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三ノ章乃㭭

 京也きょうやは自室のベッドに横たわって、天井を眺めていた。その視線は厳しい。

 考えるのは彼の求める仇のこと。この街に来ているのだ。七年越しの待ち人が。

 なぜ自分は探しにいかないのだろう。蒼一郎そういちろとの約束があるからだろうか。自問するに対しそうだと答える。

 蒼一郎に仇の再来を告げられたときも、昨日街で会ったときも、京也はそう思って納得した。約束を守るために自分は自制しているのだと。だがその答えではどこかスッキリとしない。

(なぜ、俺はここにいる? なんで蒼兄ィの連絡をおとなしく待っているんだ……)

 父親の仇への憎悪。こんなところでおとなくししていられるほど、自分自身を抑えていられるほど軽いものではなかったはずだ。

 なんのために自分は護法師になったのか。〈世界法則プロヴィデンス〉を無視して世界に干渉する〈魔〉を祓うという大義名分よりも、京也にはもっと大事な理由があったからではなかったのか。強い決意があったからこそ京也は護法師としての周防を継ぐために、〈牙影がえい〉を従える儀式を受けたのだ。

 京也は今でも覚えている。〈牙影〉を自らの従属とした日のことを。自らの影を〈牙影〉に喰らわせ、己が影と一体化させる〝影喰らい〟の儀式。それは護法師の中でも周防家のみが行う継承の儀式だ。

 影を喰われるということは自分の分身を喰われるということだ。肉体的苦痛はない。だが体の奥深いところを無くすような感覚に襲われる。内側から自分が崩れていくような錯覚。それは精神を蝕み、耐えられなければ発狂して自我は崩壊する。そして抜け殻となった肉体を奪われる。

 〈牙影〉は人間の影を喰らい、その人間の影に成り代わることで憑依する〈魔〉の一種だ。しかし影を喰らってなお自我を保つ人間には逆に従属する。そして〈牙影〉は遙か昔、周防家が〈世界法則〉に則って召喚したものだ。

 当時十三歳だった京也は見事、〝影喰らい〟の儀式に耐えた。護法師として独り立ちし、父親の仇を討つために。

 なのに……なぜ自分はこうして仇が現れた今になってもじっとしているのか。相手の顔を知らなくても、父親との戦いで受けた傷が充分相手の特徴となっている。それを元に探し出だせばいいではないか。

