なんだが妙なことになっていたが、ようやく落ち着いて話ができる。慎二は心の中で安堵のため息をついた。
「ごめんね。あの二人、驚いたでしょ?」
「ええ。少し」
「…………」
正直な慎二の返事に雪葉は言葉に詰まった。
それ以上、会話が続かなかった。雪葉はなんだかそわそわしているようだし、慎二にしても言葉が思いつかない。湧き出ていたはずの自信も今はなかった。
「あのね」
「先輩」
お互いの言葉がぶつかった。
「えっと……どうぞ」
雪葉が譲る。紅茶の入ったカップを手にとって口元へと運んだ。
「あの……
「っ!」
雪葉は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫。き、京ちゃんがどうしたの?」
雪葉は思いっきり動揺している。
「喧嘩したんですか?」
「え? そ、そうなの。京ちゃん、自分が悪いくせに開き直るんだもん」
緊張していた雪葉の表情が少しだけ和らいだ。予想していた質問でなかったことからきた安堵のためだ。
しかし慎二はそう考えなかった。京也のことを話しているせいだと感じていた。好きなものや大切なものについて話すときにみせる表情だと。
慎二の中に苦い感情が生まれる。
「そうです。周防先輩の方が悪いです」
だから慎二の言葉にも自然と険がこもった。
「
喧嘩の理由を慎二に話していないはずなのだが、まだ動揺している雪葉はそのことに気づかない。あたふたと、よく判らないジェスチャーを加えて喋っている。
「祥子も瑞穂も、あたしが悪いって言うんだよ。ひどいよねぇ」
「
「…………え?」
雪葉の動きが止まった。話が妙な方向に流れて行きそうな気配。親友二人のせいで慎二のことを妙に意識し始めたせいで、さすがの雪葉も気づく。
「あ、あのね……時田君」
「僕なら、絶対先輩を大事にします」
真剣な眼差しで慎二は雪葉を見つめていた。純粋な気持ちを込めた、眩しいほど一途な瞳。
急展開の告白に雪葉は固まったまま動けなかった。だが慎二の瞳を見て、逆に落ち着いた表情をみせた。
「そうだよね。京ちゃんってひどいんだよ」そしてぽつりと話始める。「こーんな近くにいい娘がいるってのに、気づいてくれないんだもん」
冗談めいた口調。淡い微笑み。しかし雪葉の目は笑っていない。
「先輩……」
「最初はね、ただの腐縁だと思ってたんだ。仲のいい友達。家がすぐ隣だし、初恋の相手って別にいたし。ホント、ただの幼なじみだと思ってた」そこでくすりと笑う。「あたし、他の男の子と付き合ってたことだってあるんだよ。でも、気づいたら京ちゃんのこと追いかけてた。いつからか分かんないけど」
慎二はテーブルの下で、ぎゅと拳を握った。雪葉の言葉は直接言われるよりも残酷な、拒絶の証だった。
「なのにね、京ちゃん何も言ってくれないんだ。ホントに気づいてないのかどうかも怪しいし。でも他に好きな娘がいるみたいでもないのに……。避けられてるわけじゃないけど、京ちゃんってどこか人寄せつけないようなところがあるんだ。人付きあい悪くないし、友達もいる方だと思うけど。
……なんかあたし疲れちゃった」
浮かべた淡い微笑みが、ずいぶんと痛ましい。静かに話す雪葉の姿から、慎二は思わず目を逸らした。
「なら……なんで先輩はまだ」
「あははは。なんでだろうね。でもあれで京ちゃん、いいとこあるんだよ。前につきあってた男の子にフラれたときは慰めてくれたし。京ちゃん家で窓ガラス壊したときはかばってくれたし――」
雪葉は指を折って数えている。
「他にもいっぱい」
「…………」
「それにね、小学二年くらいのときかな。飼ってた犬が死んじゃったんだ。大きな犬でね。あたしが生まる前からずっと
あたしのこと妹か何かだと思ってたのかな。その犬はね、家にいるときはいつも側にいてくれる大好きな犬だったの。だからすっごく悲しくてさ、学校に行かなかったの。そしたらね。京ちゃんがね――」
それは多分、悲しい話なのだろう。だが京也との思い出でもあるのだ。それを雪葉は慎二に話そうとしている。
慎二の視界が急激に狭くなり世界が暗く沈んでいく。雪葉に視線を戻すことができない。京也の事を話している彼女の表情を見たくない。
「慰めてくれたんだ。口は悪かったけどね。そういえば、そんとき京ちゃんと約束したんだっけ……って、あれ。なに約束したんだっけ」
慎二は握った拳に力を込めた。腕が震える。これ以上、聞きたくなかった。
――無駄だよ。
(…………)
――無駄なんだ。
(…………)
――お前にだって判るだろ?
(…………)
――こんなやり方じゃ駄目なんだ。
(え?)
慎二の心のなかで〝声〟が囁く。限りなく自分の声に似た、誰かの〝声〟が。
――駄目なんだよ話すだけじゃ。
(でも、ほかに方法なんか……)
――あるじゃないか、あの男に貰った〝力〟が。
(…………)
――使えよ。使えばすぐさ。
(でも)
――好きなんだろ? この女を自分のものにしたいんだろ? なら何を迷うんだ。
(好きだよ! でも、そんなの無理矢理じゃないか!)
――莫迦かお前は。せっかくのチャンスを無駄にするのか? お前は変えたいんじゃなかったのか? そのままだと、何もかわりゃしないぜ。この女の心はあの男のものだ。
(…………)
――しかも、この女も報われないかもしれねーんだぜ? いいのかよそれで?
