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三ノ章乃壱

「昨日。結局、何も買わなかったな」

「…………」

「買いたいものがあったんじゃなかったのか」

「…………」

「あのあと何軒まわったっけ?」

きょうちゃんしつこい! しついこい男は嫌われるんだぞ」

 雪葉ゆきははうんざりしたように言った。

「嫌われてけっこう。どうせ俺は巨乳好きだからな」

 不貞腐れたような京也きょうやの声。家を出てからずっとこんな調子だ。今朝、京也の機嫌はすこぶる悪かった。

「もうっ。起きないのが悪いんじゃない。いつもなら、あの引出しを漁るフリするだけで飛び起きるくせに」

 今朝、いつものように起しに来た雪葉が、調子に乗って京也の聖域である引出から、彼の男の甲斐性の一つを引っ張り出してしまったのだ。京也の機嫌が悪い理由はこれだった。

「起きたぞ、俺は!」

「起きてない」

「起きた。お前、わざと気づかなかったろ」

 そう。京也は確かに起きた。但し、いつもよりも五秒ばかり遅かった。その五秒が明暗を別けたのだ。

「だいたい、お前には恥じらいというものがないのか。普通、あんなにじっくり見るかぁ?」

「な、なによ。たかがDVDのパケじゃない」

 雪葉の顔が赤い。今朝の事が思い出される。

 引き出しの奥に、隠すというより無造作に置かれた紙袋。それは浜崎に渡された例の〝映像資料〟がいくつか入っていた。雪葉はその一枚をなんの気なしに取り出したのだ。

 まるでグラビアアイドルのようなポーズのパッケージ写真。しかしそこに写っているのは裸の女性。それも巨乳だった。

 だがそれを雪葉はじっくり見ていたわけではない。思わず手にとったまま固まってしまったのだ。

「めぐっちゃん、ホンモノ見たことないくせに」

「なんだよ。じゃあ、お前は見たことあんのかよ」

 一瞬、雪葉が返答に詰まった。

「あ、あたし女の子だもん。そんなの自前で持ってるわよ」

 そしてその場の勢いでわけの分からないことを言う。

「へぇーほーはー」

「なによ」

「どうみても、育ってないよなぁ。絶対違うよなぁ」

 売り言葉に買い言葉。京也の口から出たのは勢い任せの皮肉だった。

「!」

 瞬間、雪葉の平手が飛んだ。京也の頬が小気味よい音をたてる。回りを歩いていた生徒たちが思わず足を止めて振り返った。

「京ちゃんの莫迦! あたしの見たことないくせに! ホントはすごいんだかんね」

 悲しい男の性でなにがどうすごいのかを想像してしまい、京也は思わず赤面する。そしてそれを隠すかのように慌てて口を開いた。

「そ、そんなの――」

芹沢せりさわ先輩。おはようございます」

 突然、京也の言葉を遮るように慎二しんじの声が割り込んできた。

時田ときた君?」

「朝から元気ですね」

「!」

 先程までの会話の内容を思いだし、雪葉は顔を真っ赤にした。いろいろと余計なことを叫んでいた気がする。充分過ぎるほど周りに聞こえているだろう。

「おおお、おはよう」

 動揺している雪葉の姿を見て慎二はくすりと笑った。落ち着いた感じのする、どこかおとなびた笑い方だ。雪葉を見る瞳がやけに優しい。

 まっすぐ見つめられていることに気づいて、雪葉はどぎまぎした。いつもなら慎二相手に慌てることなどない。だが、京也との会話の内容を聞かれたかもしれないという思いが雪葉を軽いパニック状態に陥れていた。思わず助けを求めて京也を見る。

 京也はどことなくホッとした表情をしていた。あのまま会話が続けば、自分はもっと、とんでもないことを言い出したかもしれない。それが、慎二の登場によってうやむやになったのだ。

 そのホッとした表情が、雪葉には面白がっているように見えた。途端、さきほど湧いた怒りが再び込み上げて来る。

「時田君、行こ」

 腹いせとばかりに京也を無視して、雪葉はすたすたと歩き始めた。その後を慎二が追う。

「…………」

 会話の流れから改めて声をかけることができずに、京也はひとり取り残されてしまった。半ば呆然として二人の後ろ姿を見ている。

 雪葉の横で慎二が何かを話していた。それに答えるのは怒ったような雪葉の横顔。多分、京也のことを話しているのだろう。

 慎二が後ろを振り返った。その瞳は京也を見ている。睨み付けるような視線。眼で京也を射貫こうとするような強い視線。

「?」

 突然の敵意を向けられて、京也は戸惑った。慎二とは何度か会ったりすれ違ったりしたことはあるが、敵意を向けられたことなどなかった。あいさつをされたことはあっても睨み付けられたことはないし、そうなるような覚えもない。

 ふと、慎二の視線が和らいだ。笑ったのだ。眼を細め、口の端をつりあげて。それはどこか勝ち誇ったような笑みに見えた。瞬間、慎二の瞳の中に光が灯った。赤い光が。

「!?」

 慎二はすぐに雪葉へと顔を向けてしまった。だから京也には、いま見たものが本当だったのか確認することはできなかった。

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