり護法の人間というわけだな」
「待ってたのさ、お前を」
言葉は待ち焦がれた恋人に向けるかのように、しかし声は鋭く視線は相手を射貫くかのように京也は言った。
「? 申し訳ないが、私は君を知らない」
「オレなら知ってンだろ、〈赤目〉さんよ」
京也が踏み締める闇の中から〈
「……キサマは、あの
「今はこいつがオレを従えてンのさ」
「…………」
〈赤目〉は値踏みするように、京也を見つめた。
「まさか、君がこの街の護法師なのか?」
「そうだ。七年前にお前が殺したのは、俺の父親だ」
「……殺した? なるほど死んだのか」体を震わせて〈赤目〉が笑う。「クックックッ。所詮は人の身か。あの程度の怪我で死んでしまうとはな。やはり下等な存在だな、人間は」
「ふざけるな!」
京也が疾った。〈赤目〉の言葉に、七年間ため込んできた感情が爆発した。
数歩で相手に走りより、鋭い呼気と共に氣をのせた右の拳を繰り出した。だが拳は〈赤目〉をとらえることなく空を切る。
〈赤目〉は京也の拳の外にいた。左腕のひと薙が京也を打ち据えた。
「くっ」
京也はそのまま吹き飛ばされる。空中で器用にバランスをとって、なんとか無事に着地する。
「〈牙影〉、手を出すな! 俺の獲物だ!」
そして動こうとした〈牙影〉に向かって一喝した。〈牙影〉を見つめる瞳は真剣で、そして必死だった。どこか追いつめられたような、底に怯えをはらんだ瞳。
だが京也は、憎悪に身を焦がすことでそれを抑え込もうとしている。
「…………」
〈牙影〉はその動きを止めた。
「君が私の相手ということか。いいだろう。少々物足りないが、せっかくこの街に帰ってきたのだ、相手になろう」
〈赤目〉は口の端から牙を覗かせて、冷たく笑った。
京也がしかけた。
一瞬身を縮め、爪先を外に向けた右足で踏み込む。そして
〈赤目〉は体を後ろに引いて避けた。
京也は着地と同時に体を右回転させて後ろ回し蹴りを放つ。その蹴りは僅かなながら届かない。〈赤目〉は紙一重で避けていた。
「単調な攻撃だ」
「黙れ!」
〈赤目〉が左腕を振った。迅い。京也はそれを氣を纏った右腕で巻き込むようにして受け流した。
〈赤目〉は力を流され体勢を崩す。京也は踏み込んで背中を使った体当たりをした。衝撃が〈赤目〉を襲う。まるで壁にぶつかったかのように弾かれて〈赤目〉がさらに体勢を崩す。
「む?」
そこから京也は〈赤目〉の脇の下に右腕を差し込んだ。そして掬い上げるように右腕を回し〈赤目〉の正面を自分へと向かせる。更に踏み込んで
「がはっ」
氣をのせた肘打ちを受けて〈赤目〉が吹き飛んだ。
京也が肩で息をしている。目は鋭く床に倒れた〈赤目〉を睨んでいた。
「クックックッ」
〈赤目〉が起き上がった。両方の踵を支点にして、まるで棒が起き上がるかのように。
「君では物足りないと言った言葉を取り消そう。なかなかの攻撃だ。お詫びに本気で相手をしてやろうではないか」
〈赤目〉の体に変化が現れた。
体の筋肉が盛り上がり、服とコートを引き裂いてゆく。同時に体中を黒い毛が多い始めた。手は大きくなり指も伸びた。その先には鋭い鈎爪がついている。
整った顔立ちが醜く歪んだ。鼻がせり出し、根本的な構造を変えてゆく。時間が巻き戻るかのように、髪が短くなった。黒い毛に覆わた新しい顔は、蝙蝠を彷彿とさせた。
背中から、黒い蝙蝠と同じ羽根が生えて来る。
〈赤目〉はその姿を大きく変えた。ただ、存在しない右腕と隻眼に宿る赤い瞳だけが以前と変わらない。
「行くぞ」
変形した口から、思いのほか明瞭な言葉が聞こえる。刹那、〈赤目〉の姿がかき消えた。
「!」
京也の背後に殺気が生まれた。京也は本能だけで振り向く。〈赤目〉が腕を振り上げたところだった。
その腕が振りおろされる。先程とは比べ物にならない迅さだった。京也はなんとか両腕で受ける。だが、ガードごと弾かれて京也は吹き飛んだ。衝撃が脳を揺さぶる。
京也はすばやく立ち上がった。しかし衝撃は京也の脳を揺らしたらしく、思わずよろめいた。
〈赤目〉が一瞬で近づいて京也の腹部へ拳を叩き込んだ。
「がはっ」
攻撃された場所に氣を集めて防御したものの、防ぎきれない衝撃が京也を襲う。息ができない。京也はなす術もなくその場に崩れ落ちた。
「終わりだ」
その言葉はまさに、死の宣告だった。