 頭の後ろで組んだ両手に、力が入る。

 心の底では理由に気づいていた。怖いのだ。自分にとって大きな存在であった父親を殺した相手が。京也はそれを認めたくなかったのだ。

 自分は本当に強くなれたのだろうか。仇をとれるほどに。父親を越えれるほどに。その不安が、いつも京也の心の奥にあった。

 ――ピーンポーン

 京也の思考は、玄関チャイムの音によって中断させられた。

 ――ピーンポーン・ピーンポーン

 二度、三度と繰り返される。今日は母親がいないのを思い出して、京也は玄関へと降りて行った。

「はい」

 玄関を開ける。

「よォ、ええ子にしとったか、京坊きょうぼう

「……蒼兄そうにィ」

「これ、みやげや」

 蒼一郎と鈴音すずねが立っていた。ケーキの箱が入った袋を京也に突き出す。袋に書かれたロゴは、近くにある個人経営のケーキ屋のものだ。

 思いがけない蒼一郎の登場に、京也の心臓がひと跳ねする。蒼一郎が自分の所へ訊ねてくる用件など一つしか思い浮かばない。

「なんや、おばさんおらへんのか?」

 京也は二人をリビングに通した。

「出張だよ」

 キッチンからコーヒーの入ったカップを盆にのせて、京也がやって来る。

「あ、私が」

 鈴音が立ち上がって、その盆を受け取る。

「すみません」

 鈴音は手際よくカップを並べた。

「鈴音。ケーキもや」

 言葉を受けて、鈴音は困ったように京也を見る。京也は苦笑いを浮かべてうなづいた。

「開けてください」

「すみません。お土産なのに」

「蒼兄ィが甘党なのは、よく知ってますから」

 そう言って京也は皿をフォークを三セット用意した。

「〈赤目あかめ〉のこと、何か掴んだのか? だから、来たんだろ?」

 京也はしばらく黙ってコーヒーを飲んでいたが、耐えきれなくったように口を開いた。

「申し訳ないんやが、そっちはまだや」

 京也の顔が曇る。

「心配しィなや。一匹倒してもうたけど、もう一匹に印をつけとる。ただな、向こうも慎重になっとるらしゅうて、まだ〈赤目〉と接触しとらへんねや」

「…………」

「心配せんでも必ず見つけたるさかい、ワイを信じィや。それより今日来たんは、昨日一緒におった嬢ちゃんのことや」

「雪葉の?」

「実はな。さっき嬢ちゃんの家に行ってきてん。倒れたんでうちまで送ったんや。京坊ん家の隣やったんやな」

「まさか、雪葉が襲われたのか!?」

 そのまま飛び出していきそうな京也を、蒼一郎は視線で抑える。

「ちゃうちゃう。〈赤目〉とは関係ない」

 そう言って蒼一郎は雪葉を家まで送ることになった経緯を、掻い摘んで話した。

「倒れた言うても疲労や。明日一日くらいは養生せなアカンやろうけど、命に別条はない。ただ、嬢ちゃんの側に変な坊やがおってな。そいつがちィと気ィになったもんでな。

 小柄な眼鏡くんなんやけど、心当たりはあるか?」

「別に……いや、雪葉の後輩にいたはずだ」

 蒼一郎の言った特徴に当てはまる人物を京也は一人だけ知っていた。同じ美術部部員の慎二しんじだ。

「嬢ちゃんのこと先輩いうてたさかい、その坊やの可能性が高いな」

「で、何が変なんだ?」

「嬢ちゃんと坊や、見つめ合うとったで」

「蒼兄ィ?」

 蒼一郎が浮かべたのはからかうような笑み。京也をそれを憮然とした声と表情で返す。

「ノリ悪いなぁ。そこは大げさに動揺するとこやで」

「…………」

 京也は無言のまま蒼一郎の方へ手を伸ばした。その先にあるのはケーキの置かれた皿だ。

「じょ、冗談や」

 慌てた様子で蒼一郎はケーキを皿ごと引き寄せる。その表情は大好物を盗られまいとする子供のそれだ。だがすぐに蒼一郎の視線が鋭くなる。

「いうても見つめ合うとるように見えたんはホンマやけどな。坊やの方が、嬢ちゃんになんや仕掛けとったで」

「え?」

 京也の表情が引き締まった。「仕掛けた」が「口説いていた」の言い換えでないことは、蒼一郎の視線の鋭さからわかる。いまの蒼一郎の顔は護法師としてのそれだ。

 ならば慎二は京也たちのいる裏の世界へと足を踏み入れたとでもいうのだろうか。京也はふと、今日あったことを思い出していた。校舎裏でみかけた男子生徒。強い精神的なショックを受けていた少年。

 あの男子生徒は「時田ときた」と言っていなかったか。

「あの坊や、とり憑かれてんぞ。なんやよう分からんけど、けっこう強い力持っとったで。嬢ちゃんの精神に干渉しようとしとったんや。ありゃ、嬢ちゃんに惚れとるクチやな」

「…………」

 そこでようやく京也は今朝みせた慎二の敵意の意味を理解した。あれは雪葉と一緒にいた自分に対する嫉妬だったのだ。

「まぁ、気ィつけといた方がええで。別の〈魔〉ァがすぐ近くにおるかもしれへんからな」

「……分かった」

「そういうこっちゃ。ほな、ワイらは帰るわ」

 早々とケーキを平らげた蒼一郎が、満足そうに立ち上がった。大の甘党でありながらその体に無駄な肉はついていない。

 鈴音がコーヒーカップとケーキの乗っていた皿をキッチンへと持っていく。

「あ、すみません。置いておいてもらったら俺が洗います」

 京也は鈴音の後ろ姿に声をかけた。鈴音は振り返り、京也、蒼一郎の順に顔を見る。蒼一郎が頷いたのを見て鈴音は流しシンクに置くに留めた。

 蒼一郎と鈴音はそのまま玄関へと向かう。見送るために京也もついていく。

「京坊、嬢ちゃんは大事にしたりや。いい娘やて。逃すと損するで」

「蒼兄ィ、おれは別に……」

 玄関口に立って京也は言った。京也だって、雪葉がただの幼なじみという気持ちだけで自分にに接してないことは気づいている。京也自身も、雪葉を異性として意識していることにも。だが……。

「あんな、京坊。護法ごほうは宿命やし、逃れられんワイらの義務や。けど、自分の心まで縛られるいわれはないんやぞ」

 京也はまともに蒼一郎の目を見れない。

「俺は」(守れないかもしれない)「雪葉を」(何も知らないあいつを)「危険にさらしたくないんだ」(護法である自分を受け入れてはくれないだろう)「あいつは普通の人間なんだから」

 蒼一郎は、そんな京也を見て優しく笑った。

「京坊。男やったら好きな女ぐらい守ったり。お前のおんは、護法のこと何も知らへんかった女を嫁にもらろうたんや。自分を受け入れてくれると信じて、な。せやから京坊も好きな女を信じたり。

 きっとお前のおんも同じこと言うと思うで」

「…………」

 心のなかを見透かされ、京也は息をのんだ。怖かったのだ。自分の本当の顔を知られるのが。〈赤目〉のことといい、雪葉のことといい、自分がどれだけ臆病か京也は改めて思い知らされた。

「そういうことや。なんにしろ、しばらく嬢ちゃんとあの変な坊やから目ェ離さへんことやな」

 それだけ言って、蒼一郎は出ていった。

「では、失礼します」

 鈴音が一礼をする。そして去りぎわに思い出したように、振り向いた。

「あの、雪葉さんでしたか。多分、周防様が考えているよりずっと、周防様のことを想ってらっしゃいますよ」

 二人がいなくなった後も、京也はしばらく玄関に立ちつくしていた。


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