『
階下から呼ぶ母親――
「随分となつかしい夢、見ちゃったな」
横になったまま呟く。夢は昔の記憶だった。
「あんな約束だったんだ。なんで忘れてたんだろ」
そして思い出したようにくすりと笑う。
「あれじゃ、まるでプロポーズだよね」
何も知らない子供だったとはいえ、京也もよくあんなことを言えたものだと思う。もちろん深い意味などないことは、雪葉にも分かっている。
その二年後だ。京也の父親が亡くなったのは。
雪葉は京也がしてくれたように、彼に寄り添おうとした。しかし京也はどこか変わってしまった。一緒に遊ぶことも少なくなり、休日に一人でどこかへ出かけてしまうことも多くなった。
それでも疎遠にならなかったのは、雪葉がマメに朝迎えに行っていたからだ。
『雪葉? 寝てるのかしら』
『おばさん。いいんです。プリント届に来ただけですから』
『そう言わずに上がってって。そうそう。親戚の方によろしく伝えておいてね。雪葉をわざわざ連れてきて下さって』
なにやら押し問答があった後、階段を登ってくる音が聞こえた。足音は二つ。堂々とした音は母親のものだろう。その後をついてくるおずおずといった感じの音は京也だ。
雪葉は慌てて上半身を起こした。
「雪葉、入るわよ」
返事も待たずに、ドアをあけて利枝が入ってくる。
「なんだ、起きてるじゃない。京也君が来てくれたわよ」利枝は京也を部屋に入れた。「ゆっくりしてってね」
そして自分は去っていく。
「…………」
「…………」
京也はどことなく気まずい思いで、ドアの前に立っている。お互いに目を合わせようとせず、何も言わずに黙ったままだった。
「……調子はどうだ?」
しばらくして、京也がおずおずといった様子で声をかけた。
「うん――」
いいよ、と言いかけて、雪葉は京也と喧嘩していたことを思い出した。
「別に」
そっぽを向いて答える。雪葉のそんな態度に京也は苦笑する。
「これ、今日配ったプリント。ここに置いとく」
「……うん」
整理された机の上に、京也は鞄から取り出したプリントを置いた。そしてそのまま部屋を出ていこうとする。
「き……」
雪葉が口を開くより早く、京也はドアを開けた。
「あら、もう帰るの? コーヒーいれてきたから、飲んで帰りなさい」
そこへちょうどお盆を持った利枝が現れた。盆にはコーヒーカップが二つと、皿に入った菓子をのせている。
「あ、どうも」
京也は思わず盆を受け取ってしまう。そのままなりゆきで雪葉の方を向いた。
「…………」
「…………」
再び利枝が去ったあと、京也と雪葉は無言のまま向かいあった。
「……突っ立ってないで、座ったら?」
雪葉がぶっきらぼうに言う。京也は言われたとおり床に座った。お盆も一緒に床に置く。
「あのさ……」
「なによ」
「俺、今日はちゃんと起きたぜ」
「あ、そう」
「……遅刻もせずに学校にも行けた」
「それはおめでとう。じゃあ、明日からあたしが起こしに行かなくてもいいんだ」
(京ちゃん、なにが言いたいんだろう)
雪葉の口調はあくまで強気だった。だが、心の中では不安が広がり始めていた。心臓の音が大きくなる。
「なぁ、雪葉。あの約束覚えてるか?」
続いた京也のセリフが恐れていた言葉でなかったことに、雪葉は心の中で安堵する。それでも一度激しくなった動悸は収まる気配はない。
「……約束? なんの?」
雪葉には予感があった。京也の言う約束がなんであるのかということに。それは確信と言ってもよかった。
だが、雪葉はわざと分からないフリをしてみせる。
「ペロが死んだときの」
「ああ、あのとき。でも、約束なんてしたっけ?」
それは嘘だ。激しい動悸。ついさっき見ていた夢。思い出した約束。
それでも雪葉は知らないふうを装う。
「……覚えてないならいいんだ。忘れてくれ」京也は立ち上がる。「俺、帰るわ。明日から起こしに来なくてていいよ」
雪葉は驚いたように京也を見た。一番聞きたくない言葉が、京也の口から出たのだ。雪葉は気づく。いままで京也と自分をつなぎ止めていたものがなんだったのかを。
「京ちゃんの莫迦! 嘘つき! おいてかないって言ったじゃん!」
向けられた背中を見つめているうちに、雪葉は耐えきれなくなった。思わず叫んでしまう。
京也は弾かれたように振り向いた。
「……雪葉、お前」
「なによその顔、ホントに忘れてるとでも思ったの!? ふざけないでよ! 京ちゃんの方こそ忘れてたくせに!」
京也は言葉なく、雪葉を見つめる。
「そんなにあたしに起こされるのが嫌ならいいよ。もう二度と起こしてやんない。こっちも面倒がなくなってせいせいするんだから!」
「……ごめん」
「なんで謝るのさ」(あたしと一緒にいたくないから?)「いいよ、あんな約束」(そうだ。あんな約束なんでもない)「どうせ昔の話だもん」(自分だって忘れていたじゃない)「覚えてなくたって、なんでもないよ」(忘れられるほど、つまんない約束なんだから)
言いながら雪葉はうつむいていた。肩が震えている。
自然と、涙がこぼれた。
(京ちゃんがずっと一緒にいてくれるなんて、莫迦みたい。あたしを置いていかないなんんて、なによそれ。恋愛ドラマじゃないんだから)
嗚咽が漏れそうになる。それを雪葉は歯を食いしばって耐える。駄目だ。泣くもんか。それは京也に泣き顔を見せたくないという、雪葉の意地だった。
(あのときは、京ちゃんもあたしも、何も知らない子供だったんだから!)
雪葉の体が暖かいものに包まれた。一瞬体がこわばる。
「……京ちゃん?」
京也が雪葉を抱きしめたのだ。優しく、そっと――
雪葉は京也の体温を。京也は雪葉の体温を感じる。そして多分、雪葉の震えも京也に伝わっているはずだ。泣くまいと我慢している震えが。
「ごめん」
「……ばか」
「雪葉をおいていかない」
「……嘘つき」
「明日も起こしに来てくれ」
「…………」
「俺が死んでないか、毎朝確かめに来るんだろ?」
「…………うん」
京也の胸に顔を埋めるようにして、雪葉は頷いた。京也が雪葉を離す。そして二人は顔を見合わせる。
途端に雪葉がくすりと笑った。
「なんだ?」
「あのね」悪戯を告白する子供ような雪葉の表情。「ホントはね、京ちゃんが来る前に夢で見るまで、約束のこと忘れてたんだ」
京也は一瞬、呆気にとられた表情になる。
「おあいこ」と雪葉。
「そうだな」京也は笑ってみせる。「ならもう一度約束しよう」
「うん」
「雪葉をおいてかない。ずっと一緒にいる」
二人は小指を出して、一番有名な方法で約束を交わした。