最上段には校舎が二棟あった。普通教室のある教育棟と、音楽室などの特別教室のある特別棟だ。二つの校舎は渡り廊下で結ばれており、L字型の配置になっていた。最上段には他に、食堂と来賓及び教職員用の駐車場と生徒用の駐輪場がある。
最上段の端、フェンスの張られた人気のない場所に、
植木を背に、慎二はうつむいている。昼前の授業が終わってすぐに、慎二はこの場所に連れてこられたのだ。その前に相川は立ちニヤけた笑いを浮かべていた。
「ちゃんと二万、持ってきたんだろうな?」
優しい声。だが言葉の内容が、うわべだけの優しさであることを物語っている。
「…………」
慎二はうついたままで答えない。
「おいおい。まさか忘れたんじゃないだろうな? 土曜に言ったよな? 今日もってこいって。あんまり遅いと利子つけちゃうぜ」
ゆっくりといたぶるように、相川は言う。
「お前がいじめられてんの、助けてやったじゃないか。俺に感謝してるんだろ? それともまた、
慎二の体が小刻みに震える。その様子を見て相川は気分をよくした。
「さぁ、出せよ。まさかホントに忘れたわけじゃあるまい?」
「……忘れてないよ」
押し殺したような慎二の声。相川には慎二が怯えているように感じられ、ますます気分がよくなった。
「じゃあ、出してもらおうか。ん?」
そう言って、相川は慎二の頭に手をかける。怯えた慎二の顔が見たくなったのだ。いつもおどおどした顔をしている慎二が、恥辱に顔を歪ませているところが。
相川は髪の毛を掴むと、ぐっと手に力を込めた。慎二の顔が上がる。
「!」
相川の前にさらされた慎二の顔は確かに歪んでいた。だがそれは恥辱からではない。頬が僅かに膨らみ、唇を固く結んで閉じていた。何かに耐えるように目を細めている。
「くっははは。あはははは!」
相川の驚く顔を見て、慎二は耐えきれなくなった。我慢していた笑いが噴き出る。
「ホントだ。あの人の言うとおりだ。みんな下衆だよ。西條も相川君も。自分より弱いと信じてる者にしか威張れない。せいいっぱい虚勢を張って、それで満足してる」
「
慎二の髪の毛が引っ張られる。そのまま地面に引きずり倒そうというのだ。だが相川の腕はあっさりと慎二に振り払われた。
思いがけない慎二の反撃に、相川はバランスを崩した。よろけて倒れそうになる。
「あははは。間抜けだね!」
相川はなんとか倒れることを免れだが、踏み止まったその姿は滑稽だった。
頭脳明晰、スポーツ万能を旨としてきた彼には許されない失態だ。それを引き起こした
「ふざけるな!」
相川は慎二の襟元を掴んだ。そして植木へと押しつけて顔を殴る。
「!?」
だが拳は振り抜かれることはなかった。慎二の顔に当たる寸前で止まっていた。
「無駄なんだ」慎二は相川をまっすぐ見つめている。「もう、今までの僕じゃないんだから。変えるんだよ。これから、変わるんだ」
慎二の瞳の色が変化した。黒と茶色の瞳から、真っ赤な深紅の瞳へと。
「!!!!!!!」
声を上げようとして出ないことに相川は気づく。声だけではない。体のすべてが彼の自由にならない。動画を一時停止したときのように、殴ったままの姿勢で固まっていた。
相川の背筋に冷たいものが走った。目の前にいる慎二は彼が今まで見下してきた同級生ではなかった。人間離れした赤い瞳。動かない自分の体。埒外の出来事に相川の理性は崩れようとしていた。
慎二はゆっくりと、相川の額を掴んだ。
相川の瞳に恐怖が浮かぶ。
「その目。いいね」
慎二はくすりと笑った。その瞳が光を放つ。
「!!!!!」
相川の体が震えた。肉体的にではなく精神的に、何かが自分の中に侵入して来る感覚。今まで感じたことのない感覚が、相川の意識を揺さぶった。
唯一自由に動く眼球を使い、相川は慎二を見つめる。哀願を込めて。
「まぁまぁ、だね。君の感情にしては上等な方だ」
相川は自分の中を掻き回され何かが引っ張り出される感触に、気が狂いそうだった。彼の頭の中に、赤いアメーバー状のものに自分の体が溶かされていく映像が浮かぶ。
相川の目が虚ろになった。
慎二は手を放した。相川の体が崩れ落ちる。慎二は倒れた相川の髪の毛を掴むと、顔を自分へと向けさせた。
相川は怯えていた。物心がつく前の子供のように無防備に、恐怖の表情を浮かべて、怯えていた。彼の目にあるのは理性よりも恐怖。
「心配しなくていい。殺したりしないから。いくら君たちが下衆でも、そこまではしない。僕は莫迦じゃないからね」
また、慎二はくすりと笑う。そして頭を無造作に放した。相川はそのまま地面に頭を打ちつける。
慎二はそんな相川を一瞥して、その場を去っていった。瞳の色はすでに元に戻っている。
取り残された相川は、体を丸め自らの肩を抱き震え出した。慎二の赤い瞳が怖かった。