(……よくない)
――そうだろ? 許せないよな。
(そんなの許せない)
――なら人助けだ。
(え?)
――人助けだよ。一人の女をどうしょうもない男から救うんだ。
(人助け?)
――そう、この女を助けるんだよ。助けた結果、この女はお前を好きになるんだ。
(…………)
――どうだ、悪くないだろ?
(……うん。悪くな――)
「時田君?」
雪葉の声で、慎二は我に返った。
「なんかあたしばっかり話ししちゃってごめんね」
「いいえ」
慎二は目を逸らしたままだ。
「ねえ、時田君。君の気持ちは嬉しいけど、あたしね――」
慎二は顔をあげた。そしてまっすぐ雪葉を見つめる。もう悩んでいる暇はない。雪葉の口から決定的な一言が出る前に、勝負を決めなくては。
「芹沢先輩!」
遮るように、慎二が言う。雪葉は不意を突かれて言葉を失った。
慎二の瞳がその色を変える。黒と茶色に彩られた瞳から、深紅のそれへと。
雪葉はそれを目の当たりにしながらも、何も反応できなかった。赤い瞳の中へ引きずられそうになる。
「……時田、君?」
慎二は強く念じる。自ら精神を、雪葉の中に滑り込ませる。相川の時のように乱暴なことはできない。ゆっくりと、慎重に。彼女を壊さないように優しくそっと――
雪葉は動けなかった。慎二の瞳から目を逸らせない。体の中に何か入り込んで来るような感覚。いや、自分が引き込まれているのだろうか。今、彼女の瞳には慎二しか写っていなかった。それ以外のすべては、彼女の認識の外にあった。
宝箱の蓋を開けるときのように慎二は慎重に、でも急ぎながら雪葉の精神の扉を開いていく。いくつもの扉を開き、彼女の奥底へと潜り込もうとする。そこへ、自分への好意を植え込むのだ。けっして消えることのない精神の奥深くへと。
様々な感情が、慎二に伝わってきた。その中には一人の異性として意識しきれない慎二に対する戸惑の感情も含まれていた。それを感じた慎二は、むきになってさらに奥へと進む。
慎二の瞳は、雪葉の精神の根幹を写しだしていた。見つけた。後はここで感情の操作をしてやればいい。
慎二は視線に力を込めた。
「あ……」
雪葉の顔から表情が消えた。
慎二は視線の針を雪葉の精神に打ち込む。その途端、強い衝撃が慎二の精神に返ってきた。
「!?」
慎二の瞳の中に、一人の少年が写っていた。八歳ぐらいの少年。この少年を慎二は知っていた。間違いない。小さいころの京也だ。京也の存在がすでに雪葉の中に強く根づいていた。そして雪葉の精神に他の存在が入り込むのを拒んでいた。
このままでは決して慎二への好意は目覚めない。ならば雪葉の中にある京也の存在を打ち砕くしかない。慎二は更に視線に力を込めた。
「!!!!」
雪葉の体が震えた。強い力が自分の中にある大事なものを揺さぶろうとする。彼女はそれに必死に耐えた。しかしそれも限界に近づきつつあった。
あと少しだ。慎二の瞳の赤が、より深く色付いてゆく。もう少しで――
「おっ、嬢ちゃんやんか。奇遇やな」
だが最後の砦を崩そうとしたその瞬間、男の声が慎二と雪葉の間に割ってはいった。その声は、文字通り慎二の視線を
「!?」
突然力が途切れ、慎二は驚いて声のした方を向いた。そこには白いスーツ姿の
「あらら。もしかしてお邪魔やったか?」
「……あ、探偵さん?」
雪葉は焦点の定まらない目で蒼一郎を見ていたが、やがて思い出したように言った。
「いや。たまたま見かけたもんやから思わず声かけてもうたんやけど、邪魔やったみたいやな」
「え? あ、そんなことないです」
雪葉はすっかり自分を取り戻していた。彼女の様子を見て、慎二は内心舌打ちをする。
「芹沢先輩、僕はこれで」
慎二は立ち上がった。失敗した以上、一度引き下がるべきだと感じたのだ。
「ああ、ええて。ワイはすぐ消えるさかい」
蒼一郎が慎二を見て言う。笑顔を浮かべているがその目はどこか鋭かった。慎二を不安にさせる鋭さだ。
「いえ、用事がありますから」
そう言って、慎二はそそくさと店を出た。
(あと少しだったのに)
歩きながら慎二は思う。だが、邪魔が入ってしまった。それもあと少しというところで。
男の視線が思い出された。鋭い視線。まるで慎二のやろうとしていたことを見抜いていたような……。
「まさか」
そんなことはあり得ない。それよりも気になるのは、雪葉の中にいる京也の存在。あれを消さない限り、力を使おうとも自分の想いは成就できない。
――殺せよ。
(…………)
また、〝声〟が囁く。
――それが一番早い。
(……でも)
――現実にあいつがいなくなるのなら、それが一番確実だ。
(殺すなんて)
――何を今更躊躇ってる。助けるんだよ、あの女を。男の呪縛から解き放つんだ。
(解き放つ)
――そうだよ。格好いいじゃねーか。
(そのために……殺す?)
――そうたぜ。今のお前にはそれができる。お前なら変えられるんだ。
(そう。僕にはできる)
慎二は知らず知らずのうちに笑っていた。無邪気に、冷たく、残酷に。